Tefu_Tefu の回答履歴

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  • 無と有

      1.人は生きている間は有であり、死んだ後は無になる。 2.人は生きている間は有であり、死んだ後も有である。 3.人は生きている間は無であり、死んだ後に有になる。 4.人は生きている間は無であり、死んだ後も無である。 常人(ふつうの人)の考えは1であると見なして間違いない。 イスラムの教えは3である。ヒンズーもイスラムと変わらんので3である。 彼らはこの世は仮の世界であり、真の世界は死んだ後にやって来るとゆーております、だからジハード。 では仏教(仏の教え)は何と説いておるのか。 一つはっきりさせよーではないか。  

  • 無と有

      1.人は生きている間は有であり、死んだ後は無になる。 2.人は生きている間は有であり、死んだ後も有である。 3.人は生きている間は無であり、死んだ後に有になる。 4.人は生きている間は無であり、死んだ後も無である。 常人(ふつうの人)の考えは1であると見なして間違いない。 イスラムの教えは3である。ヒンズーもイスラムと変わらんので3である。 彼らはこの世は仮の世界であり、真の世界は死んだ後にやって来るとゆーております、だからジハード。 では仏教(仏の教え)は何と説いておるのか。 一つはっきりさせよーではないか。  

  • 仏教の基本について教えて下さい。

    これまで私は、仏教とは、仏(ほとけ)=おシャカ様(釈迦如来)=ゴータマ・シッタータといいう、「三位一体説」の一神教だと思ってきました。 ところが、うちの宗派(真宗大谷派)の本尊は釈迦如来じゃなくて阿弥陀如来だと聞いて、よく分からなくなってきました。 しかし、うちの菩提寺のお坊さんは、葬祭の時の説教でお釈迦様がどうのこうのって話をしますが、阿弥陀様がどうしたとかって話は聞きません。 他にも釈迦には、生まれてすぐ立ち上がって唯我独尊と言ったとか、極楽から蜘蛛の糸をたらして悪人を救済しようとしたとか、逸話がいろいろありますが、阿弥陀の逸話は聞いたことがありません。 如来になる前の釈迦がシッタータであったように、如来になる前の阿弥陀はどんな人だったのでしょう? そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 また修行中の仏が菩薩で、こちらも弥勒菩薩や地蔵菩薩など何人もいるようです。 つまり、シッタータを初め様々な「仏」がいて、修行してある者は如来になり、ある者は未だ菩薩だということでしょうか? そうなると、結局仏教って多神教なのでしょうか? あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?

  • 大学で哲学を専攻している者です。

    私は今、東京の大学で哲学を専攻しています。1年浪人して滑り止めで合格した大学です。正直、滑り止めですし、哲学など興味はありませんでしたが、授業を受けたり、先輩などから話を伺って物事に対する考え方を学ぶことに興味を持ち始めました。しかし、もともと私は 将来 化粧品会社やアパレル会社への就職という夢がありまして経営や経済学部を目標に大学受験していました。今となっては哲学科に入学してしまっていますが、元から定めていた夢も諦めたくないので、なんとか哲学の知識を化粧品やアパレルへ役立てたいと考えています。そこで、哲学の中で美学 というものがありまして、それを生かせることが可能ではないか?と思いました。また、現代には不可欠だと思いますし、私の夢にも必須でありますので、英語のスキルをあげたいと思い留学を考えています。しかし、私の大学では語学を学ぶために行くとなると休学扱いになり、実質私は浪人していたため2年就職活動に遅れるという形になります。また、経済的に親にも在学費の負担もかけたくありません。そこで休学扱いにならずに留学するには、自分の専攻 哲学を学びに留学しなければなりません。 とにかく、質問をまとめますと、 1.哲学 美学のどういう内容の知識で化粧品、アパレル関係へ役立つことが出来るのか。 2.留学では本格的に、語学に打ち込む方がいいのか、それとも哲学 美学専攻の知識を留学先の大学で習得すべきか。 です。 もちろん、化粧品、アパレル関係特有の知識は接客業などアルバイトなどを通して学びたいと思っています。 ちなみに、留学先はカナダのマギル大学を希望しております。 ご回答よろしくお願いします。

  • 大学で哲学を専攻している者です。

    私は今、東京の大学で哲学を専攻しています。1年浪人して滑り止めで合格した大学です。正直、滑り止めですし、哲学など興味はありませんでしたが、授業を受けたり、先輩などから話を伺って物事に対する考え方を学ぶことに興味を持ち始めました。しかし、もともと私は 将来 化粧品会社やアパレル会社への就職という夢がありまして経営や経済学部を目標に大学受験していました。今となっては哲学科に入学してしまっていますが、元から定めていた夢も諦めたくないので、なんとか哲学の知識を化粧品やアパレルへ役立てたいと考えています。そこで、哲学の中で美学 というものがありまして、それを生かせることが可能ではないか?と思いました。また、現代には不可欠だと思いますし、私の夢にも必須でありますので、英語のスキルをあげたいと思い留学を考えています。しかし、私の大学では語学を学ぶために行くとなると休学扱いになり、実質私は浪人していたため2年就職活動に遅れるという形になります。また、経済的に親にも在学費の負担もかけたくありません。そこで休学扱いにならずに留学するには、自分の専攻 哲学を学びに留学しなければなりません。 とにかく、質問をまとめますと、 1.哲学 美学のどういう内容の知識で化粧品、アパレル関係へ役立つことが出来るのか。 2.留学では本格的に、語学に打ち込む方がいいのか、それとも哲学 美学専攻の知識を留学先の大学で習得すべきか。 です。 もちろん、化粧品、アパレル関係特有の知識は接客業などアルバイトなどを通して学びたいと思っています。 ちなみに、留学先はカナダのマギル大学を希望しております。 ご回答よろしくお願いします。

  • 「何のために生きてるの?」

    ←簡単に答えられない人が増加中 ということは、 今の世の中はどうなってきていて、 今後どうなると思いますか? で、 何のために生きてるの?

  • 「賭け」について。

    「賭け」について思うことを教えてください。 私はこう思います。 「全ての決断は原理的に賭けである。 しかし、本命狙いだけではつまらない。 では、いつ、何で大穴を狙うかが問題である」

  • 殺生について。助けてください

    人間は躊躇いなく虫を殺したり動物実験を行ったり普段から生き物を食べたり、たくさんの命を奪っています。 殺生は悪とされていますが、それをはじめに決めたのは自分が殺されたくなかったから、ではないですか。 善や悪というのは人が決めたものです。 普段牛や豚を食べている人が動物実験に強く反対をしていることがありますが、殺される側にとって理由なんて関係なく命が奪われるのは一緒です。 殺しは悪で、どうしても殺す場合には合理的な理由が必要だというのは、そう言わないと生き物をむやみに殺すことになってしまい人間に都合のいい自然が壊れてしまうからと、やはり人間が決めたことだと思います。 本当は動物は他の命を奪いながら生きていくのに、人間は人間だけの平和を求めて勝手に殺生を悪としました。 私は他の生き物を平気で殺す人間に恐怖を覚えました。 自分も今まで多くの命を奪ってきたのでこのように正当化して考えないと本当に罪悪感に押しつぶされそうになります。 ここ最近このようなことを延々と考えてしまい、答えが出ず、人間は悪だと思って周りの人も怖く見えてしまったりします。 上に殺生は悪ではないと正当化した意見を書きましたがやはり罪悪感はあるし、でも殺さないと生きていけないし、という具合にとても苦しいです。 自分のことを客観的に見たら他の生き物の死など別に興味はなく自分が善良な人間だと思いたいことと、他人が悪に見えてしまい怖くなることに苦しんでいるのかなとも思います。 善悪は所詮人が決めたことだと思いたいのに結局はその感覚に囚われていて矛盾していることはわかっています。 とにかく苦しいです。 たすけてください

  • 腐った平和

    新聞で見つけた一文です。 「どんな腐った平和でも、戦争よりは良い」 腐った平和とは、具体的にどのようなものを思い浮かべますか?

  • 「人望」とは何か?

    何と何の要素がどうなれば「人望」になるのでしょうか? 人の心を掴んで離さないその極意とはなんでしょうか? 一般レベルでも良いですし、田中角栄とか劉邦とかのレベルの話しでも良いです せめて最低限、持ち合わせていなければ成立しない要素、など何でも良いので思い当たる節を教えてください

  • 始まりと終わり

    始まりには終わりがある 始まりのない終わりはない 終わりのない始まりもない では 始まりとは、終わりの始まりなのだろうか 終わりの始まりだけが始まるとしたならば その終わりは、始まりを必要としない 始まりを必要としない終わりは、終わりではない 始まりが終わりに代わっただけである 同様に 終わりを必要としない始まりは、始まりではない 終わりが始まりに代わっただけである では 始まりと終わりとは 終わりを必要としない始まりと、始まりを必要としない終わりなのだろうか 始まりが終わりを必要とせず、終わりが始まりを必要としないならば 別に、終わりがなくとも始まりは起きるだろう また、始まりがなくとも終わりは起きるだろう 始まりには終わりがある・・・というのは間違っている・・・ どこかおかしい・・? 直してください。

  • カイン再考

     極端な仮説を提出して 再考をのぞみます。  まづやはり先に そのくだりをかかげます。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《4:6 どうして顔を伏せるのか》は 内面の暗い重い闇に落ち入った感じをつたえそうな表現であり じっさい原文は 《どうして顔が落ちているのか》という言葉で表わしているのだそうです。    →【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】No.36お礼欄    http://okwave.jp/qa/q7308621.html  ですが 今回は 形式的なこと・表現技法にかんすることがからんでいるのではないかという・ちょっと人を食ったようなとさえ見られる見方を提出します。  (あ) このカインの物語は カインがどうだアベルがこうだという問題では必ずしもなく そうではなく ひとえに《ひとごろし》という主題を アダムとエワの物語のあとに提示してみせたのだという解釈です。  (い) すなわち聖書記者は 天地創造が終えられたあとの初めに 《善と悪とを知る木から採って食べた》という・おそらく人間の自由意志の主題をあつかった。そのあと ただちに――エワとアダムとは その自由意志を おのれの心にさからったかたちにおいても 発揮することがあると物語ったからにはそのあと ただちに―― 人が人をころすという主題を取り上げた。  (う) だから アベルが遊牧民でカインは農耕民だという違いを要因として取り上げたり あるいは一にも二にも 信仰の問題であってそれは なかなかオモテには出て来ないのだと信仰論で済ませようとしたり さらにあるいは けっきょくカインは 神がアベルの供え物を喜んだが 自分のそれには目を留めなかったところから アベルに嫉妬したのだと説明したりする議論は 解釈に失敗するか もしくは タメにする議論に落ち入るのではないか。  (え) すなわちつまり エワとアダムの事件では 《自由意志には すなおな心とへそ曲がりの心とがある》と理論づけたのだし ここカインの事件では 《その自由意志が みづからのであれ・他人のであれ同じ自由意志を・つまりは自由意志の主体として人間という存在そのものを抹殺することがある》と論じすすもうとしている。  (お) エワとアダムとは へそ曲がりの報いとして エデンの園を追われた。カインは  ▲4:12 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  ▲4:15 ~~~~~~~~~~~~~~   主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったように捌かれた。この結果をもって ひとが人をころすことがないようにとされた。      *  ブレインストーミングのごとく 思いっきり自由なご見解をどうぞ。  言わなくてもよいと思われますが フルボッコのご批判をどうぞ。

  • 同じ穴のムジナ?

    哲学じゃ無いかも知れないのですがよろしくお願いします。 価値観は違うが真っ当に生きている人間A、Bがいたとします。 ある時AがBの生き方を否定する発言をしました。 それを聞いたCが「人の生き方なんて人それぞれなのだから生き方を否定するのはおかしいんじゃない?」とAの発言を批判しました。 するとAはCにこう反論しました。 「人の生き方を批判するのも私の人生だ。それを批判するのはおかしいんじゃない?」 この場合AとCは同じ穴のムジナなのでしょうか?

  • お釈迦様の言いつけを実践したら孤独になった

    お釈迦様の逸話で従兄弟で弟子でもあるイケメンのアーナンダが 「女性が言い寄ってくるので困る。惑わされたら戒律に反するから」 というようなコトを相談したら、お釈迦様が 「話すな」とアドバイスしました 次にアーナンダが「それでも話しかけられる」と相談したところ 「聞くな」と 「それでも・・・」には「考えるな」、最後には「見るな」という風に仰ったと瀬戸内寂聴さんの本に書いてありました 煩悩を消すのは難しいので根本から断つのも手段だよ、というようなコトが書いてありました 私は「なるほどな」と思い 友達関係、職場での人間関係で人の言葉に内心イラついたり、言いがかりのような気持ちが沸き起こる時があり、そんな自分の邪心が嫌だったので 「それだったら、あの時のお釈迦様のお言葉通りに、実践してみよう」と思い 関係を徐々に希薄にしていきました するとどうでしょう・・・ 寂しくてしょうがないのです 毎日過ごすのに覇気が無くなり、生きてるのか死んでいるのか分からないようなクラゲのような心持ちになってしまいました そこでデタラメばかりだって耳を塞いだら何も聞こえなくなってしまうし、目を閉じれば何も見えなくなってしまうのではないか? と思うようになりました お釈迦様の最初に仰った「見るな、聴くな」の真理は一体どこにあったのでしょうか? また私のとった行動の結果、確かに倒れそうなほど寂しくはなったのすが、これは本当に失敗だったのでしょうか? 失敗なら正解はなんだったのでしょうか? よろしくおねがいします

  • 人を許したいが出来ない

    生きていると嫌いな人に会います 許すのが一番良いと分かっているのですがプライドが邪魔してか、狭量のせいか、どうしても出来ません どういう心持ち、考えをすれば許すコトができるでしょう? その人間を思うと怒りや憎しみがメラメラ沸いてきてしまい。不幸になれば良いんだと、不遜な考えが浮かんできてしまうのです・・・

  • 自由意志ってなんですか?

    「人間のすべての行動は、資質と環境と、体験の結果、行動は決まる」 故に、人間に自由意志なんてのはないっ!! これは純然たる事実である。 の問題点ってなんですかね? 個人的には、この事実は誤解されやすいので、公言しづらいというのはあるかと。

  • 川端康成の掌編小説 《神います》より問います。

     先に論点をかかげます。  表題ないし主題は 《〔日本人にとってのと言ったほうがよいのかどうか・・・〕神がいた。見つかった》というような内容ですが 論点としては こうだと思います。:    (α) 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。そんなことは ほんとうには 出来ないことだと主人公ないし作者は言っているようなのだが。  (β) 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるか。  (γ) 《傷つけ得る》として そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に赦しを求めること》は すべきや否や。  (δ) すべきかどうかを別として そのように《赦しを求める心》は むしろ《驕り高ぶり》であるか。  (ε) 矛盾した問いになるかも知れないが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。  (ζ) 質問者のたたき台としては 《ひとは 人を不幸にしたり傷つけたりすることは ない》です。  もし傷つけられたと感じた場合には それは おのれのへそが曲がっていた(つまりウソ・イツワリをおこなったなどの)そのツケが回って来ただけだと考えます。つまり 自傷行為においてのみ ひとは心が傷つく。と。  他人の言動で こころが傷つくわけには行かない。  ▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~  夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。  湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。   《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》  見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。   《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》  《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。  若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。   《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》   《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》   《さやうですか。》  鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。   《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》  彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。   《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》  鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。   《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》  《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。  (あの少女だ。)  彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。  鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。   《さあ 一ぺん沈め。》  妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。  そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。  泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。  鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。  湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。  鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。   《神います。》  自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。   《神よ 余は御身に負けた。》  彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 鳥屋は 《とや または とりや》として 専門的な用語もあるようですが ここでは《鳥を売り買いする商人》として見ておきます。(異論がありましたら おしえてください)。  思いっきり自由なご見解をお寄せください。

  • 川端康成の掌編小説 《神います》より問います。

     先に論点をかかげます。  表題ないし主題は 《〔日本人にとってのと言ったほうがよいのかどうか・・・〕神がいた。見つかった》というような内容ですが 論点としては こうだと思います。:    (α) 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。そんなことは ほんとうには 出来ないことだと主人公ないし作者は言っているようなのだが。  (β) 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるか。  (γ) 《傷つけ得る》として そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に赦しを求めること》は すべきや否や。  (δ) すべきかどうかを別として そのように《赦しを求める心》は むしろ《驕り高ぶり》であるか。  (ε) 矛盾した問いになるかも知れないが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。  (ζ) 質問者のたたき台としては 《ひとは 人を不幸にしたり傷つけたりすることは ない》です。  もし傷つけられたと感じた場合には それは おのれのへそが曲がっていた(つまりウソ・イツワリをおこなったなどの)そのツケが回って来ただけだと考えます。つまり 自傷行為においてのみ ひとは心が傷つく。と。  他人の言動で こころが傷つくわけには行かない。  ▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~  夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。  湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。   《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》  見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。   《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》  《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。  若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。   《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》   《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》   《さやうですか。》  鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。   《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》  彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。   《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》  鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。   《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》  《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。  (あの少女だ。)  彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。  鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。   《さあ 一ぺん沈め。》  妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。  そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。  泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。  鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。  湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。  鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。   《神います。》  自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。   《神よ 余は御身に負けた。》  彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 鳥屋は 《とや または とりや》として 専門的な用語もあるようですが ここでは《鳥を売り買いする商人》として見ておきます。(異論がありましたら おしえてください)。  思いっきり自由なご見解をお寄せください。

  • 将棋に勝つことの意味

    将棋に勝つことにどんな意味がありますか? 例えばそのチャンピオンは将棋による何の取り柄があって、それが将棋以外のどんな実績を残していますか? 私はそんなものは無いという立場です。そのチャンピオンは将棋以外に何の取り柄も無いでしょう。彼が鍛えたのはそのルールだけに通用する思考力なのであり、他の何の事柄にもそれは活かすことが出来ない、だからそのルール以外の何の実績も残せないのだと思います。 それは、浮世のどんな物事でも同じではないでしょうか。勝敗、物欲、そんなものにこだわって物事の真理が見えるのでしょうか。 おっと、これは脱線しすぎでした。しかし、あえて質問の裏側をお見せすることによって、ご意見も変わってくるのかな、という気が致しますので、残したままでいようと思います。

  • お魚の楽しみとは? 人は他人の気持ちがわかるのか?

    荘子と恵子が池のまわりをお散歩していた時の二人のやりとりです。 荘子「お魚(さかな)さんがのんびりと泳いでいる。これがお魚さんの楽しみというヤツだね」 恵子「君は魚じゃない、どうして魚の楽しみがわかるのよ?」 荘子「お前は俺じゃない、なんでお前は、俺がお魚さんの楽しみをわからない、とわかるんだ?」 恵子「僕は君じゃない、だから君の心の中はわからない。それと同じように、君は魚じゃないのだから、魚の楽しみをわからるはずがないじゃないか」 荘子「話をモトに戻そう。お前が俺に『どうして魚の楽しみがわかるのか』とイチャモンをつけたのは、俺がお魚さんの楽しみを知っていることを、お前が既にわかっていたからだ。俺はお魚さんの心がわかったのだ」  (translated by NemurinekoNya) 人は他者の気持ちを理解することができるのか、という今日でもホットな哲学的な問題です。 さて、 この二人の議論の勝者は、荘子、それとも恵子のいずれなのでしょう? ───書物『荘子』にあるのですから、荘子が勝ったということになるのでしょうが、 わたしは、皆さんの判断を教えて欲しいのです─── 荘子、恵子のいずれの話に説得力を感じますか? どちらの話に共感しますか? そして、 人は他者の気持ちを理解することができる、と思いますか? 二人の議論を純粋な論理の問題としてお考えになられても、 二人のやり取りとは無関係に、「人は他者の気持ちを理解することができるのか」という問題に対する認識論的なアプローチからのお考えでも、何でも結構です。 「わたしの考えるお魚さんの楽しみ」であろうが、ペットの楽しみであろうが、結構です。 お考えを、わたくしに教えてください。 よろしくお願いします。 ちなみに、原文は ───────── 『荘子』秋水篇 13 莊子與惠子遊於濠梁之上。 莊子曰、「儵魚出遊從容、是魚樂也。」 惠子曰、「子非魚、安知魚之樂?」 莊子曰、「子非我。安知我不知魚之樂?」 惠子曰、「我非子。固不知子矣;子固非魚也、子之不知魚之樂全矣。」 莊子曰、「請循其本。子曰『汝安知魚樂』云者,既已知吾知之而問我、我知之濠上也。」 ───────── です。