atomonados の回答履歴

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  • どうして左翼じゃないのに自衛隊を疑いの目で見るの

    >>訓練では薬莢を拾い集めて数を合わせないといけないから、撃った後、目で薬莢の行方を追うクセがついている。 >>「薬莢を目で追うな」ということを徹底させるのにずいぶん苦労した。 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/y/14/index2.html >>なぜ、実弾の管理が厳格かというと、たとえばこっそりポケットに持って帰ってきて、武器手入れで >>武器庫開けたときに、そいつが鉄砲持って気に入らない奴撃ったりできちゃうだろう? >>時間の無駄じゃないんだよ。 自衛官はみんなお互いを家族として愛しているから名探偵コナンのように誰が売ったかバレなくて証拠も残らない条件が整っていても仲間を撃つ人は一人もいません。 戦争中に事件が起きたらただでさえ戦争で大忙しなのに大混乱です。 もしも仮にトラブルメーカーがいたとしてその人は時間のたっぷりある平和なうちにいなくなったほうが合理的です。でもそんな人はいません。 刀狩のように武器弾薬を取り上げて何も起こらない、でなくて、保管庫にあるけど扉に鍵はかかってなくて誰も数をチェックしてない、でも訓練時以外音はしない、それが本当の信頼関係だと思います。 国民は無事故無違反の自衛隊を信じる義務があります。その証として時間の無駄そのものの一個単位の弾薬の厳格管理をやめるべきです。 その人の本質が、自衛隊を疑いの目で見る左翼であること以外に武器弾薬の厳格すぎる数量管理を支持する理由を提示できますか。 左翼思想に染まっていない普通の日本人の率直な考えを知りたいです。

  • イスラム教では、女性は男性より劣る、のですか?

    先日、考古学のカテにおいて、<聖書はユダヤ民族の聖典である。後にユダヤ教と呼ばれ>という質問があり、興味深く読みました。その回答のなかに次の回答がありました。 <ムスリムたちのいう天国も面白いですよね。死んだら美女のハーレムが得られるそうです。そうです、女性でも!それじゃ女性はうれしくないのではと思えば、女性も死んだら男性になれるそうです。> 私も、ムスリムの女性は、天国に行っても、出会えるのが同性では、天国に行くご褒美にならないだろうな、と同情していました。だが、この回答により、とりあえず納得しました。 しかし、よく考えると、次の疑問点が湧いてきました。以下についえ、教えて下さい。 1.現生では、女性は男性より劣る、のですか? 2.そもそも、イスラム教では、女性は教えの対象(範囲)になっていない、のですか?

  • 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

    私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。

  • 無であると分からないことが有である

      ブータン帰りのある人が言ってました。 無であると分からないことが有なんだよねって。 さてどこが間違いなのでしょう。    

  • 人間とロボットの違いって何ですか?

    人間の脳も電気信号で動いていると聞きます。 では電気信号で動くロボットと違いはあるのでしょうか? 私の中では自己進化を続けるものが人間であり、 行えないのがロボットだと思っています。 しかしいつかロボットが自己進化を始めた時、 それは人間、もしくはそれ以上の何かとなるのでしょうか?

  • 聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。

     (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。  (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。  (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。  (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。  (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。  (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。  ▲ (創世記1:1)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001  ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃  ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)  ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)  ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.  ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。  (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。    ○ bara'  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV  (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。  (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。  (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。  (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。  (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。  (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。  (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。  ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~     はじめに ことば(ロゴス)があった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。  (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。  (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

  • 聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。

     (1)  《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。  (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。  (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。  (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。  (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。  (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。  ▲ (創世記1:1)  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001  ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃  ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)  ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)  ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.  ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。  (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。    ○ bara'  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV  (8)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。  (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。  (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。  (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。  (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。  (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。  (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。  ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~     はじめに ことば(ロゴス)があった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。  (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。  (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか?

  • 人間と動物はどう違うか?鯨は?

    人間は動物を殺して食べます しかし人間を殺して食べることは滅多にありません 動物はゴキブリでも牛でも殺してよくて、人間なら赤ちゃんでも犯罪者でも殺しません (戦争は異常事態です) これは人間と動物のどこかに決定的違いがあると思います。 それは精神が在るかないかではないでしょうか? では精神がある人間を殺してはいけない理由 精神のない動物を殺していい理由 鯨には精神は在るのか 在れば殺してはいけないのか? その理由を短めにさっくり説明して頂けないでしょうか? もし人間を殺して食べてもいいと言う事になると これは事ですぞ。 どうかよろしくお願いしますm(_ _)m

  • 「なぜ戦争は無くならないの?」にどう答えるべき?

    教員です(主に図画工作)。先日、教え子達から【先生、地震や洪水で大勢の人が死んでいくのに、どうして人間同士でわざわざ殺し合いまでするの? 第二次大戦のころは日本とアメリカが殺し合っていたんでしょ? 今でも紛争地帯があったり危なそうな北朝鮮の事もニュースで見たよ。ねぇ先生、なんで戦争は無くならないの?】ときかれたのだが、小学校高学年の彼らに対し、自分なりに知っている範囲の事(例:昔はね家族単位で殺し合っていたんだよ。でね・・・だからなんだよ。みたく)を彼らに説明したところで、そのイメージが伝わるか不安なので、現在のところ【わりーわりー。今ここで、ちゃんと説明できるかわからんから、少し待っといてや!】と私は言い保留にしてもらいました。さて、もしお時間がありましたら、小生に(もし可能であれば)小学校高学年用の模範的回答を「道標的ポイントのみ」でも構いませんので『何か哲学的ノリで紹介』して頂けないでしょうか? 皆さま・・・。/宜しくお願い致します。 ◎ちなみに:彼らの年齢の一部の者は、私のような「ちょっと変人だけど笑える芸人的先生」が妙に好きなようで、他の先生には聞かないような《事の核心を見つめるブッチャケ好奇心による質問》を、何故かズバッと私にしてくるのである。それはひょっとすると、約20年間教育以外の業界で働いてきたゆえの、笑える体験ネタ談話に実は無意識のうちに生きる上で有益な要素が含まれているからなのかもしれない。//ちなみに、私の即興による「キャット・ダンス」はほんの10秒位なのに、奴らは大笑いしていやがる(にゃろ~~!怒^^)。私は、ただちょっと息抜きにフザケているだけのつもりなのだが・・・今度ビデオでもこっそり録画して観せて欲しいものだ。ハハハ 笑)

  • ひたすら、待つ

    「ひたすら、待つ」 仕方無いのか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 《光あれ》という命令法は どういう実態か

      ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃   ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).   △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。  1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。  2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。  3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。  4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?  5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。  6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?  7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。  8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?  10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?  11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

  • 【人生】不快なモノを排除し続けると最後に幸福だけが

    【人生】不快なモノを排除し続けると最後に幸福だけが残るとは思えません。 不快なモノを排除し続けると最後に何が残ると思われますか?

  • 日本人は互いに《相互内在的に関係しあっている》か

     ▲  S・N・アイゼンシュタット:『日本 比較文明論的考察』  梅津 順一ほか訳 2010     http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/024226+/top.html#01  ☆ この本の訳者解説に次のようなくだりがあります。そこから問いを持ちました。  ▲ (梅津 順一:訳者解説) ~~~~~  (あ) 著者は 日本語の《基礎的な存在論的概念》・・・に注目する。  (い) 《基礎的な存在論的概念》として たとえば《自然と文化》を挙げれば 西洋で明確に区別される《自然》と《文化》が 日本では《相互内在的に》関係しあっている。  (う) あるイギリス人霊長人類学者は 日本人が実験動物のサルのために 人間並みに供養を行なうことに驚いたというが これは人間の魂(文化)とサルの魂(自然)を区別しないことを示唆する。・・・  (え) 日本の人格概念では 《個人の人格は社会関係あるいは社会的文脈に深く組み込まれていると考えられ かなりの程度 そうした文脈の中での自らの位置によって定義される》。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ きわめて断片的にわざと引用しています。  (お) 引用文中の(う)の《人間の魂(文化)》としているところは 何だかおかしいように思えます。魂と文化とが照らし合わせるようなものであるのかどうか。――ですが これは いま措いておきます。次の指摘を論点としたい。  (か) お前とおれとが 《相互内在的に関係しあっている》〔(い)〕のであり この関係がさらに広く《社会的文脈に深く組み込まれている》〔(え)〕ということ――この特徴をここで取り上げ 果たしてそうなのかを問い求めたい。  (か) その《社会的文脈の中での位置づけ》が わたしたちそれぞれのあたかも存在意義のごとくはたらいている。のであろうか?  (き) そして単位体として任意のふたりを取り上げるなら そこにマジハリ(交通)が起きたなら その人間どうしの間には《相互内在》としてあたかも以心伝心(または ミラーニューロン現象)が成っているのであろうか?   (く) この相互内在は 気持ちなのか? いわゆるクウキなのか? 情感なのか? 理知的な相互了解なのか?