owlsjp の回答履歴

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  • 場合によっては、理性的=都合の良い人、損ですか??  理性的=大人、感情的=子供の筈が……………………。

    以下は、私の友人S氏が述べていたこう述べていた事柄ですが。 如何なものなのでしょうか?? 本来はこうですよね。 一般的に、 「理性的=精神的に大人」、 「感情的=子供(精神的に幼い)」 とされていますが。 実態としてですが、彼は場合によっては矢張り一概に言えない、その通りであるとは限らないように思うそうです。 私も一理ありそうに思えなくもないですが。 何故ならですが。 最近の彼は、物事をやたら深く追求したせいもあってか、渦に巻かれて抜け出せませんとの事です。ノイローゼなんですかね? 死にたいぐらいイライラする時もあるみたいで。 前記したオーソドックスなものとは対照的に、こんな場合ありませんかね??普通に。明らかにです。 感情的、すぐに泣く = 理性的な相手から我儘を聞き入れて貰える、仕方無い子だと黙認され、許容されているから、もう誰からも「子供」だなんて言われたりしない、うまく理性的な人を利用する。 だから大人びた賢さ(要領の良さ)を持つと言う事になる。 理性的、冷静で大人びている = すぐ泣いたりするような相手に振り回される、うまく利用されざるを得なくなるから、都合の良い人間となる。 だから「単純」、「子供」だなんて謗られたりする。 突拍子もなく感情的になった時は、すぐさま「子供」、「幼稚」、「まだまだだな。」 等と言われて諭されてしまう。 でも何だかんだ言って、 感情的=愚かで子供、 理性的=冷静で大人、賢い ですか?? そうとも限らないかと思いますし、物事には側面がありますね。 感情的=要領が良い、理性と知恵は子供並だが、違う意味で要領が良い、 理性的、我慢強い=都合の良い人間なので損をしやすい、単純、ある意味子供、我慢強いってだけの面では大人 なんですか?? 皮肉なもので頭に来ませんかと思います。 と言いますか、どちらが寧ろ得なんでしょうか??この俗世では感情的で大胆な方が良いのですか?? 私は特に大した経験ありませんが、ドラマや漫画のシチュエーションには飽き飽きしますね。 理性的で冷静=扱いやすい、 感情的ですぐに泣く=ずるい を補足しておきます。 俺が何に腹を立てているか、もう御解りでしょうかね? 確かに扱い難いのも子供だから、子供が得するのは当然かと思いますが。 本来、 理性的=大人、 感情的=子供 の筈が、 まるで、そう、 「感情的=子供」、 「理性的=子供の玩具」 みたいではないでしょうかと。 如何?? 彼(友人S氏)は、以前、他所の掲示板にこのような事を書き込んだ時に、「貴方は深く拘って追求すると言うどころか、幼稚ですよ。」 とか言われて、半分怒ったようにこう言っていました。 「ふう。これらは世に書かされて書いたようなものなのに、俺が何に腹を立てて書いたか、まだ御解りでないのか。鈍い奴は多いし、心豊かでない奴も多いな。チャラチャラしてるからだろう。テレビやバラエティ雑誌ばかりでなく、俺みたいにもっと本を読めやって話だ。人間成長には読書、特に世界の文学や、心理学からだと思うぞ。」 等等。 では回答を御待ちしております。 ああやって深く考え出すと、まるで矛盾だらけで答えが出ず、渦に巻かれて当分抜け出せなくなると、彼も迷っているようですので。

  •  ゼノンの・・いや、ンノゼのパラドクス??

     ンノゼは考えました。  アキレスと亀がゴール地点をスタート地点として競争を始めたら?と。  亀がA地点に着いたとき、アキレスはB地点に着いていました。  亀がB地点に着いたときには、アキレスは遥か彼方のF地点にいました。  こうして考えていくと、いつまでたってもアキレスと亀の差は広がっていくばかりです。  結果として、広がり続けるばかりで、限界はないということになります。  ゼノンのアキレスと亀のパラドクスは、ゼロにたどり着けないことを証明し、ンノゼのアキレスと亀のパラドクスは、限界に到着できないことを証明しています。  この宇宙には限界はないということではないでしょうか。  何か変なところありますか。  偉い人間からの・・いや、ちがった。エロい人間からの質問です。  ばかばかしいと思われても、ぜひ回答してください。お願いいたします。

  • 物質転送機に置ける生死について質問です。

    SFっぽいですが、哲学な質問です。 ◆設定 物質転送機が出来たとします。まず、この機械では人を一旦分子レベルまで分解します。そしてある地点にデータを送り、そこで全く完璧に再構築します。この装置は優れた装置であり、記憶も再生されるように作られてるとします。 ここで再生される人は科学的には間違いなく本人です。だって分子レベルで100%同じですから。 しかし果たしてこれは本人と言えるのでしょうか?考えた所非の打ち所が特に見つからないのですが、死んだ人間が生き返った事になるので、ある種の違和感を個人的に感じています。

  •  アキレスと亀の競争・・・パラドクス(逆説)

     哲学カテのファンなら知っている人も多いかと思います。私は最近知りました。  ゼノンという人が提唱したとか。  足の速いアキレスが、百メートル後からのろまな亀を追いかけるとします。アキレスが亀に追いつくためには、まず亀の最初のスタート地点に辿りつかねばなりませんが、そのときには、それにかかった時間の分だけ亀は前進しています。今度はその差の分だけアキレスは進まねばなりませんが、やはりまたその分だけ亀はさらに前進しています。こう考えていくと、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけないことになるのです。(日本文芸社刊・図解世界の哲学・思想=小須田健著)から引用しました。  現実には亀はアキレスに追い抜かれてしまうわけですが、この理屈に従うと、アキレスは亀を追い抜くことは出来ないのです。  どこか変ですよね。  このパラドクスは、今日に至るまで解決されないままに残っています。と、この著者は言っています。  そこで質問です。  このパラドクスの「何か変」は哲学の世界では今でも解決されないままに残っているのでしょうか。  それとも、いやいやもうすでにだれそれという人が解決した、という問題なのでしょうか。  それからもし、未解決であるならば、我こそはという人の考えを聞かせてほしく思います。  どこが変なのかを。  実は私は、何が変なのか、気づいたのです。(たぶん当たっていると思います)  でもその前に皆様の答えを聞いて見たいのです。  よろしくお願いいたします。

  • 何故人を殺してはいけないのか?

    頭が悪いので考えても分かりませんでした。 仕方ないので、いけないからいけないって事にしてる訳ですが、ここは偉い人ばかりなのでやっぱり違うんでしょうね。 ちなみに宗教的見解は勘弁してください。。(汗)純粋な哲学的証明が聞きたいのでよろしくお願い致します。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 第三者や他者

    今、主張や意見等の批判的及び否定的な表現、おっしゃる内容に関しては通用してない現時点の次元でとの事でしょうか。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 心とは、すべてなんだ

    自分で考えるべき問題なのですが、考えてもわからないので教えてください。哲学の著書を書いている池田晶子さんの「14歳からの哲学」の「心とはどこにある」の章で次の文が出てきます。 心なんてどこにもない。だって、君が悲しい気持ちでいる時、その悲しい気持ちはどこにあるだろう。頭にあるものでもなくて、ただ悲しいという気持ちが明らかにあるだけじゃないだろうか。いつもの友達の顔をみても悲しいし、どこかへ出かけても悲しい。その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくさせているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ。 の、心とは、すべてなんだ。以後がよくわかりません。   宜しくお願いします

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 心とは、すべてなんだ

    自分で考えるべき問題なのですが、考えてもわからないので教えてください。哲学の著書を書いている池田晶子さんの「14歳からの哲学」の「心とはどこにある」の章で次の文が出てきます。 心なんてどこにもない。だって、君が悲しい気持ちでいる時、その悲しい気持ちはどこにあるだろう。頭にあるものでもなくて、ただ悲しいという気持ちが明らかにあるだけじゃないだろうか。いつもの友達の顔をみても悲しいし、どこかへ出かけても悲しい。その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくさせているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ。 の、心とは、すべてなんだ。以後がよくわかりません。   宜しくお願いします

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。