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  • 第三者や他者

    コミュニケーションが執れない、いわゆる連絡手段を確保出来ない結果は自業自得という事でしょうか。

  • 信仰義認説と絶対他力について

    ルターの信仰義認説は「意図的な行為によっては救われずただ信じることでのみ救われる」という点で親鸞の絶対他力と似ている、という認識に誤りはあるでしょうか? 宜しくお願いします。

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

  • 坐禅 仏教でいう悟り 

    数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。 悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。 それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。 私のように思われている方いらっしゃいますか?

  • 坐禅 仏教でいう悟り 

    数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。 悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。 それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。 私のように思われている方いらっしゃいますか?

  • 第三者や他者

    コミュニケーションが執れない、いわゆる連絡手段を確保出来ない結果は自業自得という事でしょうか。

  • 第三者や他者

    意見の違いに耳を傾ける暇人は存在しないという事でしょうか。

  • 第三者や他者

    責任を執って下さいは逆怨みの表現として理解して宜しいでしょうか。

  • 心とは、すべてなんだ

    自分で考えるべき問題なのですが、考えてもわからないので教えてください。哲学の著書を書いている池田晶子さんの「14歳からの哲学」の「心とはどこにある」の章で次の文が出てきます。 心なんてどこにもない。だって、君が悲しい気持ちでいる時、その悲しい気持ちはどこにあるだろう。頭にあるものでもなくて、ただ悲しいという気持ちが明らかにあるだけじゃないだろうか。いつもの友達の顔をみても悲しいし、どこかへ出かけても悲しい。その悲しいという気持ちが、すべてを悲しくさせているんだから、その意味では、心とは、すべてなんだ。体のどこかに心があるのではなくて、心がすべてとしてあるんだ。 の、心とは、すべてなんだ。以後がよくわかりません。   宜しくお願いします

  • 「愛」とは何を表現したものか

    「愛」という表現がありますが、これは実際のところ何に対しての表現なのでしょうか。 生存本能や快楽追及(心理的な環境に対する改善欲?)を総まとめにした詩的表現でしょうか。 親和欲求でしょうか。 それとも、単体で存在する何かを「愛」と仮定しているのでしょうか。 私は、「神は死んだ」という表現があるように、いずれ「愛は死んだ」と言われる時代が来ると思います。 (けれど、現在でも神を信仰する人の他に無宗教者でも都合のよい時だけ神にお祈りし「神」を捨て切れない人がたくさんいるように、もしくはそれ以上に、「愛」が死んだ後も「愛」は生き続ける) 皆さんはどのような認識をお持ちなのでしょうか。 教養無く、思索にも乏しいため質問自体やお礼文がナンセンスであれば早期の終了も考えております。 その場合、ご指摘・ダメ出しいただけると助かります。

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

  • 第三者や他者

    現場に居ないものが現場に居るかのような叉、目前で視てたかのような表現は認められるのでしょうか。

  • 坐禅 仏教でいう悟り 

    数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。 悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。 それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。 私のように思われている方いらっしゃいますか?

  • 坐禅 仏教でいう悟り 

    数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。 悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。 それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。 私のように思われている方いらっしゃいますか?

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

  • 関係の絶対性

     についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。    【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html  のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。  この言葉は 吉本隆明のものです。  ▲ 関係の絶対性   http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm  ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。  この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。  いまわたしが考えているところとしましては こうです。  (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。  ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

  • 浮気は悪か

    【A】と【B】が恋人か夫婦であるとして、あなた(回答者さん)と私は【A】と【B】の友人であるとします。 (“夫婦”が契約関係にあたるのかどうかさえ知らないくらいですので、このことに関して突き詰めて考えておりません) 【A】が異性とセックスをしました。 一般的に“浮気”や“不倫”と呼ばれているものです。 【B】はそれに対する否定的な感情を【A】に表し、あなたと私もその場に居合わせました。 【B】はおだやかな性格で、私はとても好意を持っています。 しかし、【A】が異性と関係を持つこと(これを【S】とします) に対する【B】の否定的な感情は、結局のところ過剰な自己愛と自分本位の独占欲からきており、強いて云えば“悪徳”によるものだと私は感じました。 よって私は【B】を支持する理由を何一つ見出せませんでした。 【A】はあなたと私に言いました。 「私は常に【B】の幸せを願っているし、【B】と幸せを共有できれば一番幸せだ。 しかし幸せの共有というのは聞こえは好いが、実際は独占欲と自己愛によって作られた幻想であることが多い。 実際、私と【B】との関係はまさにそうだ。 今回の【S】によって私が【B】を悲しませたことに矛盾を感じるか? 私は矛盾していないと思う。 私は【B】の幸せのためなら自己犠牲もいとわないことを私が一番知っている。 しかしその自己犠牲が【S】をしないことを指すのだとしたら、私と【B】との関係はたんに【B】の私を独占したいという欲求に私が手を貸している状態、ということになる。 私に【B】を独占したいという欲があるか無いかは問題ではないから言わない。 重要なのは、私が【B】の行動を制限したことがないことだ。 【B】の行動を強く制限したがる人間のほうが【B】を幸せにできるならば私は手を引くだろう。 私は【S】を積極的にしたいと思ったことは一度もない。 誘われて、断る理由がなかったに過ぎない。 それに私は、断る理由の無いことを何年も前から知っていた。 私は、【B】が他の異性と【S】をすることを私が制限する権利は無いと思っている。 それを制限しないことが私の幸せにつながり、私が【S】をしないことが【B】の幸せにつながるのであれば【B】のみが【S】をする権利があるということになることは知っている。 しかし、それでは制限を加えていったものが勝ってしまう。 私が【B】に、“私に制限を加えるな”という制限を加えれば【B】はどうなる? その制限を加えることが私には一番よい。 しかし、加えない。 私の“私に制限を加えるな”という制限の【B】による実現は、いわば世界平和が達成された状態だ。 私の考えに根本的な間違いの可能性があるとすれば、世界平和が永久に達成されないと考えているところ、そして、【B】は世界平和が必要だと考えているけれど私は必要ないと考えているところにあるだろう。 【B】とはよくこの話をするが、【B】は世界平和が達成可能だと考えている。 私は反戦主義者だ。けれどそれが利己主義によるものだと考えている。 世界平和に関しては、自分の考えよりも【B】の考えを尊重している。 自分と違う考えを尊重することが世界平和につながると思ってそうしているわけではない。私は世界平和を望んではいないから。 【B】の考えだから、というわけでもない。 なんとなく、だ。 君の恋人が【S】をすれば君は悲しむのか? 君は、それを悲しまなければならないことには悲しまないのか? 私は【B】の【S】を制限したいかもしれない。 どちらにせよ私は【B】の【S】を制限しなければ、同意に基づくものであればいかなる人の【S】も悪いとだと思わない。 むしろ、好意的な要素以外見出せない。 私は今、とても悲しい」 私は【A】の言い分に矛盾を感じませんでした。 【B】は、【S】を制限することが世界平和に逆行するという点において矛盾します。 世界平和はその一部としてこの二人の平和も意味します。 あなたの感想も聞かせてください。 【A】による【S】が悪とされているのはなぜなのでしょうか。 他に似たような事例はありますか? なお、質問の仕方(お礼を含む)が悪い場合はご指摘いただけると嬉しいです。

  • 坐禅 仏教でいう悟り 

    数年前から神経症(対人恐怖症)になってから仏教に関心をもちました。今では坐禅が一番近道であり、むしろ神経症の解決だけではなく全ての迷いの解決策ではないのかと思っております。だから神経症になったのはむしろ幸運なのかもしれない。 悟りなどというとなにを寝言をと言われる方もいるかもわかりませんが、私は古来から先人が証明してしてますので(先ずはお釈迦さん)あると思います。 それは全く神々しいものではなく、輝かしい世界が現前するのでもなく、ああそうかなるほど!という気づきのようなものだと思います。いくら理屈で説明しても理解できるものではなく坐禅によって悟れるものだと思います。お釈迦さんだってただの歴史上の人間です。2,500年ぐらい前のインドらへんに住んでいたただの人です。達磨さんだってただの人。道元さんだって良寛さんだってただの何年か前にいた日本人ですね。だからね、誰でもできると思うんですよ。悟りなんて言葉がちょっと日本人には胡散臭く感じることもあるんでしょう。私もそうでした。そして今は曹洞宗では坐禅しても何もならない、坐禅が悟りだといってますね。そんなことあるわけないですよ。そんなことお釈迦さんや先人たちが命がけで伝えてきたと思いますか?私はそういう人はただの言い訳としか思えません。または精神安定の為になどと。。そんなものは医者が処方してくれる薬のほうがよっぽど簡単でいい。お経を意味も解らずありがたがったって何にもならないと思うし、先人に笑われます(号泣されます)悟った人は現代にも少なからずいます。坐っている姿が悟りである。などと曹洞宗本部が言ってるから、永平寺の一番偉い坊主が言ってるから正法だなどあまりにも安易だと思います。曹洞宗は改めたくとも、本当のことを説ける人が少なすぎる。世襲坊主の集団でしょうか。それでもまだ坐禅が悟りだというなら、仏教を名乗るのはやめて、坐っている姿が悟り宗に改宗にしたほうが良いと思う。これじゃあ折角苦労されて伝えてこられたお釈迦さんや先人達に。 私のように思われている方いらっしゃいますか?