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  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

     (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

  • 創価系学校や施設出身者に対しての学会員のノルマ?

    数年前、身よりもなく上京した頃、毎日のように親身に接してくれた人たちは創価学会の方でした。 私は彼女たちが創価学会と知ってましたが偏見もなく、また彼女たちも執拗に勧誘してくることも無かったので「何かを信仰出来る人は、心が清らかだなぁ」と好意を持ちました。 ところが、その後お付き合いした人もたまたま創価学会の方だったのですが、恋愛関係がギクシャクしてきた際に相手が非信者だった私を誹謗中傷しはじめ、親身になってくれていた人たちとも急に関係が悪化し、次第に攻撃されるようになりました。 「こんな素敵な人たちが居る学会なら…」と思い始めてたのでショックでした。 一時期、創価に対して否定的でしたが、影で状況をおさめて下さったのも別の学会員と知り、正直よく解らなくなりました。 勧誘などもまったくなく、今は学会と関わりなく過ごしていますが、不思議とピンチの時に力になってくださるのも学会の方です。 ちなみに私は地元の学会系幼稚園を出ていますが、家族も私も地元を離れて非会員です。 学会の方は、学会系の学校や施設を出た人を助ける義務?などあるのでしょうか?

  • 創価系学校や施設出身者に対しての学会員のノルマ?

    数年前、身よりもなく上京した頃、毎日のように親身に接してくれた人たちは創価学会の方でした。 私は彼女たちが創価学会と知ってましたが偏見もなく、また彼女たちも執拗に勧誘してくることも無かったので「何かを信仰出来る人は、心が清らかだなぁ」と好意を持ちました。 ところが、その後お付き合いした人もたまたま創価学会の方だったのですが、恋愛関係がギクシャクしてきた際に相手が非信者だった私を誹謗中傷しはじめ、親身になってくれていた人たちとも急に関係が悪化し、次第に攻撃されるようになりました。 「こんな素敵な人たちが居る学会なら…」と思い始めてたのでショックでした。 一時期、創価に対して否定的でしたが、影で状況をおさめて下さったのも別の学会員と知り、正直よく解らなくなりました。 勧誘などもまったくなく、今は学会と関わりなく過ごしていますが、不思議とピンチの時に力になってくださるのも学会の方です。 ちなみに私は地元の学会系幼稚園を出ていますが、家族も私も地元を離れて非会員です。 学会の方は、学会系の学校や施設を出た人を助ける義務?などあるのでしょうか?

  • 創価系学校や施設出身者に対しての学会員のノルマ?

    数年前、身よりもなく上京した頃、毎日のように親身に接してくれた人たちは創価学会の方でした。 私は彼女たちが創価学会と知ってましたが偏見もなく、また彼女たちも執拗に勧誘してくることも無かったので「何かを信仰出来る人は、心が清らかだなぁ」と好意を持ちました。 ところが、その後お付き合いした人もたまたま創価学会の方だったのですが、恋愛関係がギクシャクしてきた際に相手が非信者だった私を誹謗中傷しはじめ、親身になってくれていた人たちとも急に関係が悪化し、次第に攻撃されるようになりました。 「こんな素敵な人たちが居る学会なら…」と思い始めてたのでショックでした。 一時期、創価に対して否定的でしたが、影で状況をおさめて下さったのも別の学会員と知り、正直よく解らなくなりました。 勧誘などもまったくなく、今は学会と関わりなく過ごしていますが、不思議とピンチの時に力になってくださるのも学会の方です。 ちなみに私は地元の学会系幼稚園を出ていますが、家族も私も地元を離れて非会員です。 学会の方は、学会系の学校や施設を出た人を助ける義務?などあるのでしょうか?

  • マナー間の競合の場合の優先順位

    あるとき、僕は社内食堂で昼食を取っていました。しかし思いのほか混雑しており、僕が頼んだエビフライ定食が出てきたのは昼休みが終わる十分前でした。僕はそれを大急ぎで平らげ、いつも通り茶碗についたご飯粒を箸ですくって一粒一粒食べる作業をしようとしました。しかし、ふと腕時計に目をやるとあと五分程で昼休みが終わってしまうではありませんか。もう社食には僕以外には殆ど人はおらず、僕は舌でそのご飯粒を一気に舐めとってしまおうと考えました。しかし、僕の中にこのとき、ある疑問が浮かんだため、その作業を中止しました。その疑問とは、どのマナーを優先すべきか、ということ。 この場合、三つのマナーがあります。それは(1)ご飯粒を残すことは罰当たりで、残してはいけないということ(2)茶碗を舌で舐める行為ははしたないため、してはいけないということ(3)遅刻をしてはいけないということ さて、僕はどのマナーを優先すべきだったのでしょうか?ちなみに、僕はご飯粒を残しました。

  • 「何かを得たなら、何かを失う。」とこれを今更分からない人はいない筈ですが、如何なものでしょうか?

    これは、満更映画や漫画の世界ではなく、実際でも何故~~か、不思議とそのようになっている感じですよね? 何かに満足すると言う事は、また新たな不満を生み、悪い所を一つ治せば、また新たな欠点が生まれると言う事。 私の友人S氏の場合です。 これから話す内容は、まあ事実ですので聞いて下さいね。 「やっぱり、何かを得たのと引き換えに、何かを失った。」のですよね? 昔のS氏と今のS氏について。 小さい頃のS氏は、 ・明るくて元気が良かった。しかしその頃は、勉強も嫌いで本も読まなかった。不真面目で字も下手。 なので、親や先生から「もっと本をしっかり読め。知恵が付かないぞ。」とか「もっと性根に入れて勉強しよう。」 等と、何度も何度も言われて、諭された。 そして。 高校へ入って、S氏はまるで180度変わったかのように、勉強と読書を好きになり、真面目になって字も上手。大学に入って読書家になったのだが、 その分、まるで代金を支払ったかのように、かなりの人見知りになってしまった。 偶に喋るかと思ってもボソボソとしか言わない。 すると今度は「もっと人とのコミュニケーションを大事にしなさい。」とか「もっと喋らないとやって行けないよ。」 なんて言われて諭されている。 しかし傍らではよく「真面目だねえ。」と褒められる事も屡。 そして就職活動の時も困った。でも消去法で介護施設へ入って黙々と頑張っているので、偶に「もうちょっと声出そうよ。その方が良いよ。」と時々言われる事はあるも、「真面目だねえ。」とよく褒められたりもする。 優しい人が多い職場だし、彼は寧ろ慕われてはいるが。そして今は彼は作家志望。元々は内向的な芸術肌。 如何でしょうか? ・明るくて元気が良かった頃は、反面本とかを全く読まなかった。ゲームと漫画しか能が無かった。怠け者でチャランポランだったので、勉強も運動も嫌いだった。 ・そして思慮深くなり、勉強と読書を好きになったかと思えば、今度は無口で非社交的に。 でも、オマケに合間で筋トレも頑張るようになった。 勉強が嫌いだった頃は、ダラダラとしていた為筋トレもしなかった。 彼の場合はこれです。 「社交性を犠牲に、向学心(好学心)を手に入れた。」と。 しかも満更"言い訳"ではなく、"正当な理由"に値すると、確信している模様です。 「明るくて元気よくて、且つ勉強や本が好き」なんて人は、いたとしても少ないですよね?? 彼の場合は、 「明朗快活で勉強嫌い」か、 「非社交的で勉強家」 のどちらかでないと無理だそうです。 致し方無い事なんでしょうか?如何ですか? そもそも、親や先生が子供達に言う 「本をしっかり読みましょう。」と 「人とのコミュニケーションを大事にしましょう。」は 本来、この2つは矛盾しますよね。相対していると捉えられがちですね。 ですが、一概には言えず、必ずそうとも限りませんが、人によりけりです。 漫画やドラマの世界ではよく、まあキャラの分担が解り易いようにステレオタイプ化されている場合が多いですよね。 「内気な分、本をよく読んでいる。」 「本は読まない分、明るく活発で話し上手。」 「バランス型はいても、片方を極めたら、もう片方を極める時間は無い!!だから、大読書家と、超話上手の両立は無理。」 ですが、彼の場合は、盥回しの渦だったようです。 A.元気が良かったその頃は本を読まなかった。 ↓ B.「本をもっと読もうよ。」と、鬱陶しいぐらいよく言われて諭された。 ↓ C.やがて本を読むようになった。(しかし、オマケにしなかった筋トレ、水泳、ジョギングまでつられて頑張るようになった。それまでは運動もてんで駄目だった。根気が付いたからだろうか。) ↓ D.人と話す事を忘れ、知らずのうちに引っ込み思案に。 ↓ E.「もっと友達作りなよ。もっと喋ろうよ。本ばかり読んでるでしょ。」と親や先生、周囲の人から言われて諭される。 ↓ F.「何て我儘なんだ!身勝手な!あの時、ああ言われたから、ちゃんとやったのに!!」とイライラ病、躁鬱病状態に。 ↓ G.現在に至る。 相変わらず、彼の趣味・特技は、文科系の学問(政治、歴史を除く)と読書と、筋トレと水泳。 理系の学問と球技は相変わらず苦手なままだけれど。 文武を頑張った分、社交性が失われた。 こんなもんですかね? でも基本的な彼の性格は、真面目で几帳面で優しいと、 昔からそのままです。ただ尚且つ頑固、虚勢張りに、神経質~神経過敏になりましたね。

  • 「何かを得たなら、何かを失う。」とこれを今更分からない人はいない筈ですが、如何なものでしょうか?

    これは、満更映画や漫画の世界ではなく、実際でも何故~~か、不思議とそのようになっている感じですよね? 何かに満足すると言う事は、また新たな不満を生み、悪い所を一つ治せば、また新たな欠点が生まれると言う事。 私の友人S氏の場合です。 これから話す内容は、まあ事実ですので聞いて下さいね。 「やっぱり、何かを得たのと引き換えに、何かを失った。」のですよね? 昔のS氏と今のS氏について。 小さい頃のS氏は、 ・明るくて元気が良かった。しかしその頃は、勉強も嫌いで本も読まなかった。不真面目で字も下手。 なので、親や先生から「もっと本をしっかり読め。知恵が付かないぞ。」とか「もっと性根に入れて勉強しよう。」 等と、何度も何度も言われて、諭された。 そして。 高校へ入って、S氏はまるで180度変わったかのように、勉強と読書を好きになり、真面目になって字も上手。大学に入って読書家になったのだが、 その分、まるで代金を支払ったかのように、かなりの人見知りになってしまった。 偶に喋るかと思ってもボソボソとしか言わない。 すると今度は「もっと人とのコミュニケーションを大事にしなさい。」とか「もっと喋らないとやって行けないよ。」 なんて言われて諭されている。 しかし傍らではよく「真面目だねえ。」と褒められる事も屡。 そして就職活動の時も困った。でも消去法で介護施設へ入って黙々と頑張っているので、偶に「もうちょっと声出そうよ。その方が良いよ。」と時々言われる事はあるも、「真面目だねえ。」とよく褒められたりもする。 優しい人が多い職場だし、彼は寧ろ慕われてはいるが。そして今は彼は作家志望。元々は内向的な芸術肌。 如何でしょうか? ・明るくて元気が良かった頃は、反面本とかを全く読まなかった。ゲームと漫画しか能が無かった。怠け者でチャランポランだったので、勉強も運動も嫌いだった。 ・そして思慮深くなり、勉強と読書を好きになったかと思えば、今度は無口で非社交的に。 でも、オマケに合間で筋トレも頑張るようになった。 勉強が嫌いだった頃は、ダラダラとしていた為筋トレもしなかった。 彼の場合はこれです。 「社交性を犠牲に、向学心(好学心)を手に入れた。」と。 しかも満更"言い訳"ではなく、"正当な理由"に値すると、確信している模様です。 「明るくて元気よくて、且つ勉強や本が好き」なんて人は、いたとしても少ないですよね?? 彼の場合は、 「明朗快活で勉強嫌い」か、 「非社交的で勉強家」 のどちらかでないと無理だそうです。 致し方無い事なんでしょうか?如何ですか? そもそも、親や先生が子供達に言う 「本をしっかり読みましょう。」と 「人とのコミュニケーションを大事にしましょう。」は 本来、この2つは矛盾しますよね。相対していると捉えられがちですね。 ですが、一概には言えず、必ずそうとも限りませんが、人によりけりです。 漫画やドラマの世界ではよく、まあキャラの分担が解り易いようにステレオタイプ化されている場合が多いですよね。 「内気な分、本をよく読んでいる。」 「本は読まない分、明るく活発で話し上手。」 「バランス型はいても、片方を極めたら、もう片方を極める時間は無い!!だから、大読書家と、超話上手の両立は無理。」 ですが、彼の場合は、盥回しの渦だったようです。 A.元気が良かったその頃は本を読まなかった。 ↓ B.「本をもっと読もうよ。」と、鬱陶しいぐらいよく言われて諭された。 ↓ C.やがて本を読むようになった。(しかし、オマケにしなかった筋トレ、水泳、ジョギングまでつられて頑張るようになった。それまでは運動もてんで駄目だった。根気が付いたからだろうか。) ↓ D.人と話す事を忘れ、知らずのうちに引っ込み思案に。 ↓ E.「もっと友達作りなよ。もっと喋ろうよ。本ばかり読んでるでしょ。」と親や先生、周囲の人から言われて諭される。 ↓ F.「何て我儘なんだ!身勝手な!あの時、ああ言われたから、ちゃんとやったのに!!」とイライラ病、躁鬱病状態に。 ↓ G.現在に至る。 相変わらず、彼の趣味・特技は、文科系の学問(政治、歴史を除く)と読書と、筋トレと水泳。 理系の学問と球技は相変わらず苦手なままだけれど。 文武を頑張った分、社交性が失われた。 こんなもんですかね? でも基本的な彼の性格は、真面目で几帳面で優しいと、 昔からそのままです。ただ尚且つ頑固、虚勢張りに、神経質~神経過敏になりましたね。

  • 矢張り、「勤勉・思慮深い = 精神的に弱い 」ものですか??完璧は有り得ず、「何かを得たなら何かを失う。」でしょう。

    私の友人S氏が言うこの言い訳は、これは矢張り屁理屈な言い訳?それとも正当な理由に値するのでしょうか? 私の友人S氏ですが、何かあるとやたら物事を深く考えがちになる為、病みやすい質ではあります。 ここで、彼は偶に他の友人や親から一度、 「御前は少し、精神的に弱いところがあるから、もう少しだけ能天気になった方がいいんじゃないか?」 と言われる事があるそうです。 ここで友人S氏は、このように言いますが。これは良い言い訳ですかね?そうなら仕方無い事ではありますが。 「昔、勉強や読書が嫌いだった頃は、拘って深く追求するだけの能も出来ていなかったから、その分、能天気で精神的に強かった。」 と。 確かに、彼は、中学までは勉強が大嫌いで本も面倒がって読まなかった、しかし第2反抗期を終えて180度変わり、受験を控える高校の中途辺りから、勉強や読書を逆に好きになり、哲学や文学に造詣が深くなった、疑り深く、思慮深くなったのも事実です。 今の彼は確かに真面目努力家、勉強家、読書家です。寧ろ生真面目過ぎるところがあります。 では質問しますが。 矢張り、勉強の出来る人、真面目で頭ばかりが賢い人とか思慮深い人は、反面精神的には脆いものなのでしょうか?? ハートは弱いんですかね? そもそも、「何かを得たなら何かを失う。」は正当でしょうし、自然の摂理と言って過言になりませんね。 人間は生きている限り、完全無欠にはなれませんし。 馬鹿は精神的に強い、ストレスが溜まらない、と所詮こんなものなのでしょうか? 「頭も心も強くなろう。」なんてのは、所詮、 「極上の牛肉をコレステロール抜きで御願いします。」 「勉強はしたくないが、赤点を取るのも嫌だ。」 「楽して稼ぎたい。努力せずに優勝、準優勝したい。」 って我儘と同じですかね? これは所謂、欲求の重なりですね。「回避(ー)回避(ー)型のコンフリクト(葛藤)」ですか。 勉強を好きになってから、余計な事まで思慮し、精神的にめげやすくなったと言う理屈は言い訳?正当な理屈? では待っています。 では所詮、大人が子供に言う 1.「勉強頑張りなさい。」「賢い子になりなさい。」 と 2.「心を強くしましょう。」 は、矛盾した事それぞ即ち、我儘を言っているのですかね?? 分身でもしろと言うのでしょうか? 双頭龍やキングギドラ、ヒドラのようなものにでも生まれ変われない限りは両立は無理ですね。 右脳と左脳も同時に開発は出来ません。 バランス型はいても「右脳の天才児」且つ「左脳の天才児」はいませんね。鍛錬する時間も足りないと思います。 「そうだったらいいのにな♪」では、 「キングギドラの左頭が左脳の天才、 右頭が右脳の天才、 中頭が暖かい心の持ち主、 そうだったらいいのにな♪そうだったらいいのにな♪ 」 ではないでしょうか。 人間は完璧にはなれません。 ですのに、「欠点、弱点をわざわざ克服しよう。」なんてそんな事言う事自体が可笑しい、いや無駄な事になるかと思いますが。

  • ルドルフ・シュタイナー宗教刷新について

    アントロポゾフィーの創始者である彼が、 どうして突然、神学についての講義をしたり、 新しいキリスト教の儀式を伝授し始めたり、 キリスト者共同体なるものの設立に加担し、 助言をしたのかが理解できません。(wikiより) 突然頭がおかしくなってしまったのですか? (アーティストなどはよくありますよね) またはアントロポゾフィーと言えど、 実は根っからの敬虔なクリスチャンだった可能性はありますか? ご存知の方、宜しくお願いします。

  • 聖書の神の名前

    聖書を知っている方、聖書の神は誰だと考えますか。 世界には聖書中のいろいろな人物を神として崇拝していますが本当の神はだれでしょうか。

  • 現実と虚構

    現実と虚構があり、創られた物に対して非常に興味を注いだとします。 そうすると現実の人生は破綻してしまうのでしょうか? 虚構も現実の中の一部であり、想像力、または空想が得意な人間にとって虚構で作られた芸術はとても興味をそそるものです。 ゲームは非も多いですが、漫画はすでに文化となっています。 映画も立派な文化です。 そもそもこの場も現実の意見を交わす場とするべきか、単なる(インターネットの世界)虚構とするべきなのか。 生の人間がいる時点で立派な現実と言えると思いますが、オブラートに包まれた部分も多分にあると思います。 ご意見をお聞かせください。 創り手となった場合高レベルだと思えるのですが、現実感がない!

  • 聖書の神の名前

    聖書を知っている方、聖書の神は誰だと考えますか。 世界には聖書中のいろいろな人物を神として崇拝していますが本当の神はだれでしょうか。

  • 現実と虚構

    現実と虚構があり、創られた物に対して非常に興味を注いだとします。 そうすると現実の人生は破綻してしまうのでしょうか? 虚構も現実の中の一部であり、想像力、または空想が得意な人間にとって虚構で作られた芸術はとても興味をそそるものです。 ゲームは非も多いですが、漫画はすでに文化となっています。 映画も立派な文化です。 そもそもこの場も現実の意見を交わす場とするべきか、単なる(インターネットの世界)虚構とするべきなのか。 生の人間がいる時点で立派な現実と言えると思いますが、オブラートに包まれた部分も多分にあると思います。 ご意見をお聞かせください。 創り手となった場合高レベルだと思えるのですが、現実感がない!

  • ルドルフ・シュタイナー宗教刷新について

    アントロポゾフィーの創始者である彼が、 どうして突然、神学についての講義をしたり、 新しいキリスト教の儀式を伝授し始めたり、 キリスト者共同体なるものの設立に加担し、 助言をしたのかが理解できません。(wikiより) 突然頭がおかしくなってしまったのですか? (アーティストなどはよくありますよね) またはアントロポゾフィーと言えど、 実は根っからの敬虔なクリスチャンだった可能性はありますか? ご存知の方、宜しくお願いします。

  • 「知的な人に限って、頭の回転だけが鈍い。」ように思えて仕方ありませんが。即ち"頭を使う"の定義が解りませんね。

    賢さには幾つも類型はありますね。 では、前述の一例がこちらですがまあ御聞き下さいませ。 論旨の一つに「賢い人に限って、生き方上手にはなれない。」がありますが。 人には得意不得意があり、全ての面で賢くなるのは無理だと(絶対的な無理ではなく、経験したり努力するのには時間が足りないのですね。)最初から解っているつもりではありますが。 いつもこうではないかと思うのですが。 学生の場合でも。 内向的な優等生の場合。 ・勉学優秀で、人と話さない分、いつも図書館で難しそうな本ばかりをよく読んでいる。思慮深い性格。 なのでよく端から見ている人からは「知的な人だ。」と囁かれたりしている。 実際、勤勉で勉強と読書は誰にも劣らず、思慮深く猜疑心も強く、物事を深く考察する事にも裏読みにも長けており、博学才穎で洞察力、分析力は抜群である。いつも落ち着いている。特に文学、哲学、人間科学、倫理等の分野には造詣が深い。 しかし、遊びや雑用とかの単純な細かい事を行う時には、ボンヤリして簡単な工夫も思い付かず、咄嗟に「もう少し頭使えよ。」とか「それぐらい考えりゃ解るだろう。」と、普通の人から言われて諭される事が少なくない。 特に、大勢の前に出るとボンヤリして頭が回らなくなったりもするし、勿論話術も無く口下手。 気苦労も多く、肝心な時にエネルギーが無かったりもする。 人と触れ合う機会も少なく、折角の豊富な知識を活かすのもそんなに上手とは言えない。 でも疑り深いから軽率な振る舞いもしないので誰からも「単純」とか「子供っぽい」、「軽い」、「能天気」等とは言われたりしない。 でもノイローゼとかになる危険性は、後者より圧倒的に高い為、天か地かになりがち。 逆に、いつも明朗快活な反面、軟派で浅薄でチャランポランで、勉強嫌いの読書嫌い。 しかし、よく周囲からは「アホだなあ。」とか「単純」、「幼稚(子供っぽい)」等と謗られるのはしょっちゅう。 そんな人に限り、何かする時に色々な事でチョイチョイと頭が働く。話術も巧み。 「明るさ」と「頭の回転」だけが取り柄ってところ。 だけれど、前者に比べて、ノイローゼや犯罪者になる危険性は低い、普通に働いて普通に稼いで食べれる無難な人間、標準偏差を保てやすいと思う。 「勉強出来ない人に限って、勉強以外の事ではやたら頭が働く。柔軟なので世間のどんな荒波にも打ち勝てる。」って皮肉なものですが。 では御願いします。 「賢い人は存在しない。」と言うより、 「全知万能な人は存在しない。そこまで成長は出来ない。」が正しいとは思いますが。

  • 物質転送機に置ける生死について質問です。

    SFっぽいですが、哲学な質問です。 ◆設定 物質転送機が出来たとします。まず、この機械では人を一旦分子レベルまで分解します。そしてある地点にデータを送り、そこで全く完璧に再構築します。この装置は優れた装置であり、記憶も再生されるように作られてるとします。 ここで再生される人は科学的には間違いなく本人です。だって分子レベルで100%同じですから。 しかし果たしてこれは本人と言えるのでしょうか?考えた所非の打ち所が特に見つからないのですが、死んだ人間が生き返った事になるので、ある種の違和感を個人的に感じています。

  •  ゼノンの・・いや、ンノゼのパラドクス??

     ンノゼは考えました。  アキレスと亀がゴール地点をスタート地点として競争を始めたら?と。  亀がA地点に着いたとき、アキレスはB地点に着いていました。  亀がB地点に着いたときには、アキレスは遥か彼方のF地点にいました。  こうして考えていくと、いつまでたってもアキレスと亀の差は広がっていくばかりです。  結果として、広がり続けるばかりで、限界はないということになります。  ゼノンのアキレスと亀のパラドクスは、ゼロにたどり着けないことを証明し、ンノゼのアキレスと亀のパラドクスは、限界に到着できないことを証明しています。  この宇宙には限界はないということではないでしょうか。  何か変なところありますか。  偉い人間からの・・いや、ちがった。エロい人間からの質問です。  ばかばかしいと思われても、ぜひ回答してください。お願いいたします。