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キリスト教においてなぜキャラ設定を変える?

キリスト教でわかんないところのひとつに、解釈の違いとか言って人間の都合でコロコロと神様のキャラ設定を変えてもいいのかと言うことです。 どこかで聖書の抜け穴とかを見つけては、 「解釈」の違いで誇大解釈したり、 神様自体のキャラを変えたりするのはありなんでしょうか? というより、どこまでクリスチャン達は聖書の意味と言うのを理解してるんでしょうか?  「後は想像に任せる」とかそんな感じなんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10541/33131)
回答No.4

宗派によって解釈が違うのは、キリスト教に限らず仏教にもイスラム教にもあります。 イスラム教のスンニ派とシーア派は質問者さんもどこかで聞いたことがあるでしょう。仏教だって法華宗だの天台宗だのいろいろあります。禅宗と密教は、とても同じ仏教徒は思えないですよね。片やシンプルな世界、こなた極彩色の曼荼羅の世界ですものね。 キリスト教についていえば、大きな宗派としてはカトリックとプロテスタントがあります。 ローマ帝国で「国教」としてキリスト教が成立して、それが現在のカトリックに繋がっていきます。ローマ帝国は395年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国に分裂しますが、そのときにキリスト教の総本山もそれぞれの首都にそれぞれに置かれて、西ローマ帝国の総本山がカトリックになり、東ローマ帝国の総本山が東方正教会になります。 西ローマ帝国は早々に滅亡しますが、カトリックは上手くそこをすり抜けて生き延びることに成功します。ローマにやってきた連中が異教徒ではなかったのが救いだったのでしょう。 一方の東ローマ帝国は西ローマ帝国よりはるかに長く存在しますが、イスラム教徒によって首都コンスタンティノープル(イスタンブール)が陥落してしまいます。それによって東方正教会はコンスタンティノープルを離れることになり、東方正教会の総本山だったソフィア大聖堂はイスラム教のモスクに変わります。 カトリックはそのトップである教皇を「神の代理人」としています。つまり教皇さまがおっしゃることは、神様がおっしゃるのと同じこととされたのです。だからまあ、教皇さまってのはやりたい放題ですよね。カトリックというのは上意下達の組織で、教皇が神の代理人なら神父さまは教皇の代理人なのです。つまり神父さまがいうことも概ね神様のいうことみたいなのがカトリックの教えです。 これは教皇さまや神父さまが「まとも」ならいいんですけど、それがまともじゃなくなったら大変なことになります。また、周辺の力がある王様はなんとか自分の息がかかった教皇を立てようと暗躍することになります。かくして「カトリックの教皇」というのは権力闘争の頂点の存在となるのです。 そんな「現世権力の権化」に「それはおかしいんじゃないか」と声をあげる人たちが出てきました。それが後の「プロテスタント」に繋がります。 そのカトリックを批判する人たちは当然カトリックとしては面白くないですから、弾圧します。日本人にはなじみが薄いですが、スイスではヤン・フスという人が火刑に処されます。けれども、スイスやドイツではそういった反カトリックの人たちが燎原の火のように広まってゆきます。彼らはカトリックに抵抗したので、抵抗することを意味する「プロテスタント」と呼ばれました。 長いのでここまでにしておきますが、そういう歴史的背景があるのです。これでも端折りすぎなほど端折ってるし、プロテスタントが成立した後の歴史に触れていないのです。

sunmjin4569
質問者

お礼

ありがとうございます。どこかで聞いた話では免罪符をばら蒔いたり、キリストの父をアッラーの神やゼウス、その他にもエホバ、ヤコブもあったかな? キリスト様はどんだけ父親がいるんだと言う話にもなります。 また、「物語」も、数ある諸説アリでどれが正しいとかもないけどそういった教育理念やポリシーのようなものはそれぞれに存在するってのが渡の中のイメージにすぎません。 勉強不足で申し訳ないがそういった「キリスト」の存在ひとつとっても(うちではこう教えられた )(いや、俺んところはこうだぜ)の話がたくさんあってどれを信用していいのかもわからないです。 戦争とか歴史的背景とか、簡単に仰っていただいても結構な情報量でハテナばかりです。 回答ありがとうございました

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その他の回答 (3)

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.3

sunmjin4569様、こんにちは。 いわゆる「聖典」は、成立当時の、いろんな寓話・説話(勿論、人々の興味をひくような、魅力的な)を題材に取って来たもの、というのは、聞いたことが、有ります。 ・・・だから、コーランは、キリスト教で既に使われてしまった寓話・説話を使うことが出来なかった(笑)

sunmjin4569
質問者

お礼

なるほどですね、なんだか深いですね。キリスト教も

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  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8729)
回答No.2

私しはクリスチャンですが、 もしかして 質問者さんの言いたいのは 「三位一体」の事ですか? ちなみにそれぞれ ・主なる神 旧約聖書の創世記で 天地を創られたお方で 今でもおります。 ・イエス・キリスト マリアの胎を借りて 産まれた神 旧約聖書にも予言されており 聖書では「子羊」とか 表現されたり 英語の聖書では 「彼」と言われます。 ・精霊 神に使える清い霊です 記述はキリストが 復活し天に登られた後ですが 人間の姿を取られたのも 精霊だと思われます。 基本的には神と使徒しか 居ないと思って構いません (天使は使徒ですからね) イエス・キリストだけは 十字架に架かったので 神格化したと言うわけです。

sunmjin4569
質問者

お礼

ありがとうございます! よく、精霊と神と~と胸の前で従事を切るポーズで何となく覚えてはいます。 基本的には「三位一体」(登場人物は主なる神、イエス・キリスト、マリアさま、精霊達…)なんでしょうね

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  • Don-Ryu
  • ベストアンサー率24% (255/1048)
回答No.1

「はすっぱな女が旦那ではない男の子供を妊娠した、ヤバイ、と思った女は、そうだ神の子という事にしてしてしらばっくれてしまえばいい、どうせ旦那はバカだから信じる、そう決めた。幸い大工の夫は実際に居頭が悪いので女のいう事を素直に認めた。」 そう考えれるのが一番自然だと思います。 キリスト教なんて、そもそもいい加減な宗教なんです。だから後世になって勝手な解釈が次々に生まれるんです。

sunmjin4569
質問者

お礼

独特な解釈ですが何となくわかりました。ありがとうございます!

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