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キリスト教における人間と動物についての考え方

キリスト教について気になっていることがあります。 私はクリスチャンではないのですが、キリスト教系の高校に行っていたこともあり 聖書もところどころ読んだりしていました。 そこで、ひとつ疑問に思っていることろがあるのですが… 「創造主である神様は、空の鳥をも養っておられます。  まして鳥よりもすぐれた私たちのことを心にかけて  くださらないでしょうか。」 こういう内容の文章が聖書には何度か出てきたと思います。 私は、人間の命も動物の命もまったく平等であり、 人間が他の動物よりも優れていて貴い存在だとは決して思いません。 しかし、聖書には上記のような記述がありとても違和感を感じます。 キリスト教では、人間こそが他の動物よりも優れた動物であり 特別な存在である、というような考えに基づいているものなのでしょうか? また、実際のところクリスチャンの方々はどのように感じているか知りたいです。 よろしければご回答お願いいたします。

noname#164408
noname#164408

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

 私は洗礼を受けていないので正確にはキリスト教徒ではないのですが、どの宗派でも共通に以下のように認識されております。  キリスト教の世界ではヒエラルキーというものがあり、人間は他の動物より上位にあり、天使よりも下位にあります。なぜなら人間は神の形に造られており他の動物はそうではないからです。最初の人間アダムにはエデンの園を管理する役割が与えられてました。これには他の動物を管理する事も含まれます。また、イスラエル人たちは年に決まった時に原罪に対して、何らかの罪を犯した時は不定期に動物を屠って神に捧げる事により罪を贖うとしていました。しかし、動物の命の価値<人間の命の価値である為に一回の犠牲では贖いきれないので、こうした儀式を繰り返していました。イエス・キリストが十字架にかけられ屠られた事により、初めて同価値の贖いが済んだこととなり、キリスト教徒はそうした儀式から解放されたとされています(贖罪思想)。こうしたしそうからも動物に対して人間の命の価値を重視している事が見て取れます。  生きるもの全ての命の価値を同等とするのは仏教・ジャイナ教の思想だと思います。仏教では仏が動物の姿をとる事もあるとしておりますし、釈迦が飢えた虎の親子に自らを差し出したとする逸話が仏教の思想を端的に表していると思います。

noname#164408
質問者

お礼

大変分かりやすいご回答、ありがとうございます。 なるほど、たしかに人間の形は神様をかたどってつくられた、ということでした。 その時点でキリスト教にとって人間は特別な存在なんですね。 >生きるもの全ての命の価値を同等とするのは仏教・ジャイナ教の思想だと思います。 そうだったのですか! 宗教によって根本的な部分でも大きく考え方が変わりますね。 大変参考になりました。どうもありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.5

>キリスト教では、人間こそが他の動物よりも優れた動物であり 特別な存在である、というような考えに基づいているものなのでしょうか? はい。 キリスト教系の高校では習わないの? 創世9:2 大地のすべての動物、空のすべての鳥は、 地面をはうすべてのものや、海のすべての魚と共に、 おまえたちの前に恐れおののき、おまえたちの手中に委ねられるであろう。 3 生きて動いているものは、すべておまえたちの食糧とするがよい。 これらすべてを、青草と同じように、おまえたちのために与えよう。

noname#164408
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 引用して頂いた文章、参考になりました。 高校時代には具体的にこのようなことは習いませんでした。 クリスチャンのための高校というわけではありませんでしたし、 聖書の教えを実生活に活かしていくための学習の時間がある、という程度です。

回答No.4

 クリスチャンではないというと不正確になりますが、 「創造主である神様は、空の鳥をも養っておられます。まして鳥よりもすぐれた私たちのことを心にかけてくださらないでしょうか。」という中の神が養うという仕方は、意味深長だと存じます。やはりそこらをどう理解するか、この世や自分という存在の、創造などの理解の仕方に全てのポイントがあるのではありませんか?  他の動物より人間が、上位のものであるという理解に繋がる表現は、根本の、純粋人間存在がが見、意識し、知覚経験しているということの原理やその能力をどう理解するかの問題で、それが創造の神の意識がしていることであり、人がいわゆるじぶんという人間としてみている者もその意識の中の事物だとすれば、個個の意識体、は神の用具や手段ですから、ちゅうしんであるのは当然なのではないですか。  個個の意識体は個個と思っている存在の錯覚で、一なる多に過ぎないのではないのですか。  バイブルという書物やイエスと言う人のことばを、常識で判断したいという思いは無理な話しで、常識を超えて理解することばではないですか。常識の中でとやこう謂っても、意味のない事になりませんか。

noname#164408
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すみません、5回くらい読みかえしてみたのですが 文章としての意味がちょっとよく分かりませんでした…??? また、常識を超えて理解する、とのことですが 私はクリスチャンではなく、今回の質問で知りたかったことも あくまで質問内容に書かせて頂いたことのみです。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.3

私もクリスチャンではないのですが、むかし読んだ或る小説の扉に載っていたことばが強く印象に残っておりましたので、それを紹介させていただきます。どうぞ御参考までに。。。 伝道者の書 3章19節 世の人に臨むところの事は また獣にも臨む  この二者(ふたつ)に臨むところの事は同一(ひとつ)にして是も死ねば彼も死ぬるなり 皆同一(みなひとつ)の呼吸に依れり  人は獣にまさるところなし 皆空なり

noname#164408
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 これも聖書の一節なのでしょうか? 「人は獣にまさるところなし」、これは私が質問で掲載したところと かなり違う考えに基づいているように思われますね… たしかに印象に残る文章で、気になるので調べてみたいです。 ありがとうございました。

回答No.2

*私はクリスチャンではありませんが、ひとつ参考に。 問題になっているのは天地創造の六日目ですね。「神は自身の手によって創りだした人間に世界に生きるすべての生き物を治めさせた」とあります。この記述からすると、人間は動物と隔絶して上です。 理由は、人間が「神の似姿であること」と「神自身の手によって創りだされたこと」でしょうか。他の生き物は「生まれでよ」で出てきたものですが、人間だけは違うらしいです。 ご質問は「どんな考えでこんな記述にしたか」ということだと思いますが、これは遊牧生活・農耕生活との関わりが深いと思います。動物・植物と人間を対等にすると「囲って食べる」のが背信行為になりかねません。生存のためにやらねばならないことが、神に背くというのは無理があるでしょう。 >私は、人間の命も動物の命もまったく平等であり、 >人間が他の動物よりも優れていて貴い存在だとは決して思いません。 実際に食べているにも関わらず「平等だ」なんて言うのは、食われる側(生き物)からすれば寒々しいものだと思います。もし圧倒的な力を持つ宇宙人が現れて、われわれを牧畜として飼った上で、「僕ら宇宙人と君たち人間の命は平等だよ」と言われたらどうです? 私は、六日目をそのへんの不平等をごまかさない優れた記述だと思っているのですが…

noname#164408
質問者

お礼

私の拙い質問から、より深く汲み取って頂きありがとうございます。 遊牧生活・農耕生活が背景にあるというご意見、とても説得力があります。 >実際に食べているにも関わらず「平等だ」なんて言うのは、食われる側(生き物)からすれば寒々しいものだと思います。 仰る通りで、実際私はベジタリアンとして肉食をしない生活をしています。 肉食動物が草食動物を食べることは自然な行為であると思いますが 種として平等だと考える以上、「囲って食べる」という行為は私はしません。 (人間が野性の動物を狩って食べるのであれば、有りだと考えてます) こういう考えの人間も少なからずいるということを知って頂ければと思います。 大変参考になる回答を頂き、どうもありがとうございました。

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