江戸時代260年の持続とその要因について

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代は外圧への対応策が重要な要素であり、260年にわたる安定の要因となっていました。
  • 外圧以外にも、統治体制の安定、経済発展、文化の発展などさまざまな要素が江戸時代の持続に寄与していました。
  • 鎖国や幕府の統制による安定した社会秩序、商業の発展、新しい文化の興隆などが江戸時代の長期にわたる持続の要因でした。
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江戸時代260年を持続させたものは???

ふと、戦国時代と幕末維新の時代に挟まれた「あまり興味を持たれないような感じの江戸時代」が、なんで260年も続いたのだろうか???という疑問が湧いてきました。 ボーと考えているうちに、ふと、江戸時代って、「鎖国」に始まり、「ペリー来航」に終ったのではないか???と。……それで漠然と一つの要因として、「外国からの圧力に対する対応の仕方」というのがあったのではないか???……という気がしてきたのですが、仮に当たっているとしても、「どのように上手だったのか???」……その具体的な内容がわかりませんし、「外圧」以外に、もっと、もっと大きな要因があったと思います。江戸時代のことに全く知識がないので、これ以上に考えを展開させることができません。 質問は2点です。 1. 「外圧」に対する対応として、江戸時代260年を安定させた政策というのは何でしょうか??? それとも、そもそも外圧なんてなかったのでしょうか??? 2. 江戸時代が260年続いた要因は何でしょうか??? 

noname#247736
noname#247736
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  • cse_ri3
  • ベストアンサー率25% (165/640)
回答No.4

(1)外圧という点では、鎖国政策が対になると思います。 戦国時代にヨーロッパ人は日本にも来ていましたが、鎖国をすることで敵対的なヨーロッパ人(スペイン、ポルトガル)をシャットアウトしました。 当時は帆船しかなかったため、日本を征服するほど大量の軍艦を日本に送ることは不可能でした。 その壁が取り払われるのは、帆以外の動力の開発を待たなくてはいけませんでした。 すなわち、黒船によるペリー来航です。 (2)江戸時代が260年続いたのは、おそらく偶然です。 蒸気機関を開発し、船に搭載するのに260年かかっただけなのです。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 当時は帆船しかなかったため、日本を征服するほど大量の軍艦を日本に送ることは不可能でした。……なるほど、こんな事情もあったのですね。 蒸気機関を開発し、船に搭載するのに260年かかっただけなのです。……世界史との関係で、日本を理解しようと考えたことがなかったので、「なるほど、そういう見方もあるのか」という気持ちにさせられました。「偶然」というよりは、「時代のめぐりあわせ」のようなものを感じます。内政と外交がうまくいったのかも???

その他の回答 (4)

  • fujic-1990
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回答No.5

 外圧らしい外圧はなかったと思います。  どうしても欲しいものがあれば、憲法第9条のように不戦の誓いなどやっても、これ幸いとして押し寄せてきます。  外国から見て、当時の日本には「どうしても欲しい」と思わせるものがありませんでした。征服の必要がなかったわけです。  金は欲しかったでしょうが、南米のように、持ち運べる金製品(王冠など)を作りませんでした。金箔を貼った建物など壊して持って行っても価値がないですし、小判などは貿易で吸い取れますから、自国民を死なせてまで征服する必要が無い国でした。 > 江戸時代が260年続いた要因は何でしょうか???  王様が「朕は国家なり」などと言って、財宝・自由・美女などなど全てを一手に集めた国もありましたが、日本は、特に江戸時代は、権威は天皇に、権力は幕府・武士に、財力は商人にと、うまいぐあいに分立させてしまったこと。  また、天皇は皇居から出られない、将軍は江戸城から出られない、という「不自由さ」強いられたのを筆頭に、武士も女性は家から出られない。男も例えば夜までには家に戻らなければならないなど節制した生活を営むなど、庶民・特に有能な庶民から見てそれほどうらやましい、「取って代ってやろう」と思うような生活をしていなかった、という点が大きいと思います。  山形の庄内地方では「本間様(商人)に及びもないが、せめてなりたや殿様に」などと唄われたほど、殿様の総合的な価値は低かったのです。  それが、江戸幕府が長期間続いた理由だと思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 外圧らしい外圧はなかったと思います。……私も、そんな気はしています。 江戸時代は、権威は天皇に、権力は幕府・武士に、財力は商人にと、うまいぐあいに分立させてしまったこと。……そうなのですか???まだ、「江戸時代に踏み込む気力が湧いてこない」のですが、「権威って、何だろう???」ということは考えさせられます。 権威は天皇に……ご回答の内容を考えているうちに、江戸時代の天皇に権威があったのか???むしろ天皇と朝廷から、何もかもむしり取ったのが「徳川幕府」だったのではないか???、そして、その「怨み」を利用したのが「維新」だったのではないか???という漠然とした思いが湧いてきました。 今、フッと、「元寇の時の鎌倉幕府と朝廷との関係」と「黒船来航の時の江戸幕府と朝廷との関係」という新たな疑問が湧いてきました。素人には、「迷宮の世界」のようで気が重いのですが、少し調べてみます。 山形の庄内地方では「本間様(商人)に及びもないが、せめてなりたや殿様に」などと唄われたほど、殿様の総合的な価値は低かったのです。……そうでしょうか???どちらも「特権」です。どのように揶揄されても、「殿様というのは偉いものだ」という凝り固まった大前提が私にはあります。笑

回答No.3

完全に戦国を終わらせたのが最大の要因では? 室町幕府も二百数十年続きましたがあっちは戦乱を終わらせられなかった あとは参勤交代で各大名家の財力を失わせた (しかし実際は幕末にかけて各藩は色々とお金を貯めていて 結局それが倒幕に使われてしまうわけですが) 外圧は有ったけど それほど強くなかったのでは?と思います 江戸幕府が成立した当時まだアメリカは無かったし ヨーロッパはアジアよりアフリカや中東に拠点を置いてたので 大陸の遥か向こうの日本まで制服するのは骨が折れる…など

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。よくわかりました。 完全に戦国を終わらせたのが最大の要因では?……「もう戦はこりごりだ」というような気分が、大名にも、庶民にも漂ったのかもしれませんね。 大陸の遥か向こうの日本まで制服するのは骨が折れる…など……わかりやすいです。帝国主義の脅威にさらさられるまでに、「まだ、時間があった」ということですね。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2131/10810)
回答No.2

幕府が、それぞれの大名に、不審な動きがないか、スパイを送り込んでいたことと、 参勤交代で、大名にお金を使わせて、幕府を転覆させるような財力を、持たせないようにしていた。 人質になる人を、江戸に住まわせていた。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 一つの要因として、理解できます。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

「鎖国」なんて言われていますが、中国、朝鮮、オランダとは貿易を続けていたわけだし、どちらかと言えば「海外貿易を制限していた」と言ったほうがいいでしょう。このため欧米諸国の情報は幕府などの上層部には伝わっていました。一方でキリスト教を規制したことで植民地化されることは防げたわけです。言うまでもなくキリスト教というのは曖昧なことを好む日本人とは相反する宗教で、その教義は幕府、朝廷よりも上位ということになりますからたちまち収まりがつかなくなったことでしょう。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 つまり、キリスト教を禁教にしたことが、江戸時代を長く続かせた要因ということですか???

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