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公方号と御所号の違い。

川原 文月(@bungetsu)の回答

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回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★「公方」について、 足利義満が将軍となった時、 「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(さもん=寺院)に門跡なる棟梁あれども武家になし、何とぞ公方の号を・・・」 と、第98代長慶天皇に願い出たのが最初。 従って、「公方さま」は基本的には「武家の棟梁」。 つまりは、武家の棟梁と言えば「征夷大将軍」を指す言葉となりました。 ★しかし、源頼朝は北条氏の手前があり「公方さま」とは呼ばせず、「お屋形さま」あるいは「殿」(との)と呼ばせていました。 ★北条氏の手前ってどういうこと? そこには、北条政子が大きな役割を果たしたのです。 頼朝は流罪とは言っても、決して土牢などに閉じ込められるのではなく、流罪地の豪族などに預けられ、その豪族の所有地(一族の所有地、とする意見もある)から出なければ、結構自由に徘徊することができました。 そして、頼朝が預けられたのは「北条時政」の屋敷でした。 やがて頼朝と北条時政の娘・政子(注・参照)が恋に落ちました。 当然と言えば当然ですが、政子の父・時政は罪人である頼朝との仲には大反対だったと言われています。(「吾妻鏡」より) しかし、治承元年(1177年)頃、伊豆山神社で待つ頼朝の元へ家人の追手を振り切って政子が駆け込みました。 なぜ、頼朝は伊豆山神社で政子を待ったのか? なぜ、時政の家人たちは伊豆山神社まで乗り込んで行って政子を連れ戻すことができなかったのか? 当時は、神社仏閣には「僧兵」がおり、伊豆山神社にも多数の僧兵がいました。時政の家人たちは、神社の下までは行ったが、追手の数だけでは僧兵にはかなわない、と、判断をしてスゴスゴと引き揚げたのです。 また、家人からの話を聞いた時政も僧兵が相手となると「勝ち目」がないと判断をしました。 なぜなら、伊豆山神社の僧兵を相手としたとすると、それこそ関東一円の神社仏閣の僧兵が団結を組んで相手になってくるからでした。 時政の家人たちの数は、当時の文献から見ると、およそ150~200人位、関東一円の神社仏閣の僧兵が手を組んだとすると数千人とも言われており、当然のことながら勝ち目はありません。 こうして、頼朝と政子は伊豆山神社にしばらくは匿われ、時政もついには二人を許すこととしました。 これにより、頼朝は北条時政・義時の支援を受け、時政等の呼びかけにより坂東武者たちが結集しました。 従って、頼朝の力だけではなく時政・義時等も合議の上で「鎌倉幕府」の成立に向かっていったのです。 そして、棟梁は源頼朝と決めました。 北条時政等は「平氏」の流れを汲んではいるものの、やはり、家格では頼朝の「源氏」の嫡流にはかなわなかったのです。 まず、治承4年(1180)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる「大倉御所」が置かれました。続いて幕府の統治機構の原型ともいうべき「侍所」も設置されて武家政権の実態ができていきました。 やがて、時政などの働きかけにより、朝廷は寿永2年(1183)10月の宣旨で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したのです。 寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許により、頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。 近年は、この「文治の勅許」が下された1185年をもって「鎌倉幕府」が開かれた、と言う説が多くなってきています。 (これまでは、1192年・いい国つくろう鎌倉幕府、でしたね) こうして、頼朝→頼家→実朝、と「鎌倉殿」と呼ばれる将軍が代替わりをしていきますが、特に、頼朝の死後の3代目実朝の代からは北条時政は「執権」という役職名で、実朝を「補佐」するという名目でしたが、実際にはこの時すでに「北条氏」が実権を握ってしまっていたのです。 ★前述の中に出てきた「大倉御所」のように、「御所」とは、 基本的には、「皇居」・・・天皇の住まい。 または、天皇に準ずる、日本国の「統治者」の住まいを指しました。 ★では、羽柴秀吉は、と言うと、武家の棟梁からさらに上位の「関白」となり、公家の仲間入りをし、「豊臣」という姓を名乗ったのです。 そして、一般的(通常)に家臣からの呼ばれ方は「上さま」でした。 ★徳川氏は? 「公方さま」「上さま」「御公儀さま」「大樹さま」(たいじゅさま)。 江戸時代は儒教が盛んになった時代で、中国の書物の良いとこ取りをしましたので、幾つもの呼び方が生まれ、「徳川実記」等、徳川家に関しての書には書いた時代により上記が使い分けられています。 「黄門さま」が良い例ですね。 家臣が呼ぶ時も大名が拝謁する時も「上さま」が基本でした。 ★「大御所さま」について。 将軍が隠居をすると西丸へ移る。そして「大御所さま」と呼ばれた。しかし、条件があった。一つ目は、新将軍の父であること。二つ目は前将軍であること。そのどちらが欠けても「大御所さま」とは呼んではいけない。 そこで、子どものいない将軍は「養子縁組」をして名乗ろうとした将軍もいた。 ちなみに、大御所と呼ばれた将軍は家康を除いては以下の通りである。 ※2代将軍秀忠・・・3代将軍家光の将軍宣下を受けて大御所となった。 ※8代将軍吉宗・・・9代将軍家重に職を譲り大御所と名乗った。家重は生まれながらの言語不能(脳性マヒ)であったため、大御所としての吉宗が全ての実権を握っていた。 ※9代将軍家重・・・10代将軍家治に職を譲り大御所と名乗ったが翌年には死亡してしまった。 ※11代将軍家斉・・将軍の職に就いたことのない実父治斉(はるなり)を大御所と呼ばせようとしたが、老中松平定信の「先例がない」の一言で断念をした。 しかし、12代将軍家慶に職を譲り自らは大御所と名乗った。 ※15代慶喜・・・・・・息子家達に慶応4年(1868)に家督を譲り、大御所としての要件は満たしていたが、前年の慶応3年(1867)10月14日にすでに「大政奉還」をしており、将軍職を返上していたので、大御所と呼ばれることはなかった。 ※また一説には、5代将軍綱吉も自らの子どもがいなかったため、甥の綱豊(6代家宣)を後継者と決め、養子として迎えて自らは大御所に退くつもりだった、とも言われているが、宝永6年(1709)1月10日に急逝してしまったので実現はしなかった。 ★注・北条政子についての検証 皆さんは、源頼朝の妻であるのに、源政子でなく、なぜ北条政子と呼ばれるのか疑問に思ったことはありませんか? 多くのメディアでは、最初から「北条政子」と書き出していますが、それは大きな間違いなのです。 実は、政子の幼少の頃および頼朝と添い遂げてからも正確な名前は判っていないのです。 建保6年(1218)4月14日(すでに頼朝と頼家は死亡している)に朝廷より、従三位に叙された際に、父北条時政から「政」の一字をもらって名乗り、父が時政「ときまさ」と呼ばれていたことから、政子も「せいこ」ではなく「まさこ」と呼ばれたのではないかとする説が有力なのです。 さらに、同年10月12日には従二位に昇叙し、4年後に剃髪をし「二位尼」(にいのあま)と呼ばれた。 また、尼将軍と呼ばれながらも「政子」という署名などは、現在、全く見つかっていない。ましてや、「政子」にルビ(ふりがな)を付けた史料も一切見つかっていない。 鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」(あづまかがみ)には「平政子」として出てくるが、より多いのは「二品禅尼」(にほんのぜんに)と書かれている。 「二品」という呼び方は、「二位」(従二位)を中国の唐名に置き換えれば「二品」になり、吾妻鑑は政子をより際立たせるために、唐風の記載を採用したものと考える。 「品」(ほん)は、中国(唐)の律令制での「一品」(いっぽん)から「四品」(よんほん)まである親王(または、それに準ずる者)の位階。 吾妻鑑の成立は正安元年(1300)頃と言われており、さらには、治承4年(1180)から文久3年(1266)までの鎌倉幕府の事柄が記されている。 従って、吾妻鏡から推測すると、「尼将軍」、「二位尼」、「二品禅尼」、「北条政子」、「平政子」等は共に、夫である頼朝や実子である頼家、実朝なども死亡してしまい「源」の姓を名乗る必要性がなくなり、婚家(源氏)から実家(北条=平氏)への帰属を強めたものと思われる。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 今までの将軍家の呼称がここまで違うと思いませんでした。 大河ドラマや日本史の漫画くらいの呼び名しか知りませんでした。 勉強になりました。

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