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死後は無になる

koosakaの回答

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.6

人が死んだら、死にっきりです、無になんかなりません。 無というと、それを「ある」ものと勘違いするじゃないですかあ! でも、無というのは、文字通り「ない」のですから「無」なんて言ってはいけません。 (1)私は私であると自覚していませんので、「意識や心は脳の機能」とは到底思えません。 意識とか、脳の機能って何ですか? 意識を定義してみてください、お願いします。 それに「機能」って何ですか? (2)人間が死ぬと、人間が死ぬだけです。たぶん! 私は自分の「脳の機能が停止」したのを知ることができません、それに「火葬で脳が灰になる」ことも分かりません。 あなたは知り得ますか? (3)「そうすれば、意識や心は消失する、そして無になる」と言っていますが、どうすれば「意識や心は消失する、そして無になる」のが分かるのでしょうか? そしてあなたは死は恐いと言っていますが、何が恐いのでしょうか? 古代ギリシャのエピクロスは言っています、 「死は諸々の恐いものの内でも、もっとも恐いものとされているが、実は恐くなんてない、なぜならば、私が生きている限りは死はないのだし、私が死んだら、死を意識する主体がなくなるのだから、死は存在しない。つまり、死は私の関知するところではない」と。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。いや別にないというだけの話ですから、言語表現は厳密には考えていないです。 意識は国語辞典の通りで別に何か特別な定義はないです。 機能も別に言葉通りです。国語辞典の通りです。 それだとダメですか? 私の脳が機能停止した時に、私の機能停止した脳は私の脳が機能停止していることを認識できません。しかし、他人の脳が機能停止したことを私の機能している脳は認識することができます。 これまで生まれた人間はみな脳が機能停止しました。私も人間の一人です。したがって自分の脳もいつか機能停止することを想像できます。 生きている私が死後を想像することが怖いです。エピクロスの言うのもわかりますが、別にだからといって怖くはなくなりはしません。そうじゃないですか?そんな理屈でどうにかなるものならだれも悩んだりしないですよ。

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