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ヘーゲル哲学

ヘーゲル哲学の理論の中のヘーゲルの労働観、 労働が人間に及ぼす影響、個人が社会や他人と交わって、 どういう風に変化、成長するのか、 というようなことを知りたいんですが、 お勧め本があったら教えてください。

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  • ベストアンサー
  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

ヘーゲルは、個人にしろ、何にしろ、それ単独では存在しないと考えていました。 人間は人間関係の中で人間になる、個人になるので、それ単独で人間になるのでもなく、個人になるのでもない、と。 言い換えると、いかなる存在も、「媒介」された存在と考えていました。 ですから、労働というものも、社会関係の中にあるもので、それを離れて労働というものは存在しない、と考えていました。 ヘーゲルは実在の根底は矛盾律で出来上がっている、と言いました。 矛盾律とは、AはAでない、AでないからAであるというもの。 つまり矛盾とは、否定です。 否定を媒介にしてあるもの、それが実在と言われるものです。 労働も同じです。 労働は物に働きかけるものですが、労働は物を否定することによって、労働です。 つまり労働は物を「疎外」することによって、労働というものが成り立っています。 ところが、今度はその労働が物によって「疎外」されるという逆転が起きます。 人間が労働によって物に働きかけるのではなく、物によって働きかけられる。 人間が物になっちゃう。 それをヘーゲルは「自己疎外」と言っています。 あるいは広松渉の言い方では、「物象化」と言っています。 資本主義社会の労働者は、人間と物との関係がひっくり返って、物が主体になり、人間は客体になる、人間は物になってしまう、と。 あなたは「労働が人間に及ぼす影響、個人が社会や他人と交わって、どういう風に変化、成長するのか」と言っていますが、資本主義の中では、労働は人間を「疎外」し、人間を「物化」します! 人間は物になっちゃいます! 「物象化」によって! ヘーゲルについて書いた本ですか? 私はヘーゲルのファンで、解説書を20冊くらい持っていますが、易しい入門書としては、西研の「ヘーゲル・大人のなりかた」という本があります。 難しいものならたくさんありますけど。

kirakiraaruku
質問者

お礼

そうなんですね、ありがとうございます。

その他の回答 (2)

noname#229393
noname#229393
回答No.3

追記です。 もう1冊です。 【ヘーゲル:最も偉大な哲学に学ぶヘーゲル】 https://books.rakuten.co.jp/rb/6332129/ お奨め致します。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます、チェックします。

noname#229393
noname#229393
回答No.2

フリードリヒ・ヘーゲルは、哲学に及ぶ色んな著書や作品があります。 全てを知りたいのでしたら【ヘーゲル全集】もあります、 始めは、【ヘーゲルの入門】から入ってはどうでしょうか? 日本語版だと尚更解りやすいと思います。 https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E5%AE%8F/dp/4061493574

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

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