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徳川吉宗は柔道等の武道を広めた?

徳川吉宗は柔道等の武道が出来た、と聞いた事があります。 徳川吉宗は柔道等の武道を世に広めたりしたのでしょうか? 徳川吉宗のおかげで柔道等の武道が世に広まった。とか、そういう様な事はあるのでしょうか? それとも、吉宗が武道が出来ても、それは将軍家やその側近等に武道が広まっただけで、一般の庶民には何ら関係のない話だったのでしょうか? もし、8代将軍に徳川継友がなっていたとしたら、一般人の間の武道の広まり具合は史実とは異なったものになっていたでしょうか? 徳川吉宗が将軍になった事によって、一般人の間の武道の広まり具合が少しは大きくなったのか、それとも全く変わらないのか、を教えてください。

noname#228356
noname#228356
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  • eroero4649
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回答No.4

質問者さんは基本的に勘違いをされていることがあります。それは「一般庶民が武道を習っていた」と考えていることです。 江戸時代において、武道とは武士のみが許されている特権のひとつであり、武士階級ではない人間が武士の真似をして武道をするというのは、本来は許されることではないのです。 とはいえ、武士にも生活があります。剣術はできるけれど身分が低い武士はお金が稼げませんからじゃあ道場を開いてもいいですよとなりますが、お互いに武士同士ではたいした稼ぎはできません。そしたら比較的裕福な農民などの教えてやってもええやろ、みたいなお目こぼしはあったのです。 ただ、その免許をもらえるのは武士じゃないとダメだったはずですよ。じゃあ農民の子である近藤勇はどうなのさ?というと、彼は武士の養子になって天然理心流の免許を受けたのです。天然理心流が江戸時代後期になって誕生した新しい剣術だった上にマイナーな存在だったのであまり文句は出なかったのでしょう。 これね、今なら踊りの家元とかと同じと考えるといいですよ。踊りの坂東流はお金を払って弟子入りすれば、一般人でも教わることはできます。でもその家元は歌舞伎俳優である坂東三津五郎(になる人)と決まっています。死ぬほど踊りが上手くても、三津五郎以外は家元にはなれません。十代目が惜しくも亡くなってしまったので、今は十代目三津五郎の息子である坂東巳之助が28歳という若さで家元となっています。 江戸時代には(最近教科書では否定されつつあるにせよ)身分制度というのがあり、その縛りのなかで人々は生きていた、というのを理解しておく必要があります。

noname#228356
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御回答ありがとうございました。

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  • takuranke
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回答No.3

>徳川吉宗のおかげで柔道等の武道が世に広まった。とか、そういう様な事はあるのでしょうか? ないです。 武芸の奨励はしましたが、 改革の中に盛り込んだのは 内容は馬術・射術・砲術がメインで、 個人と言うより用兵に重点を置いた感じです。 これに鷹狩りも頻繁に行なわれていました (鷹狩りは昔から戦の訓練とされていた)。 馬術や砲術に関しては、 実利的としてオランダや韓国から技術を取り入れて改良しています。 剣術 ・槍術はかなり少ないです。 柔術(柔道は明治になって出来たもの)は、 養生鍛錬のための体つくりで行なっていて、 趣味とされることが多いです。 (鷹狩りも足腰の鍛錬のためと言う説もある) 孫の松平定信は多くの流派の武芸を学び、 そこから新しい流派を模索すると言うことをしていたようですが、

noname#228356
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御回答ありがとうございました。

  • hekiyu
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回答No.2

徳川幕府が始まって、当初は、徳川体制を 確立するために、藩をどんどん潰しました。 そのため、ちまたには浪人が溢れ、由井正雪の乱 などが発生しました。 それで幕府は反省して、軟弱政策を採ることに しました。 そのため武士は、贅沢したりして、財政が苦しく なります。 そこで吉宗が登場して、尚武政策を採用することにし、 武道を奨励するようになりました。 武道に励めば贅沢しなくなり、財政赤字も防げる だろう、と考えたのです。 そういう政策は武士のみならず、庶民にも 影響を及ぼしました。 尚、柔道は明治になってからの話しです。 欧米にならって、柔術をスポーツ化するため、嘉納治五郎が柔道という 名を作り広めました。 だから吉宗時代には、柔道は存在しません。

noname#228356
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御回答ありがとうございました。

noname#228356
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吉宗は一般人に対しても、武道を広めたのでしょうか? もしそうなのであれば、広めた流派は何でしょうか?

  • twin-dog
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回答No.1

徳川吉宗が柔道を広めるなどあり得ません。 なぜなら吉宗の時代にはまだ柔道と言う武術はありませんでしたので。 江戸時代からある武術は柔術です。 柔術と柔道は別物です。 現在一般的に認識されている柔道は、正式には日本伝講道館柔道と言い、明治時代に柔術家の嘉納治五郎が、柔術を基にして様々な流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の「柔よく剛を制す」という心身の力をもっとも有効に活用した原理を完成させ、1882年(明治15年)にその考察から創始した武道です。

noname#228356
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

noname#228356
質問者

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それでは、吉宗は柔術を広めたのでしょうか? もし、吉宗が一般人に対しても柔術を広めたのであれば、その流派は何でしょうか?

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