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太初にことばありき
ヨハネによる福音書 第1章の冒頭部分の一部です。 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は初めに神と共にあった。 1:3 すべてのものは、これによってで きた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 これを文語調にしてみたいのですが、お手を煩わしてくださいませんか。 途中までですが、私の試行した結果。 1:1太初にことばありき。ことばは神と共にありき。ことばは神なりき。 1:2このことばは神とともにありき。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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言を どう取るのか?だけです・・ 人間で言う思想・・
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- (やっぱり愚問?)「本能」が次のように聴こえる。
クリスマスソングに「本能」 1999年に発表された椎名林檎の「本能」は案外クリスマスソングに良いかもしれない。 新約聖書の「ヨハネによる福音書」の著者のヨハネは古代ギリシャ語が堪能で、これは、それを母国語としていた者にしか書けなかっただろうと言われている。 ちなみに、このヨハネは洗礼者ヨハネや使徒ヨハネとは別人で、黙示録のヨハネとも別人である。伝聞で福音書を書いたようだ。 他の三つの「共観福音書」と異なり、ヨハネのものは独自の雰囲気がある。 これは、彼がギリシャ思想を受け継いでいたことに原因がありそうだ。ギリシャに一般的にあり、「万物は流転する」のヘラクレイトスが定式化した、ギリシャの「ロゴス信仰」の影響が福音書にも出ている。 ロゴスというのは言語とか理性とかという意味を持っている。 理性への信仰が福音書の最初から書かれている。日本では、江戸時代頃に「初めに賢きものありき」などと訳されたようだが、 (新共同訳聖書 ヨハネの福音書冒頭) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 これは要するに、キリストをロゴスの化身と見なすヨハネの感覚である。 福音書家ヨハネがキリスト教の傍流かというと、そうともならなかったようである。ヨーロッパの歴史は中世でもギリシャからの流れを受け継いでいただろう。 ロゴスの対義語はなにかというと、大雑把にはパトスと言える。パトスは感情のような意味を持つ。キリストの受難は英語ではパッションだが、これは語源はパトスである。ロゴスを光とすると、パトスは優しくもあるような闇の豊穣といえるかもしれない。あるいは闇の中には悲痛なものもあるかもしれない。 キリストは受難しただけではなく、そこから復活したことが尊いとされている。これはロゴスの勝利という宗教体系であろう。 千数百年後、モダニズムの始祖デカルトは生涯をかけてロゴスを追及した。近代の科学技術の追求も宗教と違った形でロゴスを求めたことに他ならなかったと思う。 デカルトは自分の死を悟った頃、遺作として情念論を著した。デカルトは元来、……パトスは外部からの刺激により身体の内に起こるもので、受動的なものなのだが、精神それ自体とも錯覚される、……それをロゴスで統制してパトスを主体化する事が必要で、ロゴスが能動的なものである。 ……というようなことを主張していたのだが、死という現実に対しては、そう構えているわけにもいかなかったかもしれない。 さて、そこからまた数百年後の椎名林檎の「本能」だが、 「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」 と始まる。これはキリスト教のファンダメンタリストからすると、まさしくパンクロックであろう。新約聖書には初めからあるというのだから。 曲調は短調で愛惜が感じられる。理性とか言葉というものの死があったとしたら、それを愛惜する曲調である。 「約束は 要らないわ 果たされないことなど 大嫌いなの ずっと繋がれて 居たいわ 朝が来ない窓辺を 求めているの」 「約束」を男女の結婚のようなこととして想像することもできるが、それにしてはこの曲はあまりにも悲劇的な香りがしすぎる。 言葉とか理性の死と、そういったことが約束していたものに関する愛惜として捉えるべきかと思う。 「終わりにはどうせ独りだし 此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが良い」 「虚(から)の真実」とはなにかと考えると、これはパトスに他ならないだろう。それは闇の豊穣というより悲痛さであろう。 十字架上のキリストの「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」という言葉があった。これは古来からキリスト教徒には認めがたい不可解な言葉とされていた。「神よ、なぜ私を見捨てたのか」ということだからである。(たとえばイスラム教はこの言葉とともに「精霊」がキリストを離れたと見なし、彼を神の子ではなく一預言者として捉えている。) だが、人が絶望のうちに死を迎えることが少ないといえるだろうか。努力とか、理性もむなしく、絶望というのは決して少なくはないだろう。 もしかすると、それは、言葉とか理性とかがあったから絶望もあったのかもしれないと考えることはできないだろうか。 「本能」(c)椎名林檎詞曲、1999
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- いまだに「本能」の意味がわからないのですが、
1999年に発表されて、300万枚近く売れた2000年の『勝訴ストリップ』にも収録された、「本能」(椎名林檎詞曲歌)の意味がいまだにわからないのですが、象徴詩のようで、イメージだけでも伝わればいいのかもしれませんが、なにかある程度でも解釈した方ですとかおられますか? PVは必ずしも関連は無いのかもしれませんが、なにか「現代科学に対して怒っている」みたいなイメージはありました。 以下、数年前に書いた雑文ですが、西洋思想を背景にアプローチしてみました。皆さまも解釈ありましたらお聞かせください。 クリスマスソングに「本能」 犬儒 1999年に発表された椎名林檎の「本能」は案外クリスマスソングに良いかもしれない。 新約聖書の「ヨハネによる福音書」の著者のヨハネは古代ギリシャ語が堪能で、これは、それを母国語としていた者にしか書けなかっただろうと言われている。 ちなみに、このヨハネは洗礼者ヨハネや使徒ヨハネとは別人で、黙示録のヨハネとも別人である。伝聞で福音書を書いたようだ。 他の三つの「共観福音書」と異なり、ヨハネのものは独自の雰囲気がある。 これは、彼がギリシャ思想を受け継いでいたことに原因がありそうだ。ギリシャに一般的にあり、「万物は流転する」のヘラクレイトスが定式化した、ギリシャの「ロゴス信仰」の影響が福音書にも出ている。 ロゴスというのは言語とか理性とかという意味を持っている。 理性への信仰が福音書の最初から書かれている。日本では、江戸時代頃に「初めに賢きものありき」などと訳されたようだが、 (新共同訳聖書 ヨハネの福音書冒頭) 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 これは要するに、キリストをロゴスの化身と見なすヨハネの感覚である。 福音書家ヨハネがキリスト教の傍流かというと、そうともならなかったようである。ヨーロッパの歴史は中世でもギリシャからの流れを受け継いでいただろう。 ロゴスの対義語はなにかというと、大雑把にはパトスと言える。パトスは感情のような意味を持つ。キリストの受難は英語ではパッションだが、これは語源はパトスである。ロゴスを光とすると、パトスは優しくもあるような闇の豊穣といえるかもしれない。あるいは闇の中には悲痛なものもあるかもしれない。 キリストは受難しただけではなく、そこから復活したことが尊いとされている。これはロゴスの勝利という宗教体系であろう。 千数百年後、モダニズムの始祖デカルトは生涯をかけてロゴスを追及した。近代の科学技術の追求も宗教と違った形でロゴスを求めたことに他ならなかったと思う。 デカルトは自分の死を悟った頃、遺作として情念論を著した。デカルトは元来、……パトスは外部からの刺激により身体の内に起こるもので、受動的なものなのだが、精神それ自体とも錯覚される、……それをロゴスで統制してパトスを主体化する事が必要で、ロゴスが能動的なものである。 ……というようなことを主張していたのだが、死という現実に対しては、そう構えているわけにもいかなかったかもしれない。 さて、そこからまた数百年後の椎名林檎の「本能」だが、 「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」 と始まる。これはキリスト教のファンダメンタリストからすると、まさしくパンクロックであろう。新約聖書には初めからあるというのだから。 曲調は短調で愛惜が感じられる。理性とか言葉というものの死があったとしたら、それを愛惜する曲調である。 「約束は 要らないわ 果たされないことなど 大嫌いなの ずっと繋がれて 居たいわ 朝が来ない窓辺を 求めているの」 「約束」を男女の結婚のようなこととして想像することもできるが、それにしてはこの曲はあまりにも悲劇的な香りがしすぎる。 言葉とか理性の死と、そういったことが約束していたものに関する愛惜として捉えるべきかと思う。 「終わりにはどうせ独りだし 此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが良い」 「虚(から)の真実」とはなにかと考えると、これはパトスに他ならないだろう。それは闇の豊穣というより悲痛さであろう。 十字架上のキリストの「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」という言葉があった。これは古来からキリスト教徒には認めがたい不可解な言葉とされていた。「神よ、なぜ私を見捨てたのか」ということだからである。(たとえばイスラム教はこの言葉とともに「精霊」がキリストを離れたと見なし、彼を神の子ではなく一預言者として捉えている。) だが、人が絶望のうちに死を迎えることが少ないといえるだろうか。努力とか、理性もむなしく、絶望というのは決して少なくはないだろう。 もしかすると、それは、言葉とか理性とかがあったから絶望もあったのかもしれないと考えることはできないだろうか。 詩によせて 人々は理性をかざして進んできた筈だったのだけど、いつのまにかうまくいかなくなっていた。いつのことだかわからないのだけれど。 理性には光があったはずだった。命があったはずだった。今でもそう思う。 とにかく、どうしようもならないことは多いように感じてしまう。 こんな筈じゃなかったと、時折叫びたいようにも思う。たしか、真実のようなことがどこかにあったように思う。でも、確信がなくなってしまった。 陽の光は、はたして正義をもたらすのだろうか。憶えている事では、確か正義はもたらされるべきものだったと思う。 ……すべてのことは、裁かれるべきだっただろうか。 もしかすると、でも、自分の孤独のようなことに人との共感があるような気もする。 それが正義ではなかったとしても。その孤独が報われず、人生が徒労に過ぎなくても。 少なくとも私は、誰かが惨めに朽ちていくのをただ見過ごしたくない。 そこには悲しみがあった筈だ。 私は忘れたくないように思う。 「本能」椎名林檎詞曲、1999
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お礼
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