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無駄な努力など,やまちまえ!?

恋愛にかんする経験談のなかには,みずから「魅力」なり,「付加価値」をものにするため,さまざまな「努力」をしたというものが少なくありません。 たとえば,ヘテロセクシャルの人々が,魅力的になるために,語学の勉強をしたり,楽器をレッスンを受けたり・・・。 しかしながら,そういった「努力」を積み重ねたとしても,パートナーを獲得するという結果にいたらないことが多々あります。 そのような「努力」は,恋愛という言説においては,意味のあるものなのでしょうか? それとも,単なる「骨折り損のくたびれ儲け」なのでしょうか? (わたし自身のことを書きますが,これまでパートナーに恵まれたことが,一度もありません。また,付加価値という点においては,母語と同じ程度に話すことのできる外国語があるほか,楽器の演奏についても,音楽大学に進学できる程度の技術を持っています。付加価値という点においては,恵まれている要素があるかもしれませんが,それらは決して,恋愛に結びつくものではありません。むしろ,付加価値が多いほど,恋愛には不利になると考えています。恋愛のために,語学の勉強をしたり,楽器のレッスンを受けたりする人々は,時間とお金の無駄遣いではないかと思うときがあります。)

noname#228363
noname#228363

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10482/32972)
回答No.6

恋愛の付加価値について間違った「風説の流布」があるからです。 語学の勉強をしろとか楽器が弾けるようになれというのは本当は、ウソです。そんなものが恋愛の魅力の本質ではありません。 恋愛における最も重要な付加価値とは、「見た目がいいこと」です。若くて、健康で、美しく見えることです。これが一番重要。いくら語学が堪能でも楽器が上手でも、見た目が老けていて、病気ぽくて、美しくないならモテません。 次が「相手(異性)のことをよく理解していること」です。男性と女性では考え方が違います。女性に対して男の論理を押し付けても、男性に対して女の論理で説明しても、相手の理解は得られません。「男性は女性のどこに魅力を感じるのか」「女性は男性のどこに魅力を感じるのか」ということをきちんと理解する必要があるのです。 だけど「見た目を良くしろ」とか「異性ウケを狙え」というのはなんだか下品な感じがします。俗物的にも程がありますよね。ビジネスでいうと「儲かればなんでもいい」みたいなものです。だからみんなそういうあけすけなことは明言しないのです。 ちなみに、ビジネスも皆さん「社会に貢献することが・・・」とか「より良いサービスが生き残る」とかしたり顔でいいますがそんなことはありません・笑。ワタミだのすき家だのはブラック企業のままですが潰れずに生き残っています。楽天なんて、褒めている人に私は会ったことがありません・笑。私も大嫌いで、関わらずに済むなら関わりたくありません。だからビジネスの世界も「露骨な法律無視はまずいけど儲かることが重要で、儲からなければ意味がない」のですよ、実はね。それが分かっている人の会社が生き残り、そうじゃない会社は淘汰されます。ビジネスの世界でも評論家がしたり顔で「商品に付加価値をつけることが重要」とかいいますが、付加価値つければ売れるんだったら誰も苦労しません。

noname#228363
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • zabusakura
  • ベストアンサー率15% (2232/14804)
回答No.5

あなたが付加価値って思ってることと女性が付加価値って思ってることが=では ないということだけだと思います。 自国語以外を流暢に話す方も音大に進学できる程度の技術の方も山ほどいるから。 それは、好きになられてからのプラス要素には、なるかもしれないけど、人間として 男性として素敵だなと惚れこまれるには、弱いと思います。

noname#228363
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • E-1077
  • ベストアンサー率25% (3258/12621)
回答No.4

想定される恋愛の「相手」が要求する「付加価値」に見合っていないから。 ではないかと推測します。 つまり、楽器が弾ける=すばらしい!にはならない人もいる。「へー」で終わる人を対象にしていたら意味ない。「それはいいね!私もやるんですよ!」ってなったら先に進むだろうけれど。また、こういっちゃなんだけどアマチュアでも構わないんですけどね。技量はともかく・・・・。そこを「音大に入れるレベル」というのがこれまた中途半端。音大にはいかないんだ?ってなる。 外国語にしてもそう。相手が同じような人ならば有効だろうけど、関係ない人には「へー」で終わる話になってしまう。 恋愛に結び付けるには、恋愛に発展しそうなところに参加するとかしないと無理でしょう? 本当に恋愛の為に行動しているのかな?「恋愛をするため」にいろいろな習い事をするのではなく、自分の中でどれだけまだ能力があるのか、その方向性が間違っていないのか、また隠れた才能を開花させるためという別の目的も含んでいると思う。勿論そこからの出会いを求めているのは間違いないだろうけれど直接ではない。つながってつながった先で「あ、そういえばいい人いるよ」という情報が入って来るきっかけになれば・・・という話になるんだと思うのよ。 実際語学スクールで出会うのはあるし、ボランティア活動をしていながら知り合うケースもある。おばちゃん相手にしてたら「うちの息子の~」とか「うちの娘の~」になるとかさ。知り合いの知り合いが・・・とかさ。 何かを出来るアピールよりも、今頑張ってますか、これから頑張る!という状況の方が恋愛に結び付きやすいと思う。 そういう点を考えて行くと、あなたが恋愛にたどり着けないのは自身の自己アピールのやり方を間違えているか方向が違うのではないかな?と思いました。 また実際に自分のスキルを発揮してそれを活かせる場面で駆使したのか?という疑問もまだある。 出来る楽器を持ち寄って(もしくは店にある楽器を借りて)その場でセッションをやる店があるんです。そういうところに通っていると声がかかることがある。 勿論歌だけでもOKだし。そういう場所なら楽器出来る人は人気がある。楽しいし。 人生を考えて行く上で、何かを追い求め続け努力し続けるのは決して無駄ではないと思っています。いくつになっても何かを努力し続けているのはとても素敵だしその姿勢が凄いと思う。 だから骨折り損のくたびれ儲けにはならないと思うよ。恋愛に結び付かなかっただけで自身のスキルアップにはなるんだから。

noname#228363
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.3

君の努力は正攻法。 じゃあ。モテルための努力というのは整形する等、裏技的な努力だと思う。

noname#228363
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 世の中の,大多数の人々は,「裏技」を好みます。

  • soramn
  • ベストアンサー率6% (59/901)
回答No.2

恋愛のために努力するからじゃない?

noname#228363
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • SangoJugo
  • ベストアンサー率25% (34/133)
回答No.1

恋愛における付加価値って何ですの? 商学の用語としては,(売値 - 仕入値) つまり 粗利のことですけど。

noname#228363
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 どのくらいの「粗利」があれば,付加価値といえますか?

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  • 「条件」にこだわり,自分自身を「忘れる」人々

    パートナーを選ぶという観点においては,誰しもが,「条件」というものにこだわります。 しかしながら,「条件」ばかりを語る人々には,面白い共通項があるようです。 それは,「条件」ばかりを語る人ほど,恋愛ができないということです。 なぜ,「条件」ばかりを語るのでしょうか? 自分自身に自信がないから,自分自信が嫌いだから,「条件」をつけて,パートナーの存在を「利用」したいのでしょうか? 恋愛や結婚とは,単なる,「エゴの衝突」なのでしょうか? いくら,恋愛経験のない人々であっても,「条件」というものが,あります。 たとえば,恋愛経験のない人物が,その人物がヘテロセクシャルであると仮定して,「どんな女性でも良い!」などと言うわけにはいきません。どんな女性でもかまわないという人がいるのならば,わたしはその場で,福田和子でもいいのかと質問します。命がほしければ,そのような女性を,パートナーには選べません。 これが,ヘテロセクシャルの女性であれば,「どんな男性でも良い!」などと言うわけがありません。宮崎勤や松本智津夫と恋愛できるか,あるいは,結婚できるかと問われたら,素直に首を縦に振る女性など,ほとんどいません。(ほんの数名はいるかもしれません。)

  • 「モテるの条件」にひそむ「矛盾」と「大ウソ」

    これまでに,恋愛にかんする「言説」には,たくさんのものがつくられました。 たとえば,「外国語ができる彼氏がほしい」,というものがありますが,わたし自身の経験ではありますが,わたしの母語は日本語で,英語も母語と同じように使うことができます。日本語で裁判員をやることができますし,言語スキルという点においては,英語で陪審員をやることもできます。 しかしながら,外国語ができるからといって,わたしにはパートナーを持ったことが一度もありません。外国語ができればモテる,それは大ウソです。しかしながら,いまだに,モテるには英会話教室に行けばいいよ,あるいは,外国語ができるとモテるよ,などと,ウソがまかり通っているのが現実だと,そのように思うときがあります。 また,「スポーツができる」,「楽器が演奏できる」,というものもあります。わたし自身の経験ではありますが,わたしはピアノを弾きます。現在は,昔ほど練習に時間をとることが出来なくなったので,音大生が弾くようなものを演奏することはできなくなったのですが,初~中級程度の,ベートーベンのソナタ,ショパンの即興曲,そういった程度のものであれば,時間を割けば弾くことができます。 そういった「スキル」はあるのですが,そういった「スキル」があるからといって,異性とのあいだに「縁」があったわけではありません。つまり,楽器の演奏ができるから,とか,スポーツが得意だとか,そういったものは,「モテるための要素」にはなれないのです。 では,「モテるための,ほんとうの要素」とは,どのようなものなのでしょうか?それは,非常に「矛盾」したものです。「タテマエ」としては,「〇〇ができる人を好きになると思います!」といいながらも,その「ホンネ」とは,「〇〇ができる人って,なんか,難しそう・・・」ということになることが多々あると思います。 いわゆる「モテる条件」とは,「非常に矛盾」したものであると,わたしは考えます。 皆様は,こういった「恋愛の言説」や,「モテるための条件」というものが,「矛盾に満ちたもの」であるとお考えでしょうか?