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私は情が移てしまい従業員に対して非情に徹しれない!

「資本家」として失格な様です。労働者や部下兵士の命は「雲よりも軽い」、「虫けらである」ことに徹しれません。  本来は「労働者」や「部下兵士」も立場を受け入れて自ら「自己犠牲の精神」で働いていただけるといいのですが?  資源に乏しい日本は、みな「平等」になれる思想が間違っていると思います。

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回答No.8

ファミリー経営で成功している会社もあるし、武田信玄も「人は石垣、人は堀」と言っています。非情な経営をすれば必ず成功するというものでもありません

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その他の回答 (8)

回答No.9

それならそれで、自分なりの資本家スタイルを構築していくしかないですね

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  • jetdragon
  • ベストアンサー率9% (22/230)
回答No.7

労働者や部下兵士の命は「雲よりも軽い」、「虫けらである」そんな風な考えが電通自殺事件のようなことを起こして問題になっているわけです。

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10539/33124)
回答No.6

だとすると、世界で最も優れた体制の国は北のあの国だということになりますね。元首にとって危険とされた人物は誰であろうとすぐ処刑されますものね。 あそこの国の人たちも、将軍様や第一書記様のために自己犠牲で働いてらっしゃるようにも見えますけどね、あのプロパガンダ放送を見る限りは。そういえば、資源がないところも我が国とそっくりだ。

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  • ontitan
  • ベストアンサー率12% (27/209)
回答No.5

どうでしょうね。優れたリーダーというのは情と非情をうまく使い分けていたと私は思います

7964
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。それはきっと徳川家康翁だと思います。

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回答No.4

資本家云々よりも以前に、経営者に向かないといことでしょう。

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  • 92128bwsd
  • ベストアンサー率58% (2275/3919)
回答No.3

スティーブ・ジョブスが生きていた頃、アップルの本社ビルの社員はエレベーターを使わずに努めて階段で昇り降りしていたそうです。なぜなら、エレベーターだとジョブスと乗り合わせる可能性があり、そこの会話で気に入らないことがあるとその場で首になることを恐れていたのだそうです。確かに伝記を読むと劇場的につまらないことで社員を首にしたりしていたようですが、そのことがジョブスの経営者としての評価をあげていたとは思えません。むしろ、従業員に対して思いやりのあるフェアな人物でなかったにも関わらず、経営で大成功した人物として補って余りある能力があったと考えるべきでしょう。 私の知っている大企業の経営者はことごとく従業員思いの人格者、またはそれを見事に演じています。個人商店や中小企業のワンマン社長でもない限り、人間としての魅力がなければ、多くの職位の階層と末端の大勢の従業員を抱える企業は通常経営はできません。 ただし、企業は人の人生まで面倒を見るものではなく、会社と従業員の契約でなりたっているので、会社の経営が危なくなったときにはリストラをする覚悟は必要です。経営者である以上、顧客や株主、残された従業員を守るために、リストラを躊躇スべきではないのですが、リストラを実行するのは誰にとっても辛いこと。そのときに、経営者の人格の差が出ます。自分を正当化するためにリストラされる社員をもともと不要な人材だったと思いはじめる経営者。自分の能力手腕が足りなかったために、多くの社員を傷つけることになったことを反省し、社員に出来る限りの事をしようとする経営者。従業員として、スタッフとしてその後どっちについていきたいかは明らかですよね。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

それでは有能な資本家とは言えません。 英国の オックスフォード大学・感情神経科学センターの エレーヌ・フォックス教授ケヴィンダットン博士 らの調査によると、 歴史の英雄や大企業の経営者には人格障碍者が 多いそうです。 つまり、他者の痛みに鈍いんですね。 そういう人でないと大きな仕事はできないのでしょう。 このように、人格障害は良い方向に出ると成功者に なれますが、悪い方向に出ると犯罪者になったりします。 7964さんは、正常なんですよ、きっと。

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回答No.1

ははは、第二次世界大戦前からタイムスリップされた方でしょうか。 貴方が誰を師としているのかは、なんとなくわかりますが、時は、移り変わり、昨日の正義は、今日の悪だっだりします。今の時代に合ったビジネス戦略を学びなおした方が良いと思います。

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