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松平定信について

松平定信についての事で疑問があります。 松平定信は吉宗の孫なのに、何故、白河藩主にしかなれなかったのでしょうか? また、何故、松平定信は白河藩主にしかなれなかったのに、老中主座兼将軍補佐という地位につけたのでしょうか? 後、松平定信は幕閣の最高権力者だったのに、何故、辞めさせられてしまったのでしょうか? 幕閣の最高権力者・松平定信が何故辞めさせられたのか、有力な説とかあるのでしょうか?

noname#223261
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  • ithi
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回答No.1

wjtmfa さん、こんにちは。 それは御三卿の一つ、田安家が彼の出身の家ですが、兄と一緒に久松松平家に養子に出されたからです。久松家は家康の実母の実家ですから重要な家です。久松家の分家である白河藩は11万石ありました。そして彼自身、近衛少将という官位を特別にもらい、11代将軍徳川家斉の老中主座兼将軍補佐となりました。本当なら大老にでも付けたかもしれませんが、まだ30歳で家にはそいう祖先がいなかったので仕方がなかったのでしょう。これが寛政の改革の始まりです。しかし、家斉の実父である一橋治済の処遇を巡って、家斉と定信は対立して、定信は免職させられてしまいます。 詳細は下記のURLを参照ください。 徳川家斉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89 一橋治済 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

noname#223261
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