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お殿様の住居

戦国時代、大名の家族はお城の外に住んでいたのですか? 確かお城って砦で天守閣は展望台と戦のための建物ですよね? 城の外壁の外に住んでいたのですか?城下町に住んでいたのですか? 気になります。

  • 歴史
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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ★戦国時代(信長まで)の城は、主に、「山城形式」(やまじろ)、と、「平城形式」(ひらじろ)との2種類に分かれます。 ★山城 小高い丘や丘陵地を城に見立てて、坂を登るにつれて、「三の丸」「二の丸」「本丸」(天守を含む)と、それぞれに建物を配し、家臣たちに交代で詰めさせていました。 「本丸」と呼ばれる区画には、「殿御殿」「奥方御殿」「姫御殿」なども造られていました。 だからと言って、夫婦や子どもたちが別々に住んだわけではあませんが、江戸時代では「表」と「大奥」のようなものと考えていただければ結構です。 その他としては、「武器庫」「弾薬庫」「米蔵」「石(積)庫」なども当然ありました。 「石積庫」は、もうお分かりと思いますが、各地の城で見られる「石落とし」のためです。 ★また、城への坂も「大手坂」「城坂」などの主要な坂には重臣たちの住居を配し守りを固めていました。 さらに、脱出用の間道としては「逸地道(坂)」(それぢみち)なども密かに造られていました。そして、人知れずの「けもの道」のような細い道も放射状に造られていました。 ★さて、こうして見てくると、「山城」は狭い尖がった城構えのように思われがちですが、どっこい、どっこい、奥手の山を切り崩して、「馬場」(馬の訓練場)や「練兵場」(兵士の訓練場)などの広大な平地も造っていたのです。 ★平城 平地に土塁や堀を巡らせ「大手門」から入ると「三の丸」「二の丸」「本丸」と守りを固めました。 重臣たちの住居は、それらの土塁や堀を取り囲むように配しました。 どちらのご出身かは存じませんが、埼玉県の「川越城」(別称・初雁城)がこの「平城」の典型的な造りです。 ★建物の形式は、「山城」も「平城」もせいぜい二階建て位で、「天守」はあなたのおっしゃる通り、「展望台」、「物見櫓」でしたが、戦に備えての米(兵糧米)、雑穀類、武器、果ては、台所用品、貯水桝、厠(トイレ)などもあり、簡単に言うと「雑倉庫」のようでもありました。 ★現存する一番最古の城と言われる「犬山城」などの天守に昇ると、ただただ板敷で何も物は置いてなく、まさに、綺麗な展望台。というところですが、当時は、それこそ「最後の砦」であり、そこに立てこもることを考慮して、何でもかんでも、籠城などに必要と思われる物が所狭しと詰め込まれていました。蜘蛛の巣のかかった古ぼけた倉庫を連想していただいて結構です。そんな状態だったのです。 ★戦国時代は尾張や岐阜、美濃、駿河、など、現代で言うと「中部地方」では常に戦いが繰り広げられていましたが、遠く離れた国々では意外と平穏で、それらの殿さまは、山城の場合ですと、城下に「平城」(ひらじょう)と呼ばれる「別邸」、夏は避暑地と思われるところに「夏居」(なつい)、冬はやや暖かいと思われるところに「冬居」(ふゆい)などという、いわば「別荘」を設けたりしていました。当然、それらの「別荘」で夏や冬を過ごしたのです。 意外と「優雅」だったのですねぇ。 ★「出城」もありました。 「本城」へ通じる主要道路の各所に小規模な城を築き守りを固めました。 (結論) ★戦国時代と言うと、すぐに、信長、秀吉、家康、信玄、謙信、など常に戦いに明け暮れていたように思われがちですが、遠く離れた国々では、まあまあ「平穏」でしたので、殿さまたちもそれこそ京の「安土・桃山文化」の流れを汲んで、「本城」に居るだけではなく、城下や避暑地などに、結構出歩いていたのです。

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます。専門用語が多かったので1個ずつ調べ城の地図や写真を見ながら読ませて頂きました。 犬山城は学生時代に行った事があると思います。ここ3年は20箇所ほどですが、水戸街道沿いにある支城跡中心に回って居ましたが、今年は「館林城跡」に行ってきました。 館林城跡http://www.brambling.net/fotografia/gunma/tatebayashi/tatebayashi039.jpg

その他の回答 (3)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.4

まず城は3パターンに分けることができます。 山の上に城があり山の下に館があるパターン。 これは下の館に住んでいます。 山の上に城があり山の下にも城があるパターン。 これは山の下の城に住んでいます。 こういった城の場合も山の下の城は本格的な防御力は無く、いざというときは山の上の城に立て籠もりますが平時の居住や政治活動は麓の城で行います。 独立した平城の場合 城の中の本丸あるいは二の丸あたりに館をつくりそこで暮らしています。 天守閣は無い場合も多いですが、ある場合でも天守閣でくらす大名はほとんどいません。 ただし安土城の信長は天主で暮らしていました。

kanirobo
質問者

お礼

城と言っても固定では無く地形に合わせた構造をしていたのですね。大まかに分けた3種類を頭に叩き込みましたので、これからはドラマや映画、城跡巡りをより楽しめます。ありがとうございました。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 戦国時代の大名やその家族はお城の中に住んでいましたよ。  天守閣=お城ではなく、「お城に住む=天守閣の中に住む」ではありません。砦や天守閣になっている部分は、お城のごく一部です。天守閣や塩・武器等の蔵、居住用の建物などなどを含めた全体が城です。  いま伏見城(桃山城)の模擬天守閣(非公開)があるのは、秀吉が建てた本物の伏見城の城内の「古地図ではお花畑と書かれている所」・・・ とNHK「ブラタモリ」で言っていました。つまりお「花畑(たぶん薬草などを植えていた)」も含んだ区域が、お城です。  お城にはさまざまなタイプがありますが、多くは、城内の比較的高い所(山)に物見櫓的なものや天守閣を作り、城内の平地部分に住宅を作ってそこで暮らしていました。  例えば織田信長がいた岐阜城なども、天守閣は山の上ですが、住宅(御殿)は山の麓にありました。私が行ったことは庭園などが発掘中でしたが、いまごろはかなり調査が進んでいるんじゃないでしょうか。  安土城などは、信長だけではなく、城内に主要な家臣の住宅もありました。秀吉の住宅もありましたよ。いまは案内看板も出ています。  逆に殿様が天守閣内に寝起きしていたケースもあります。犬山城の天守閣内に「殿様の居室」という案内板がありました。  ま、そう言えるのは、私が記憶するかぎり犬山城だけですけどね。  高知城は天守閣の内部と言えるのかどうか、私的には微妙ですし、現存高知城は戦国期の城ではないので。  ということで結論ですが、戦国時代、大名はお城の中(多くは城内の居住区)に住んでいた! 

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます。普通に城内に住んでいたのですね。 三国志だと街全体を壁で囲み住民を守るイメージで、日本の戦国時代だとお城は戦のための要塞で、籠城戦で兵糧攻めに遭うイメージでしたので、間違った見解だったことが分かり良かったです。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.1

kanirobo さん、こんばんは。 昔戦国時代では山城が主流でした。だから、城主やその家族は天守(殿守)という建物に住んでいました。大体は2階か3階の建物で、1回は御殿のような間取りであり、城主やその家族の居住スペースです。2階か3階は望楼式の見張りのための展望台でした。 桃山、江戸時代になると、書院造の御殿が城の本丸や二の丸に別に作られ、天守はただの城の象徴で、中は武器庫にはなっていますが、最後の砦のようになりますが、形骸化していきます。中には城の外に屋敷を構え、そこに庭園を築造する城主もいたようです。

kanirobo
質問者

お礼

ありがとうございます。時代劇(大河ドラマ・映画・年末年始の長時間ドラマ)を見ていると混乱してきましたが、時代によって住居が変わるんですね。 これで疑問無く楽しめることが出来ます。

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