上野公園の彰義隊墓碑・記念碑がないのは淋しい
- 上野公園にはかつて彰義隊のお墓がありましたが、現在は除去されているようです。これは日本人として嘆かわしいことです。
- 上野公園は元気さがあり、小さいお店も頑張って残っていますが、彰義隊の歴史的な場所が商業施設に押されていくのは残念です。
- 彰義隊の本営であった寛永寺は上野博物館になっており、最後まで戦った「上野戦争」の歴史を残してほしかったと感じます。
- ベストアンサー
上野公園の彰義隊墓碑・記念碑がないのは淋しい
久しぶりに上野公園に行きました。 久しぶりの上野界隈はとても楽しかったです。 西郷さんも、都心を眺めて何を思う?というロケーションです。 地方から来た年配の方も「じゅらくがない!」「上野に来たときは 必ず寄っていた!」「〇〇がない」「消えた!」と声をあげていました。 とはいっても、上野らしい元気さがあって、なかなか楽しかったです。 小さいお店も頑張って残ってました。うれしいかぎりです。 彰義隊のお墓が除去されたことは、話題になったので記憶していますが 旧幕府と新政府が戦った歴史的な場所が、商業施設に押されていくのは 「残念です」という言葉で済むものではなく、何とも、日本人として嘆かわしい・・・。 どこに行ったのでしょう? 何故なくなったでしょう? 彰義隊の本営だった寛永寺は、現在上野博物館になっています。 最後まで戦った「上野戦争」の歴史は残してほしかったと感じました。 上野公園には「小松宮彰仁親王」という方の立派なモニュメントがあったので すぐ近くに立っていたガイドに「この人はどういう方ですか?」と質問したら 「ごめんなさい。知りません」と言われたので、家に帰って、調べました。 薩長がどーだ。幕府がどーだという話ではなく、上野の歴史として残して ほしかったです。 詳しい方の説明をおききしたいです。 なんで?どこへ? よろしくおねがいします。
- ayeaye(@heriotoro-pu)
- お礼率97% (883/908)
- 歴史
- 回答数3
- ありがとう数3
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
上野の彰義隊墓所(墓碑・記念碑ではなく「墓所」だと思うのですが)がなくなったというのは、何かの勘違いではありませんか。2016年5月時点で、上野彰義隊墓所で慰霊祭が執り行われたという記事もあるのですが。 墓所近くにあった墓所事務所・資料室は、2003年になくなっていますね。彰義隊墓所を建設し、その後、実質的に独りで墓所を維持管理してきた墓守・小川家の都合(病気・転居)だったそうです。資料室の史料の大半は台東区教育委員会に寄贈されたそうです。 ・しのばず自然観察会&彰義隊・上野公園(墓守だった小川家の一族の方によるページのようです) http://www.ac.auone-net.jp/~sinobazu/syogitai.html このページでも、上野彰義隊墓所はまだあります、とわざわざ書いているので、資料室の撤去を墓所の撤去だと勘違いした人が結構いるのかもしれませんね。 こういった墓所の維持管理や慰霊祭・顕彰祭などの行事の継続は、主に子孫を中心とした維持団体がしっかりしていないと、あっという間に維持できなくなってしまいます。さらに、上野の彰義隊墓所はその設立の経緯からして、公的な記念碑としてではなく、末裔による私的な墓所としての性格が強く、公共の公園内に設置するのは本来ならNGだったのが、歴史的意義に考慮して特別に認められたという経緯があるようです。 上野彰義隊墓所が忘れ去られるのが惜しいと言うのであれば、何らかの形で維持管理にご助力なさってはいかがですか。顕彰団体に協力するとか、地域ぐるみの維持活動になるようにその意義を地元や自治体に働きかけるとか。 その価値を認める人すら、何もせずに「なくなるのは惜しい」とか言っているだけでは、その価値を他の人が新たに知ることはないですし、いま維持している人の限界が来た時点で、終わってしまいます。 例えば、江戸時代の藩主の墓所でさえも、自治体の文化財として一応は登録されているので最低限の維持管理はされていても、子孫がすでにいないとか東京に出ていて滅多に帰郷しないとかで、子孫の地元への影響力はなくなっていて、墓所も地元の人にもすっかり忘れられていたり手入れが行き届かなくて荒れ気味、ということがあったりします。特に墓所というのは、史跡である前に、「子孫が守る」宗教施設の側面が強く、その子孫が維持管理できなくなったときにどうするか、という問題がついてきます。特に幕末以降の史跡は、当時を直接知る人達がいなくなった昭和末期頃から、そういう問題が起こっていると思います。
その他の回答 (2)
- eroero4649
- ベストアンサー率31% (10495/33006)
内情を知っているわけではないので、推測になります。結局のところは、「残して欲しい声<再開発を望む声」ということになったのだと思います。 さて、その痕跡を残して欲しいと望む人はどんな人でしょうか。地元の人と歴史が好きな人だと思います。あの界隈は下町の風情が残っている場所ですが地元の人がそれほど多いわけではありません。 一方、「東京を作っている人たち」というのはどういう人たちでしょうか。まあはっきりいうと、地方出身で東京で一旗揚げてやるとやってきた人たちです。彼らにとっては東京は憧れの場所ではあるかもしれませんが、自分が生まれ育った場所ではないのでその歴史に愛着もなければ知識もないでしょう。そこに銅像や石碑があっても、「昔ここで何かがあったらしい」程度の認識です。そうなれば、その痕跡を壊してしまうことに対してもノスタルジーな感傷は起らないでしょう。 だから、「観光客を呼ぶために江戸城天守閣を再建しよう」なんて声が出てくるんですよ。江戸城天守閣は江戸初期の振袖火事で焼失して、以降は再建されませんでした。忠臣蔵の討ち入りのときにも、暴れん坊将軍の時代にも、八っつあん熊さんの江戸落語の世界にも、今に伝わる浮世絵にも、時代劇の時代(ほぼ幕末)にも、江戸城天守閣はなかったのです。だから、歴史的には「シンボルとしての江戸城天守閣」ってのはほとんど存在しないのですよ。それを「再建して観光客を誘致しよう」と言い出すわけですから歴史を知らないどころかリスペクトの気持ちさえないのが明らかです。「金になるなら何でもいい」のが見え見えですよね。 ただ、「東京の歴史」というのはひたすらにスクラップアンドビルドの歴史でもありました。銀座には日劇(日本劇場)というシンボリックな建物がかつてありました。今の有楽町マリオンです。マリオンには日劇を思い出させるものは何ひとつ存在しません。日劇は完全に亡き者にされたんですね。まあそういうものは東京じゅうにあります。逆にいえば、そこにいちいち郷愁を持っていたらキリがなくなるのが東京という街でもあります。
お礼
では、なぜ「西郷隆盛」「小松宮彰仁」の銅像は残っているのだろうか? 日本は、目に見えないものの価値をあまり大事にしないから、歴史が溶けて いきやすく、遺す遺さないを判定する羅針盤も脆弱です。 ここはイギリスやアメリカを見習ってほしい。 結局のところ、日本は「金」の話題が好き。 「上野戦争」を説明する掲示板でもあればいいのですが、今度、探しに行こうと 思います。 ありがとうございます。
- maiko0333
- ベストアンサー率19% (840/4403)
記念碑を作れ、残せという話はあちこちにありますが、 管理費は誰が出すのでしょう? 記念碑の掃除、周りの草むしりなど、結構お金がかかります。 記念碑がある以上、永代にかかる費用です。 あなたが生きて、死んだあとも永遠に・・・ 都民が出すの?それとも国?税金かけてまで掃除する意義がどこにあるの?
お礼
「記念碑」といっても、規模や意義はさまざまです。 「彰義隊」は管理費が原因だったのでしょうか?? ご回答ありがとうございます。
補足
少なくとも、歴史の教科書に載っているものは残すべきでは ないかと思います。 どこかに、残っているといいのですが・・・という質問です。
関連するQ&A
- どうして上野に西郷さんが立っているの?!
昨日、ふと思いました。どうして上野の公園に西郷さんの銅像があるのでしょうか?何かの記念でしょうか?「もう東京は薩長のものだ!」という感じでしょうか?何のため?何の記念に建てられたものか?知っていらっしゃるかた教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 上野公園のお花見デートの仕方について
今週末、最近知り合った女の子と上野公園にお花見に行きます。 楽しみ方としてはどういう感じが良いのでしょうか? これだけ有名なお花見スポットでデートをしたことがないので、アドバイスお願いします。 今のところは、桜を見ながら散歩して、上野公園内の歴史的なスポットなども一通り回って、座れるところがあったら少し座ってゆっくりして、その後は動物園に行くか、別のお花見スポットにいくかみたいに考えているのですが、そんな感じで良いでしょうか。。 2人だけですが、ビニールシート(他になにかあります?)は持って行った方が良いのでしょうか?
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 方言を話す歴史上の有名人といえば
方言ってのは、昔の方がより深く使われてきていると思います。 にもかかわらず、方言を話す歴史上の人物は限られていると思いませんか? ・西郷隆盛「おいどんは、西郷でごわす。」 ちなみに、私は「おいどん」とか「ごわす」とか使っている鹿児島人に会ったことはありません。 ・坂本龍馬「~しちょる。」「~ぜよ。」 あとは、歴史ドラマとか見ても、方言が印象に残る人物はいないような気がします。 関西弁を話す秀吉とか、一度もドラマに出てきたことはないように思います。 西郷と坂本に共通しているのは、出身地が薩長土肥の中に含まれるということ。方言を話すような田舎者が国政を動かしたというインパクトが強かったから、この二人だけ方言のイメージが定着したのでしょうか? なぜ、西郷と坂本だけが方言のイメージが強いのか、ご意見ください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 東叡山寛永寺の石高。
東叡山寛永寺のHPには、 「寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有しました」とあります。 質問です。 1.約一万二千石とは、大名の場合の“表高”に相当するものですか。 つまり、五公五民であれば、寛永寺の実収は約六千石ですか。 2.年貢徴収時の寺側の立会人は誰ですか。 私領では、藩の役人が村の名主の家の庭先で年貢米を検査するイメージです。 寺は、年貢徴収には直接関与せず、幕府の役人(寺社奉行の配下)が取り仕切っ たのですか。 3.年貢米は、寺の蔵に入れたのですか。 お分かりになる項目だけでもよいですから教えてください。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 現在の会津と萩との関係について
山口県萩市の歴史愛好家40人が、吉田松陰の旅した道のりを辿り、会津若松市を訪問した、と新聞に載っていたのですが、その記事で気になることがありました。 それは、「わだかまりは未だ残っていますが、互いに行き来することで~。」という、一行を受け入れた会津の民俗研究会の方のコメントです。 100年以上経った今でも、会津戦争は会津の歴史に深く刻まれているのだなぁ、と思いました。 そこで、会津(福島県)の方や聞いたことがある方、今でもそのようなわだかまりは実際にあるのでしょうか? 例えば、山口県出身の人の悪口や、ご年配の方から叩き込まれた話などありましたら、教えて下さい。 ちなみに、私の先祖は幕府の者だったので、観光で上野の西郷像を見に行ったと年配の親戚に話したら、「西郷は敵だぞ!」と冗談交じりで言われた経験があります。(^^;) これが会津だったら、もっとこのようなことがあるのではないでしょうか? みなさま、よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 幕末体制: 倒幕への動きの中での尊王攘夷派藩主の働き
倒幕への流れの中で、尊王攘夷派の薩長土佐では、藩主よりもむしろ、臣下の者の働きが歴史的によく語られております。 当時であれば藩命により人生が左右される程に藩主の力が大きかったと思うのですが、家臣が比較的自由に活動をしているように思います。(高杉、伊藤、西郷、大久保、坂本等) この点に関し、藩主と家臣の力関係の変化につき、ご見識のある方は、お教えください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 坂本龍馬が薩長同盟を締結させた???
「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説という内容の本を読みました。 つまり、実際の坂本龍馬が歴史上果たした意義、さらには龍馬自身の人物像は、司馬遼太郎の誇張によるところがかなり大きいとういう内容です。 実際、司馬遼太郎本人も 『あれは僕の竜馬なんだよ。「竜馬がゆく」は小説だから、史実の龍馬と区別するために「竜馬」という字を使ったんだ。』 と対談集で言っていました。 この「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説を知って以来、「竜馬がゆく」をそのまま信じて 「坂本龍馬が薩長同盟を締結させた。」 というのは間違った歴史観だと思えてきました。 小説のように龍馬が日本を救うための薩長同盟をひらめき、薩摩も長州も嫌がっているのに、ムリヤリ同盟締結をしたのでしょうか? 薩長同盟は少なくとも西郷と桂に代表される実質的な指導者層が必要性を感じていなければ坂本龍馬がいくら周旋したところで成功はなかったでしょう。 やはり薩摩もしくは長州に同盟に意志があり、同盟締結のための一つの手段として龍馬を使ったという方が納得できませんか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 新橋周辺の屋台の飲み屋?
明日久しぶりに飲みに行くのですが、、 なんか屋台の飲み屋に行きたくて、、 新橋周辺で屋台はないでしょうか? それかわきあいあいと飲めるお勧めの居酒屋みたいのはないでしょうか? ちょっとお洒落な居酒屋、お店がかわっている居酒屋、安い居酒屋、食べ物がおいしい居酒屋。 場所は山手線上でしたらかまいません。 あと、今上野公園の花見ってやっているのでしょうか? 確か上野公園もたくさん屋台の飲み屋が出ていたと思うのですが、、 ここ何日か寒くて桜さいてないのですが、、 知ってる方教えてください。 宜しくお願い致します。
- ベストアンサー
- お酒
- お台場の第三砲台跡について
先日、お台場公園の第三砲台跡を見てきました。 黒船来襲に備えて…ペリー…江戸幕府…ふぅん、昔歴史の授業で聞いたかもなぁ…くらいに思ってたのですが、帰り際にふと看板を見ると、「砲台跡とかまど場は江戸時代のものではありません」の表記が。 ん??江戸時代じゃないの?でもペリー来たのって江戸時代よね… これって、レプリカということなんでしょうか? それにしては砲台跡もかまど場も、すごく歴史を感じさせる風体だったのですが… 歴史に詳しい方、何か知ってる方、教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
詳細をありがとうございました。 見当たらなかったので、次回に行ったときに探してみます。 「墓所」という形ではありますが、もはや遺跡のような痕跡ですから ホッとしました。 微弱ですが、協力は惜しみませんし、資料も見に行きたいと思います。 「上野」ですよ。 「あぁ上野」 上野で「このような戦いがあったんだー」ということがわかる解説や掲示板、 パネルは目立つところに欲しいです。 上野に立って、散歩したときに、そういう場所だったんだーということは、 じみじみ噛みしめたいものです。 文化財に指定された「墓所」の事情はわかります。納得。 あとは地域の教育委員会や歴史編纂会、観光協会、地元の有志の方々が、 その文化財をどう扱っていきたいかという考え次第です。 遺跡や碑は、ビルや駐車場と違って、建て替えがききませんから、慎重に考えて 守って頂きたいです。 その土地がその土地であるための理由や根拠がありますから、それがなくなると もはやどこもかしこも皆、同じということになってしまいます。 あー味気ない。 目に見えるものだけを追っているから、殺伐とした人間が増えていることにも 気がついてほしいです。
補足
「歴史は正しく遺してほしい」これが私の質問の主旨です。 上野公園の敷地のすべては、もとは寛永寺の境内内にあり、 「上野の山で、上野戦争という戦いがあった」というような説明。 もっと、わかりやすく見やすく描かれたパネルがあってもいいのになぁと 思いました。 文化財は、歴史において勝ったものに陣どられ、現存する役人に遺す遺さないを 分別され、住民が管理費がないと騒いだ結果、存続の危機にさらされるという 運命にあります。 そういう運命をたどらないように、文化庁も目覚めてほしいです。 個人には限界がありますから、 やはり政府の後ろ盾こそ大事ではあるところですが・・・・ナカナカ。