• 締切済み

なぜ哲学はスリリングで軽やかなのか?

素人ではありますが、哲学には興味があり、そうした本をずいぶん読んできました。 そうしたなかで、前々からあまり快く思っていないことがあって、そのことについて聞きたくて投稿しました。 私は、哲学にかかわる本は、「スリリングな」「軽やかな」「しなかやな」等々の論考であると、ひじょうに独特、かつ極めてワンパターンの形容句で表現されていることがとても多いという印象を持っています。 もともとは、おそらくは「ニューアカ」のころから始まった形容方法だと思うんですが、それから何十年もたつというのに、いまだに飽きもせず、同じように、しかもどんな本ですらそのように表現をしていることに、かなり辟易としています。まして、言葉にセンシティブであり、思考の硬直を最も嫌う分野であるはずの哲学にかかわる仕事をしている方たちが、こうしたパーターン化された(しかも日本語としてわかったようでよくわからない)表現を繰り返し繰り返し使っていることに、抵抗を感じていないことが不思議で仕方ありません。 さらに言えば、こうした表現は、いいことであるという前提で使われていると思いますが、それがいいことだと決めてかかっていることも、思考の停止のようで抵抗があります。しなやかじゃなくて強直のほうがいい場合だってあるかもしれないでしょう。 そういう印象を持たれる方はいらっしゃらないでしょうか?またなぜそういうことになっているのだと思われますか?

みんなの回答

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.4

読みにくい回答になってしまい申し訳ありません。 自分の能力と使える時間でできる限り努力しました。 そういう印象を持ってないです。 質問者様の主張。 ・哲学にかかわる1980年代初頭からのすべての本は、ワンパターンの形容句で表現されている。  思考の停止である。 ・哲学は言葉にセンシティブである。しなやかじゃなくて強直のほうがいい場合だってある  思考の硬直を嫌う。 1980年代初頭からの哲学の本は、思考停止し、哲学は思考の硬直を嫌う。 哲学の本と哲学の対立はどうしてか? 哲学の本は、物として文章を一続きに固めないなければならないのに対して、 哲学は、場合によりけっこう変わるからです。変わらないところもあります。 1980年代初頭というのはニューアカという言葉から類推しています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0 ニュー・アカデミズムとは、1980年代の初頭に日本で起こった、人文科学、社会科学の領域における流行、潮流のこと。ニューアカと略される場合もある。 なぜ、哲学がスリリングで軽やかなのか? はわかりません。 下記全部は余談です。 ところで、質問者様の主張を適当に切って相対と絶対に雑に分けてみます。 相対  しなかやな、いい場合だってある、思考の硬直を最も嫌う。 絶対  強直な、すべての本は、ワンパターンの形容句で表現されている。思考の停止である。 分けたからといって、どうということはないです。 絶対的な(=強直な)感じが嫌われ、相対的な(=しなやかな)感じが好まれる傾きが強い現代なのかしら。 たぶん、質問者様の真の主張は、強直かつしなやかな哲学がある。のはず。 強直で、スリリングで、しなやかで、軽やかで、等々全部な哲学がある。みたいな感じ。 それとも、強直な哲学がある。そして、しなやかな哲学がある。みたいな感じ。 強直に思考停止しないって矛盾ぽい。 しなやかなワンパターンも矛盾ぽい。 矛盾ぽいことはとても面白いし好きです。 軽やかな哲学→あるみたい。 http://book.asahi.com/reviews/column/2016032200002.html しなやかな哲学→あるみたい。 http://www.mammo.tv/interview/archives/no224.html スリリングな哲学→あるみたい。 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AA%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%97%85-%E7%94%B2%E7%94%B0%E7%B4%94%E7%94%9F/dp/B01E06FJ1O 強直な哲学→ないみたい。 https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E5%BC%B7%E7%9B%B4%E3%81%AA%E5%93%B2%E5%AD%A6 剛直な哲学→あるみたい。 https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E5%89%9B%E7%9B%B4%E3%81%AA%E5%93%B2%E5%AD%A6 ごめん。揚げ足取りたいんじゃないんだ。大体読めるし、問題じゃないんだ。 強直でも同じ意味だけど剛直のほうが検索しやすいんだ。 強直って言葉に特別の思い入れ、別の理由がある場合は、私の完全な言いがかりです。 申し訳ありませんでした。 強直きょうちょく [名](スル) 1 かたくこわばること。硬直。ごうちょく。「筋肉が強直する」 2 関節強直のこと。 3 ⇒強縮(きょうしゅく) [形動][文][ナリ]意志が強く正直なさま。剛直。「強直な人物」 https://kotobank.jp/word/%E5%BC%B7%E7%9B%B4-478675 剛直ごうちょく [名・形動]気性が強く、信念を曲げないこと。また、そのさま。「昔気質の剛直な人柄」 https://kotobank.jp/word/%E5%89%9B%E7%9B%B4-496612

kireinahanabi
質問者

補足

ありがとうございました。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

「哲学はもっとも思考の硬直化を嫌う分野である」、そして「ひじょうに独特、かつワンパターンの形容句で表現されていることがとても多いという印象を持っています」というのには私も共感するところが多いです。 私も昔からカントばっかり読んできて、思考が硬直化して、自我だとか、意識だとか、心だとか、主体だとか、そんなものを人間が持っているのは、「常識」のように思ってきましたが、最近は「そのようなワンパターンの形容句で表現される」言葉に疑問を抱いて、現代アメリカのネオ・プラグマティズムのローティーやパースを読むことで、人間には自我もない、意識もない、心もない、主体もない、という哲学を知って、「思考の硬直化」から逃れることが出来ました。 ローティーは、心というのは、人間がもともと生まれた時から持っているのではなく、「作られたもの」と言っています。 人為的に。 また、パースはデカルトを批判し、カントを批判し、人間には自我もなければ、主体もない、意識もないと言っています。 それによって、私は「思考の硬直化」を免れました。 かつてカントは中世スコラ哲学から、デカルト・スピノザ・ライプニッツと盛んに「実体」という言葉が使われ、それを「純粋理性批判」で批判し、以来、哲学者で「実体」という言葉を使わなくなりましたが、現在では、カントのいう「図式」、主観・客観、意識とその対象、主体と客体、という言葉がだんだん使われなくなっています。 このように「哲学は思考の硬直化をもっとも嫌う分野」です。 私たちは学校で、先生から「私たちは自我というものを持っています」と教えられてきたから、自我があるのだと思ってきましたが、そうではないんですね? 実際は自我なんてないんですね? それを現代のアメリカの哲学者に教わりました。 思想は19世紀にドイツに盛んになり、それが20世紀になると英国に代わり、20世紀の後半になると、フランスに代わり、今はアメリカに舞台が代わり、概念がどんどん変わっています。 また、考え方も、どんどん変わっています。 哲学って、「硬直化をもっとも嫌う分野」なんですね? だから古い考え、自我ある、心がある、意識がある、主体がある、という考えもどんどん変わって、みんな否定されています。 ホント、面白いです。

kireinahanabi
質問者

お礼

天井というのは打ち間違いです。もちろん。

kireinahanabi
質問者

補足

私の質問とは離れたお答えですが、興味深く拝見しました。パースは読みましたが、ローティーは何せ分厚いのでいつも躊躇していました。興味がわいてきました。ただ、こういう議論はクラインの壺というか、自己言及のパラドックスというか、そういうことに逢着する心配ははないのでしょうかね。すべてを否定したら、その否定した論考自体はどうなのか、ということを少し心配してしまいます。まあ余談ですが。 私は、いまだにカントが好きです。カントの、「天井にきらめく夜空の星と、わが内なる道徳律」にはいまだにしびれます。

回答No.2

「目からウロコ」だからです。 惰性的感情や先入観の上で、表面的な詩作に 耽るのではなく、見えている世界そのものを 色鮮やかにする(深く認識する)のが、哲学の 本質です。

kireinahanabi
質問者

補足

ちょっと何を言われているのかわかりません。

回答No.1

>しなやかじゃなくて強直のほうがいい場合だってあるかもしれないでしょう。 御意。 >そういう印象を持たれる方はいらっしゃらないでしょうか? おなじような印象を持ちます。 言葉に対して流行に敏感というか、確たる自己を持たない人のグループで流行っているのかと思います。 >またなぜそういうことになっているのだと思われますか? 哲学の書籍全般ではなくて、21世紀の軽薄なる日本において、無責任に現状を否定したがる所謂左翼のうち、哲学を教えることで血税から給料をもらっている様な特殊な連中が、同類であることを確認する為の暗号ではないか、と思ったりします。

kireinahanabi
質問者

お礼

ありがとうございます。でも最後のコメントがなんともですね。

関連するQ&A

  • 哲学と言葉

    哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね? 頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。 けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。 私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。 歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。 数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね? 漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。 はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。 どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。 酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。

  • 大学で哲学、倫理学を学ぶ意味はありますか?

    大学の哲学や倫理学の知識だったら自分で本を読めばいい話です 論理的思考を身に着けるのだったら数学科や情報学科の方に行けばいいし、そっちの方が身につきます 批判的思考や深く考える思考も大学で学べば身につくことではない また倫理学については、大学の生半可な倫理学を学ぶより大学の法学を学んだ方がよっぽど高度に倫理学をしていると思います その辺の倫理学の数十倍は高度に実践哲学の様相を示している。かなり踏み込んだ次元まで粘り強く思考し、複雑な難題に取り組んでおリ、しかもそれが現実・実践・実用に直結している。 大学で哲学、倫理学を学ぶ意味はあるのだろうか?

  • 哲学の本の題名を教えてください。

    知っている方がいたら本(哲学書)の名前を教えてください。 以前途中まで読んだ本で題名を書きつけておいた紙をなくしてしまい、わからなくなってしましました。 この一カ月くらい探していたのですが見つけることができなかったので, 少しの手掛かりですがもし知っている方がいたら教えてください。 ・著者は日本人。 ・この10年間哲学について考えてきたが今のところ意味があったようには思えない というような内容の言葉を最初のほうで述べていたのでとても印象に残っています。 ・大学生活のころはよく友達と集まって哲学書について語り合った というような内容が書かれていました。 記憶もあいまいでこれだけしか情報がないのですが何といっても、あまり意味がなかったのでこの読者にはそういった時間はあまり過ごしてもらいたくないなど衝撃の言葉があってもっと読みたい一冊だったのでよろしくお願いします。

  • 哲学科か日本文学科か

    高校三年生の女子です。 私は将来のなりたい職業がなく未だに大学の学科も決まっていません。 自分のやりたいことから決めようと思うのですが、 私は人の気持ちについてや善悪について、 生きる意味などを考えていきたいと思いました。 そこで自分にあっているのは哲学科なのかなと思うのですが、 大学で学ぶのは哲学史や言語がほとんどだというように見ます。 知識として先人の考えを学ぶというのももちろん興味深く、 学んでいて(といっても入門書を読む程度です)楽しいのですが、 やはり私は自分の考えと他人の考えの議論など (答えがなくても)能動的に考えるということがやりたいと思うのです。 哲学科では本当に思想などを「学ぶ」だけなのでしょうか。 日本文学科では文芸・文学コースを選べば本を深く読んだり、 表現方法を学んだり出来るみたいなのでそちらのほうが向いているのかもと思いました。 うーん…結局私には何が向いているのでしょうか?? 哲学科、日本文学科以外でも向いている学科がありましたらアドバイスお願いします。 また、それぞれの学部の具体的な授業内容も知りたいです。 自分のやりたいことがはっきりと1つ決まっていればいいのですが、 如何せん色々と興味が散漫しているのです。 よろしくお願いします。

  • 「周知のように」という表現

     この前、私はある目上の人から、自分の論考について、ある箇所について指摘を受けました。それはたしかにある専門家たちからいえば、当たり前の常識的な内容なのですが、私はそこに「周知のように」をつけていないことで注意を受けました。その人いわく、「よくそんな当たり前のことを発見したかのように書けるな」と嫌みのように言われたのです。  細かい話ですが、どうもこの表現は使い勝手が良いのですが、使いすぎるのはよくないと個人的に感じて、その注意された部分はあえてつけませんでした。考えようによっては、あらゆる箇所が「周知のように」になってしまうからです。  これほど個人差のある表現もありません。経済学者ならクルーグマンは当たり前でも、哲学者にはあまりきちんとは分からないはずですし、ハイデガーはいくら有名な哲学者とはいっても社会学者や政治学者の多くはあまり詳しくはないはずです。  読み手が専門家にかぎられていない場合、「周知のように」という表現は時に自己満足でしかないとさえ思えますし、かえって読み手に不親切な印象さえ私はもちます。  どう思われるかみなさん教えてください。「周知のように」をなくそうということではないですが、細かいことではありますがこの表現がどこまで妥当なのかよく考えてみたいのです。

  • もっと実用的な哲学はないものでしょうか?

    ニーチェ、キルケゴール、フーコなどなどの著作を読んでる(乱読)のですが、けっして下らないとは言いませんが(むしろ「古典」や「基礎」としては大変価値がある)、正直、現代とはかけ離れていて何処か「机上の論理」めいたものを感じます。 回りくどいうえに、大して重要ではない事を難解な言葉で長々と綴っている…そんな印象を受けます。 確かにまだ既定の概念がなく、あるいはそこからさらに未来の先端を切り開いたという意味では、「当時」としては画期的であり革命的だったかもしれません。 また、哲学は「学問」であり、「教訓ではない」というのも分かります。 ただ、ここ最近読んだ書物の中で一番為になったのは、カーネギーの経営関係にまつわる経済本でした(経済といえど「人間」が主体であり、欲望が習性が如実に表れる分野で、ある意味哲学“彼らは失敗すれば文字通り「死」が待っているので”の領域かなと感じました) あとは孔子の教えが現在参考になっています(ただ、儒教は何処かもう古い気がします…) 最近は知人からサルトルの実存主義の方をすすめられています(ニーチェやキルケゴールでは古典といえやや古いとの事…)。 そういえば、最近(でもないかもしれませんが)フランスか何処かの国で、著名な先生が「意味のない理論」を‘画期的な理論’として発表したら絶賛されて、ネタばらしした事件があったような…。 もっと実践的(最先端?)な哲学を探しているのですが、お勧めはありますでしょうか?

  • シンプル イズ ベストは本当か

    20世紀の現代美術や建築、車や広告などのデザインを見ていると、 表現が時間と共にシンプルになっていく傾向が見られます。 たとえば、 ダダイズムがミニマルアートになる流れ。 T型フォードがフェラーリF40やTOYOTAプリウスになる流れ。 ガウディが安藤忠雄になる流れ。 幾人かの個人的な思い入れで生み出されていた表現が、 時間を経て、世間に広まり、多くの人の 様式化された表現となっていくのは理解できます。 ○ しかし、それがなぜシンプルになろうとする 方向に向かって進むのでしょうか。 ○ シンプル イズ ベストという価値観は 時代を問わず普遍的なものでしょうか。 表現がシンプルになるに従い、 表現の是非が、表現結果を対象とするのではなく そのコンセプト(思考方法や発見)やストーリー(理由や動機)を 対象とするようになりました。 表現は言葉による補足を前提とした、 シンボリックなプレゼンテーションでしかない。 (つまり難解だったり、感情移入を排除する表現になる) 哲学について素人ですが ウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読んで ミニマルアートの彫刻を見ているような芸術性を感じました。 その一方で、シンプルさゆえの難解さも感じ、 哲学の世界にも同じような傾向があるのだろうかと考え、 投稿させていただきました。 漠然とした質問ですが なにかヒントを与えていただけたらと思っております。

  • 哲学と死の恐怖の克服について

    私は小さなころから死が怖いです。 死について考えると、世界が何の根拠もないものに思えて、 日常生活というのは全て無意味な勘違いで、私にわかることなんて世界にひとつもなく 私に与えられる意味や価値なんてなにもなく、ただいつか消えてしまうのだと思うと恐ろしくてなりません。 そのような思いがあり、哲学は何かその恐怖を克服するヒントになるのではないかと考えて 大学では哲学をしようかと思ったのですが、一回生次の授業で教授が何をいってるのか全くわからず (ギリシャの人達は魂をどうの、というような話をしていたとおぼろげに覚えています) 諦めてしまいました。 しかし、このまま生きていって「社会人としての充実した生活」のようなものを送っても その先に死の恐怖の克服がある気が全くせず、やはり自分は何かをしなければならないとおもい、 再び哲学に関心をもっています。 そこで質問なのですが、 (1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。 大学での授業はギリシャからはじまったのですが、ギリシャ人の思考は私が死の恐怖を克服するために役にたつのでしょうか。どのように役にたつのでしょうか。 もしそれが死の恐怖の克服に役に立つのであれば、今度はちゃんと取り組んでみたいと思います。 はじめから死の恐怖を克服するという目的をもって取り組むことは真実を探求する学問とは相いれないような気もして それなら潔く哲学ではなく宗教に取り組んだ方がいい気もしています。 (2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか 若い時は死の恐怖で発狂しそうになったけれども晩年は安らかに死んだ そういう哲学者としてはどんな人がいますか。 (3)今死の恐怖と取り組んでいる人としてはどんな人がいますか 中島義道という人や森岡正博という人の本にははっきりと、自分は死が怖くてその克服のために哲学をしていると書いてあったように思います 他に、そういうことを言っている哲学者はいますか。 (4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。 よろしくお願いいたします。

  • 来年の今日、とかいろいろ

    来年の今日 next year today 五年後の今頃 this time 5 years ago と言うそうですが、 来年の今日は、next yearを形容詞句みたいに見てtodayにかけると言う感覚ですが、 同じ思考でいくと、五年後の今頃は、5 years ago this time になるように思うのですが、 この手の表現の語順は、どういう規則から成り立っているのでしょうか?

  • 英語の文法についておしえてください

    英語の文法についておしえてください 1) 句について   you need not fear a dog an a chain < an a chain は形容詞句   the book on the desk is mine < on the desk は前置詞句 なぜ両方前置詞句にはならないのでしょうか? あと句は本には8種類あると書いてあるのですが名詞、 形容詞、 副詞句のことしか説明してません 文章を解読する時には動詞、形容詞、名詞、副詞、前置詞、句、節、修飾語などと翻訳する前に 考える必要があるのですか? 2) he is to blame( 彼は責められるべきだ) <to blameは形容詞句の不定詞句の補語   Her dream is to be a designer(彼女の夢はデザイナーになることだ) <to be a designerは名詞句の不定詞の補語 名詞句は主語、目的語、補語の役割があり、形容詞句は名詞、代名詞の修飾と補語の役割がある 不定詞は名詞のとき(~すること)、形容詞のBe動詞+to不定詞の時は予定(~することになっている)義務(~しなければならない)可能(~できる)意図(~するつもりである)と訳すように習いました がなぜこれが名詞句の補語でこれが形容詞句の補語かがわかりません designerが名詞 blameが動詞だからですか? それとも私が名詞、動詞、形容詞、副詞の区別ができないからこんな変な質問をしてしまうのでしょうか? 私は副詞と形容詞の区別がはっきりできません 一応本などには副詞はほとんど形容詞にlyをつけたもの、名詞にlyがついてあるものは形容詞でもたまに同じ形で文に出てくる時はその文章で判断すると書いています その文章に出てくるときの判断が出来るようになるためには単語に意味を覚えるしかないのでしょうか? 結局は英語は文法をするより単語とイディオムを覚たほうがってことですか? 3) he works hard to support his old mother(彼は彼の母を養うため一生懸命働く < to support his old mother は 副詞句の修飾語なのでしょうか? 私にとってほとんどが修飾語に思ってしまって区別ができません 一通り基礎は私は出来ると自分で思ってるのですが文を品詞、句、節の主語、目的語、補語、修飾語などと説明をすることができません このようなこともあって長文を読んでいる時さっぱり理解不能になってしまいます 力を貸してください お願いします