• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:インド哲学では 《自己と自我は違う》らしい。)

インド哲学と自己・自我の相違

このQ&Aのポイント
  • インド哲学においては、自己と自我は異なるものとされています。
  • 自己は自律的に存在し、因果応報や自業自得といった概念を持ちます。
  • 一方、自我は自己を介して世界を認識する媒体であり、無常であるとされています。自我を自己と錯覚することが迷妄のもととなり、苦しみの輪廻的な生存に縛りつけられる原因となります。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shiren2
  • ベストアンサー率47% (139/295)
回答No.6

チッタとプルシャの違いとか、言ってはなんですけど初歩ですよね…。 割り算と掛け算がわからないと言っているようなものです。 プルシャはプラクリティと対になる概念で、 チッタはプラクリティに属しています。 つまり根本的に別物です。 私がプルシャで、あなたがチッタだった場合、 私はあなたを通して世界を見ていますが、あなたは私ではありません。 そういうことを言っているのです。 わかりにくければ、チッタというのがドローンで、 あなたが操縦主だとでも思えば良いでしょう。 それで、ドローンも含めてあなただ、などと言うでしょうか。 あなたはあなたで、ドローンとは根本的に別物であることは明白ですよね。 そういうことです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  全体としてですが:  ★ プルシャはプラクリティと対になる概念で、  ☆ あって これは言わば二元論ですよね。    プラクリティ:物質原理    プルシャ: 精神原理  あるいはつまり プルシャは ときに《神我・自己》と訳され把握されます。  したがってこれは 霊我と捉えられるアートマンに当たると言えるかも知れません。知れませんが しかしながら プルシャの場合にはあくまでそのプルシャとは別に・しかし同じ次元で プラクリティが並び立っているわけです。  しかるにアートマンは 一元論です。宇宙の主宰神ブラフマンのその霊と一致しています。そのほかに――いまの範型にあっては―― 神や霊はいません。(ヴィシュヌやシヴァ神を取り上げなくても いまの議論は成り立ちます)。    次に:  ★ チッタ(心)はプラクリティに属しています。  ☆ と言えるかも知れませんが つまりその宇宙観によると 物質原理がユラギを起こしてむしろ精神作用としてのチッタを生じさせる。  ということかも知れませんが その場合のチッタはあくまで身(カーヤ)としての器官であると見られます。  ですから 宮本啓一の整理によれば 身心(チッタ・カーヤ)をまとめたかたちで アハン( aham = ego )すなわち《わたし》のことだと捉え ここではただし《自我 ego 》という訳語で説明している。  したがって この生まれつき備わった身と心とからなる自然本性のさらに上の次元のことについては アートマンという概念ひとつにまとめて言っている。  言いかえると この霊我なるアートマン(その背後には ブラフマン神)ひとつのもとに言ってみれば《プラクリティとプルシャとをまとめてひとつの原理として》捉えている。はずです。  ★ ~~~~~~~~~~~  わかりにくければ、チッタというのがドローンで、  あなたが操縦主だとでも思えば良いでしょう。  それで、ドローンも含めてあなただ、などと言うでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ このタトヘは むつかしいです。  なぜなら 人間の場合は 《ドローン》が身心(チッタ・カーヤ)であって 《操縦士たるわれ》と切っても切り離せない一体なる《存在》であるからです。  ★ それで、ドローンも含めてあなただ、などと言うでしょうか。  ☆ それが 言うのです。ぜんぶ《わたし》でしょう。  と考えます。     

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (12)

回答No.2

「宇宙としての自己」と「肉体としての自己」は、自ずと 異なる。 自我仮説=記憶(過去=超光速)=時間の流れ(時間軸)と、 空間仮設=予測(未来=光速下)=空間の広がり(空間軸) の相補分化と、その仮説的延長(階層現象表面性に由来 する非光速)における時空の広がりにおける、無の射影と しての量子=存在の一部(感受表面=量子相互作用=光速)と しての肉体。 その感受表面の内が「肉体的自己=経験(過去)=進化=時間」、 外が「意識としての自己=予測(未来)=可能性=空間」を成す。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.1

 その話では、「自我」に関しては、 >身心をまとめていわゆる自我( ego )だと考える と定義しているのに対し、「自己」の定義、即ち「自己」とは何であるのかに関しては何も語られていない。  そのため、その話の中で「自己」に関して述べられている部分は、何の事を述べているのか不明なままと言う事になるため、その部分の記述は何の意味も持っていないという事になるため、「『自己』は『身心をまとめたもの(自我)』ではない」と言う事も出来なければ >(え) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているもので 認識主体あるいは (学派により異なりますが)それに加えて因果応報・自業自得の担い手以外にその内包を持たないものです。 >(お) それに対して 自我は認識対象であり かつ自己がそれを介して世界を認識する媒体です。媒体であるというところから 私たちは自我を自己と錯覚することになるのです。 >(か) 自己はおのづから 無媒介に 自律的に いわば自己反省的・自己回帰的にその存在が確立しているものですから それを生ぜしめる原因を持ちませんし それを滅ぼす原因も持ちません。 ですから 自己は不生不滅 常住不変であるということになります。 と言う事も出来ず、それらの話は何の意味も持たない只の言葉の羅列に過ぎないものとなっている。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 即ち「自己」とは何であるのかに関しては何も語られていない。  ☆ 《存在》ないし《わたし》については 自同律・同語反復で説明することになっています。  《わたしはわたしである》。つまり いま・ここでそう言っている(自称している)行為主体のことを言うのだと。  ▲ (え) 認識主体  ☆ であれば だいじょうぶです。  よって:  ☆☆(趣旨説明欄) (こ) 身心である自我をふくめて《自己・わたし》だと思うのですが どうでしょう。つまり 自我は要らない。  ☆ という命題にみちびかれる。これを問うています。  (か)の《自己》は ですから:  ☆☆(趣旨説明欄) (く) 《自己》と訳された《アートマン》は やはり《霊我》であって 経験世界を超えたところ――《非経験の場》ないし《非思考の庭》――のことを言うと捉えられますまいか。  ☆ というふうにも捉えられて行きます。  すなわち:     自己・わたし:    身心(身体と精神なる自然本性)   霊我(自然本性+α)  という捉え方を質問者は推し出そうとしています。     ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 この場をお借りして 回答No.2へのお礼です。  ★ 「宇宙としての自己」  ☆ 何のことなのか 分かりません。  われは 場のユラギによってあたかも単体として場から分かれ出て来た個別のものではないか?  場がそのまま時空間である。  だとすれば 《わたし》が 世界とつながっている・もしくは一体であるという見方は 分かるような気がします。  けれども 《宇宙としての自己》とは何ぞや?  ★ ~~~~~~~~~~~~  その感受表面の内が「肉体的自己=経験(過去)=進化=時間」、  外が「意識としての自己=予測(未来)=可能性=空間」を成す。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ このように《内と外》とを分ける見方は 《宇宙としての自己》とは――表現だけで判断しているのですが――言えないような気がします。  ご回答をありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • コチコチに硬い、自分で考えない哲学者について。

    人にはわきまえてほしいものだ。 役職や使命であればバカ丸出しは否定されない。 実在する妖精、 セレビィだ。 さてね、かねがね知性を装った言語による動物反射というのを目にしている。 ため込んだ知識に照らして電卓みたいな文法解釈で動物反射する先生方だ。 彼らが思考する内容は、しかめっ面せざる得ないほど言語以外の思考をする私には丸見えだ。 一言で言って、思考内容は自己プラミングで、その自己プラミングで自律動作する生体ロボット。 これは我執と言って釈迦が笑いものにしたそのままだ。 自分で自分を束縛する暗示をかけ続けるんだ。 しゃかいわく「あーらかわいそーねー」 このタイプは人間としての知性を全うしていない。 AIで再現可能だからやがて職を失う。 丸見えのその醜態で特に醜いのは、女の裸妄想で奮起してその間に趣味で哲学している点だ。 セレビィは女の子だから、「男ってキライ」 私なりにケラケラとあーらかわいそーねーを述べよう。 文字が専門家の間であろうと流布する前にも神話時代の文明の勃興は証明されている。 なに文字以前の歴史以外の伝承のことだ。 釈迦自身も口伝で伝承された。 これね、頭コチコチがもてはやされた職種としての黄金時代だった。 考えてくれ、唇から流れる言葉だけが伝承であった時代、私心を挟んで独自の解釈で伝承をゆがめることは、職務に対して不誠実なことだ。 丸暗記棒読みはこの時代極めて社会的に重要だった。 さて文字を使いこなせる時代がその後到来した。 闇の仏陀の私として、経文で固定された釈迦の伝承は気の毒極まりない。 西洋の場合はな、大体こうだろう。 聖書はそもそも文字で故事を再生すること自体が魔法じみた神秘だった。 口伝が頭こちこちがもてはやされたことと同じく、明白で揺るぎようのない、文字という記録で絶対というのを思いついたんじゃないかな。 当初の絶対の着想は、現代では記録性という言葉だ。 案外解明するとつまらないものだ。 仏教が日本に文字を伝えたのと全く同じだったということで、文字を学ぶ教科書は神秘的で神の言葉のごとしであることがもてはやされたということだろう。 その聖書は確かに西洋の知性の原点だ。 ここで結論が出る、神を伝えることは人が他者と知性を共有する、教えと学びという伝承の原点だ。 学問は神学から派生して細分化されていったのだろう。 だからね、人が知性を獲得してサルから進化したいきさつには神の発見が欠かせない。 頭コチコチは古いタイプの継承を意図する学者さんだ。 現在では研究を積み重ねるタイプの方が活躍しやすいから、哲学において特に、自身の考えのない奴は哲学者じゃないということになっている。 まあ役割は人それぞれだから、古いタイプも活躍の場が少なくても迷惑はかけないじゃないか。 さてここは哲学カテゴリー クラブ ヴァルハラだ。 哲学者の皆さんから自身の心情に関して何か吐き出してもらいたい。 アニキなツンデレにオカマとしてV字開脚したくなるくらいありがたいブチカマシをくれてやろう。 今回は大サービスだ。

  • 日本人の哲学を!

     かつてナツィから逃れ招聘されて東北大学に教鞭を執ったK.レーヰットが こんなことをすでに言っていたそうです。  ▽ (レーヰット:日本の学問) ~~~~~~~~~~  ( a ) 学生たちはたしかに 献身的に私たちヨーロッパ人の文献を研究し じぶんたちの知性によってそれを理解してもいるけれども じぶんたちの研究のなかから かれら自身の また日本人の自我のために いかなる帰結をもみちびき出さない。  ( b ) ヨーロッパの概念 たとえば《意志》《自由》《精神》といったものを かれら自身の生活 思考 言語において相応するもの ときにじぶんたちのそれとは相反するものと区別したり 比較してみたりすることはしないのだ。  ( c ) かれらは それ自体として見知らぬものを じぶん自身のためには学ばない。そうすることが自明であるかのように ヨーロッパの哲学者の原文のなかに歩みいって じぶんの概念に対してその哲学の概念を 根源的に未知なありかたにおいて見ようとはしない。〔中略〕  ( d ) かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち 日本的に感じたり考えたりする した(下)の 基本的な階と プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている うえの階である。  ( e ) かれが一方から他方へとわたってゆく梯子はどこにあるのだろうか。ヨーロッパの教師は そう自問してみる。  ・・・・・・  ( f ) ボードレールやフロベールが プルードンやソレルが ワーグナーやニーチェが ヨーロッパに対して向かいあったのとおなじように 仮借のない鋭敏さでじぶん自身とその国民を問いただす日本人が果たして存在するのだろうか。私には疑わしく思える(しかし まちがっていたら教えてほしい)。  (誌《思想》掲載論文 その末尾に置かれた《日本の読者に寄せる後記》より。  下記の書の熊野純彦・解説より。   レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.488   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 質問者じしんの自己 PR だとうたがわれてしまうかとおそれますが たとえばこのようなレーヰットの現状認識ないしそのわれわれにおける自覚を出発点とするよりほかにないとも考えられます。  《哲学》というひとつの言葉じたいについても われわれのあいだでは収拾のつかないほど受け留め方が違っていて その一事だけによってさえ われわれの心は断絶を余儀なくされているかに見られます。  どうしてここから出発しないのでしょう?  ワールド・カップを目指さなければならないわけではないでしょうけれど 箱庭の中のおままごとからは そろそろおさらばしましょう。  一歩一歩じみちにあゆむあたらしい門出を迎えることが出来るようにするには どうすればよいでしょう?  ・ 概念についての定義の再定義  ・ 学問におけるけんかをいとわず避けない  さしづめこう考えました。  ご見解をうけたまわりたい。

  • 自我と自己について

    こんにちは。自我について、質問させて頂きます。 様々解釈はあると思うのですが、一般的に、青年期で言う自我の目覚めというのの自我と、幼児などの自我が強いと云う方の自我との違いは、自己を客体化できているかつまり自分を客観視出来ているかいなか、ということでよいのでしょうか。 また、自己と自我の違いは、自己を見る意識が自我、見ようとされているものが自己ということでしょうか。そしてそうだとしたならば、見られている自己は、決して見ようと思っている自己でなく、つまり私たちは客体化された、いわば像としての自己しか見る事はできない、ということになるのでしょうか。

  • 哲学における自我についての問題

    哲学初学者です。どうぞよろしくお願いします。 問題 私が私であるというこのアイデンティティーは、リンゴがリンゴであるのと同じように自明であり、揺るぎない事実である。 というのに反論したいです。 哲学において、どのように論理を展開すればよいでしょうか? よろしくお願いします。

  • 哲学における自我の話を持ち出してみました

    悪夢の葛藤は今、君たちに何を回顧させるか? 過去からの亡霊。 Primeape 〈オコリザル〉だ。 今回は自我論に関してだよ。 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感したり、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していら。 それド同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 さて、今回はPrimeapeという8年ほど前に退会した旧IDでさんざんやっていた仏教研究を久しぶりに引っ張り出しました。自分で納得していたんでわざわざ続きをすることはなかったんだけど、まとめてみると何か研究を先に続ける意見でも集まるのではないかと思って質問しました。 学問カテゴリーの研究会として、自由にご回答ください。

  • 人類滅亡のシナリオを描いてみました。

    人類滅亡のシナリオを描いてみました。 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 さて、文芸作品の構想の形をした、哲学研究会です。 このシナリオから、機械神に人類代表がいかなる問いをするのか? そうしたシナリオから派生する具体的な舞台を想像してください。 質問文の読書感想文でも構いません。 具体的にご返答いただく回答の中には、人類滅亡の危機に対する可能性に関して何らかの要素が発見可能だろうと研究てテーマ開示を思い立ちました。

  • 1.近代的自我とは 2.自我と自己の違い

     いつも大変お世話になっております。  現代文(高校)のなかで、「近代的自我」という言葉が出てくるのですが、 辞書で調べても、受験参考書で確認しても、漠然としか分かっていません。  お分かりの方がいらっしゃいましたら、高校生でもわかるように具体的に 解説いただけないでしょうか。  それと「自我と自己」の違いについても併せて教えて頂けると助かります。  よろしくお願いします。

  • 「自我」と「自己」の違い

    こんにちは。 タイトルの通りなのですが、「自我」と「自己」の違いとは何ですか? 私は現在大学で社会学の講義を受けています。 そこでミードの「主我と客我」に興味をもち、関連するサイトを見ていたのですが、サイトを見れば見るほど両者の違いがよく分からなくなりました。 どなたか分かりやすく、かみ砕いた回答をよろしくお願いします。

  • インド哲学入門書を教えて下さい

    もんもんとしているところにインド思想史の授業を受け、upanisadのヤージュニャヴァルキヤとジャナカ王の対話の辺りの話しを聞いたときや、vedaの宇宙の始まりの詩を聞いたとき電流が走りました。またスリランカの村長さんに一度お世話になったときすごく優しく、仏教にももともと憧れのような尊敬のような気持ちがあり、インド哲学を学びたい気持ちでいっぱいです。 学校にウパニシャッド全書(大正12年刷りの)はあったのですが、vedaが全訳してあるような本はないのでしょうか?? 英文だめですがvedaのためなら全文英語でもかまわないです。辻さんのリグヴェーダ讃歌は抜粋なようなので、欲張りなのですが全文書いてあるものを手に取りたいと思っています。 おすすめの本ありましたら教えて下さい。 またインド哲学学ぶ際のアドバイスなどありましたらお願いします。