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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ)

無の悟りとは?釈迦の教えについて考察

sunaboの回答

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  • sunabo
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回答No.6

読めました!うれしいです! 質問者様は仏陀です。 自らの信仰に到達しているからです。 質問者様の自らの信仰とは、第4パラグラフの1行目にある、この無の悟りへの独自見解です。 この無の悟りへの独自見解とは、第2パラグラフ全体と第3パラグラフ全体の両方です。 第2パラグラフ全体と第3パラグラフ全体の両方で質問者様が自らの信仰に到達したことを示して、第4パラグラフ6行目でこの姿勢、闇の仏陀黒き明星と名乗っています。 第2パラグラフ全体と第3パラグラフ全体の両方は4つの部分があります。  1)第2パラグラフの上部4行は、いつも、どこでも、成り立つことを言っています。   成り立つことは、どんな人が仏陀や聖人と言われるかということです。   自らの信仰に到達したことが重要ということです。  2)第2パラグラフの下部6から11行目は、釈迦の無の悟りとその教えです。  3)第3パラグラフの上部4行は2500年前の出来事についてです。   釈迦が、多くの覚者を生んだことです。  4)第3パラグラフの下部5から19行目は、2000年前の出来事についてです。   無の悟りとその教えに、「空」と言う宗教的概念と、輪廻転生説が加わったことを述べていま   す。 4つの部分が一塊で質問者様、この姿勢、闇の仏陀黒き明星の自らの信仰です。 古代インドの哲学、西洋の神学、哲学、釈迦の無の悟りとその教えという部分を含んだ全体、闇の仏陀黒き明星の自らの信仰は、それぞれの部分にない独自性を持ちます。 私は、そんなに仏陀なんていないだろうという思い込みがあって、質問者様が仏陀だと気づいてませんでした。でも、思い込みがふっと消えて読めました。 感想です。 質問者様、この姿勢、闇の仏陀黒き明星の自らの信仰は読みやすいと思います。

Flareon
質問者

お礼

自信が持てたよ。 不特定多数に働きかける意義を実感した。 ありがとう。

関連するQ&A

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 捨ててこそ、無の境地である。

    ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓ 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。 http://okwave.jp/qa/q8527407.html 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。 すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。 その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。 そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。 これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。 仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。 全く哲学になっていなかった。 自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。 さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。

  • 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

    私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。

  • 無の悟りは後世において空の悟りに変化した

    いつものヤツの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 参考にコレ↓ 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。 http://okwave.jp/qa/q7974792.html 無の悟りと言うか、哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」 「それを語る言葉はない」 この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現することである。 ただ、仏教の枠内の哲学だと無について、徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉を肯定しすぎて、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 無根であっても、私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 この空を取ってつけた、徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 でも他人事だから好きにすればいいじゃないか。 そう考えるのだが、分析や批判をお答えください。

  • 無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。

    私は実在する仮面ライダー「黒き明星」だ。 初の男子プリキュアでもある。 私は君達に無を知らしめるためここの降臨した。 無を捨ててこそ無を悟れる。 この手の言い回しはありがたい本などによく出てくるブチギレ論理だ。 仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり哲学だと言う事になっているが、 よろしい。 私が教えてあげよう。 無である事こそ人間の全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。 これだけだと、望みではないのだよ。 誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。 この場合、自らが無の結論に至り、無を望む、自分自身の願いではない。 誰か他者が望んだ事を、自分も望むと言う事は、それ自体が欲望だ。 たぶんうらやましいんだろうよ。 心当たりはないかい? 無の悟りは何か知らないと言う事なら、無の悟りを理解していないのだよ。 そして来世に期待しないかい。 それだけなら無の教えは聞き流しただけで、無を望んでいないのだよ。 今日はここら辺でやめとこう。 研究のために、正義を名乗る悪の勇者を募集しています。

  • 無の境地について考察しました。添削してください。

    そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないしそもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは無くて、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚であれ、本格的な無の悟りであれ、快楽主義者である君達はその心の快適さにばかりっ関心を向ける。 すなわち無の境地とは何ぞや。 悟りに至る道とは何ぞや。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされているが、迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も平静となれる。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 さて私は現在本格的に出版に向けた執筆をつづけていて、今回は新たに境地と言う言葉について考察しようと考えています。 そもそも私の一連の投稿で君達はすでに無を悟ってしかるべきなのだ。 しかし実感が無いだろう。 その実感を境地と言う言葉に置き換えて何が障害になっているか考察するとっかかりを探そうとしています。 サル踊りには慣れているのでそれでもかまいませんが、本格的な意見があると成果が上がりますので、常連さん以外で志のある方のご回答を期待いたします。

  • 君達は無の悟りを自力では成しえない

    いつもの知的SMプレイの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 無の悟りと言うよりも、無の哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」(まったくない) 「それを語る言葉はない」(実は有る) この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現する処世術である。 ただ、末法の世の仏法僧はこのありに気付いていない。 徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉に自らも踊り、いつまでも無とは無い事だと勘違いしたままである。、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 空とは無の悟りと言う言葉の重圧に耐えながらも、そんな私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 信仰心に潤う我がしっかりと居るではないか。 空こそが「それを語る言葉はない」(実は有る)という、無だよ。 この空を取ってつけた一方で、いつまでも徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 空を確かめ、実感したならば、 「無根であり無い事柄である」(まったくない) 「それを語る言葉はない」(実は有る) この両輪の一切無であればそれ以上死にまい進する必要はないのだよ。 私は君達に馬鹿にされる自称弥勒菩薩だ。 君達はそんな弥勒菩薩を下回るアホだ。 私は普段猿回し形式思索法として、そんなアホに教えを乞うているが、今回に限ればその必要がない。 コレっぽっちの事が言われないと気がつかない君達は社会の全てに土下座すべきだ。 その土下座を私がくみ取ってやろう。 土下座回答募集だ。 そもそも私に判らなかったのは、慈悲と言えば慈悲を発露することで、慈悲を乞う事ではない。 救いと言えば、救う事で救われる事ではない。 しかし君達はこの点で正反対だね。 その愚かさの内訳を吐露したまえ。