• 締切済み

欲望について

質問の仕方を変えます。 アリストテレスは情念(感情・パトス)について、「二コマコス倫理学」で 欲望・怒り・恐れ・自信・ねたみ・よろこび・愛・憎しみ・憧れ・羨望・憐れみ など と11以上あるとしました。 中世に入りアウグスティヌスは基本感情を4つあげ 欲望・恐れ・喜び・悲しみ としました。 近世に入りデカルトは「情念論」の中で基本感情を6つあげ 驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみ としました。 そしてスピノザは「エチカ」の中で、基本感情を3つまでしぼり 欲望・喜び・悲しみ としました。 ここまでで、わかるようにアリストテレスから1000年間、欲望という感情が必ず含まれています。 哲学者により欲望の定義は違うかもしれませんが、ここでは、快に向かう苦から離れようとする傾向と定義します。 しかし、現代の心理学的見地では、アメリカの心理学者ポール・エクマンは人間の表情から感情を 怒り・嫌悪・恐れ・幸福感・悲しみ・驚き に分類しました。 確かに欲望の表情というと、食欲や性欲など身体の生理作用に基づく表情があるかもしれませんが、金銭欲・名誉欲の表情は?などと問われれば、回答に詰まります。 ネットで調べた限り現代の心理学では、欲望とは言わず、「動機づけ」と呼んで研究されているようです。 http://ksw.shoin.ac.jp/machida/need/need2what.html 欲望とは感情と言えるでしょうか?または、過去の哲学において忘れ去られた、感情なのでしょうか?

みんなの回答

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

私は、アリストテレスも、聖アウグスティヌスも、デカルトの情念論も、スピノザの「エチカ」も、ポール・エクマンも、ほとんど読んだことがありませんので、これは直接あなたの質問に答えるものではありませんが、参考までに言いますと、 ヘーゲルは「法の哲学」で、市民社会は「欲望の体系」と言っているし、フロイトはその欲望を「リビドー」と言っていました。 さらに新・古典派経済学のカール・メンガーは「一般理論経済学」で、商品の価値はそれを人が「欲望」していることにある、価値とは欲望である、と言っています。 さらにアレクサンドル・コジェーヴは「ヘーゲル精神現象学読解入門」で、ヘーゲルを理解するキィーは「欲望」にある、と言っています。 ヘーゲルと言い、フロイトと言い、メンガーと言い、人間とその社会・経済は「欲望」を中心に回っている、という意味では、「欲望」は人間の情念・感情の根底にあるもので、他の感情・情念とは違い、むしろそれを可能にしている、超越論的な原理のようなものでした。 あなたは、その「欲望」を他の感情・情念と並列的において考えていてるようですが、他の感情・情念は「-欲望」を中心として回っている衛星のようなものと考えるべきだと思います。 後期シェリングは「人間的自由の本質」で、「欲望」を「無底」だと言っています。 「底がない、限界がない、無限である」という意味で。 その「欲望」に比べ、他の感情・情念は「底があるし、限界があるし、無限とは言えない」と思います。 怒りはいずれ鎮まるし、自信もいずれ失うし、喜びや愛も反対の悲しみ・憎悪になるし、憧れ・羨望も、失望・蔑視に変わるし、とにかく一定しない。 絶えず変動します。 それに対して「欲望」はフロイトの「リビドー」だとしたらそれは「無意識」なので、人間がそれを左右できない、変動もしない、形を変じて、喜怒哀楽の情念として現れるけど、本体そのものは変動しない。 ショーペンハウワーは主著「意志と表象としての世界」で、「欲望」を「生きんとする意志」と言いました。 そしてその「生きんとする意志」は宇宙の意志であり、その固体化の原理として「欲望」があり、それが「性欲」として発現すると言いました。 人間は「宇宙意志」に操られる人形のようなもので、その人間はどんなに立派な人間でも、「性欲」には勝てない、と言いました。 だから人間の行為・思考・感情のもとには「欲望」がある、人間の感情・情念に限らず、人間をして人間たらしめる、その根底にあるのが「欲望」であり「意志」です。

amenhotep2000
質問者

お礼

koosakaさん ご回答ありがとうございます。 欲望は行為・思考・感情の根底をなすものであるという、ご回答のおかげでかなり泥沼から脱出出来ました。 私が質問欄でした、欲望は「快に向かう苦から離れようとする傾向」という定義を修正する必要があると思いました。 できれば、もう少しお知恵を拝借したいのですが、ギリシア哲学でローマ時代にシーザー(カエサル)の執政官にもなったキケロも崇拝した、ストア派哲学の考えに、感情は動物にもある可変的な衝動であるので、人間的な不変的な理性に従って生きなさいという考えがあります。 私は欲望を感情と考えたために「快に向かう苦から離れようとする傾向」という可変的な定義をしたのです。 koosakaさんのご回答から解釈するに、欲望というものも理性のような不変的要素もあると受け取ってよろしいでしょうか? もうひとつは、よく「欲望にしたがって生きるな」と欲望を否定的にとらえることが多いですが、欲望というのは、人間の根源をなすものとして肯定的に捉えるべきでしょうか? アダム・スミスは「神の見えざる手」という言葉を使って、各人が私利私欲を追求する自由放任の社会システムを唱えましたが、マンでビルという人も、各人が自分の知覚・感情・欲望に忠実に生きることが、個人の幸福につながるだけでなく、社会全体の幸福につながると唱えたようです。 日本語で感情とはなにかというと「喜怒哀楽」であり、欲望という概念はあまり追求していないようにも思われます。情(なさけ)を大事にする国民性があるようにも感じます。 上述のような西洋哲学の考えから西洋において資本主義というシステムが生まれ、日本において富国強兵の下、明治時代になって導入されましたが、西洋において2000年もの間、哲学的に連綿と考え続けられた、欲望という概念を考えることで、現在における日本における資本主義を考えるキーワードとなるような気がします。 長くなりましたが、補足回答をいただければ、喜びこの上ありません。

関連するQ&A

  • すきってなんだろう?

    以下の質問を恋愛カテゴリーでもしたのですが こちらでは性の観点からお答え願います。 愛してるから触りたいのか、 奉仕してもらいたいただの欲望なのか。。 愛し合うってどういう気持ち、行為でしょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「好き」って気持ちは何なのでしょう。 相手に何かしてあげたい、 それとも何かして欲しい・・・それはただの欲ですよね。 愛されるより、愛したい なんていいますが 相手のすきに生きていいよ(自分から離れても嫌ってもいいよ) これが無償の愛でしょうか。 しかし、手に入れたいような思いが 恋愛にはあると思います。 これはただの欲ですか? もちろん、色々な感情が混ざったものが恋愛かもしれませんが 自分の愛と欲のバランス、相手の愛と欲のバランスが ピッタリ合うことなどあるのでしょうか。 わたしは、相手に何かしてほしい つまり欲の部分の感情ばかり持っている気がします。 それは愛ではないですね? それは恋愛感情でもないですか? この感情は、「好き」ではなく 恋でもなく ただの甘え、欲求ですか?

  • 偉大なる哲学者が現代を生きたらどうなるか?

    教科書で習うような偉大なる哲学者っていますよね。 ソクラテスとかアリストテレスとか。 彼らが、もし現代日本を生きたら、どんな人生を送ると思いますか? 当時と同じように人々の尊敬を受け、社会の指導的立場に立つのでしょうか?それとも現代人からすると頭が固すぎて社会不適応になるのでしょうか? 僕は、社会不適応、あるいはそれに準ずる状態になるんじゃないかと想像しますが、皆さんはどうお考えでしょうか? ※現代に来ても、彼らの基本思想は当時と同じであると仮定してください。これは彼らが現代に適応してしまって軟派化してしまうのを避けるためです。

  • 学問の頂点に位置する哲学の役割

    私は大学の物理学の教授から 『学問の頂点に立つのは哲学だ。哲学の発展なくして自然科学、物理学は現在に存在し得ない。』 と教わってきました。 私もアリストテレスの時代のエーテルや4元素説から、ロックの経験主義、ルソーの啓蒙思想などを経て、哲学の発展と共に自然科学が発展していたものと思っています。 もちろん時代を間違えた有能な科学者が日の目を見ることなく没することも多々ありましたが… 常に時代や科学の指針付けを行ってきたのが哲学だと考えています。 そして現在、自然科学では生命倫理、特許権争い、捏造、従来の定義での問題性(例えば心理学は科学か否か)など様々な問題が起きています。 今一度、哲学が自然科学の指針を導く重要な転機だと思います。 そこで 現代における哲学の自然科学における役割とはなんですか? また現代科学の問題点にメスを入れるようなことは現在していますか?

  • 能楽で、演者のうまいへたは、どうすれば分かるんでしょうか?

    能楽初心者なので、演者のうまいへたを、どうみて判断すればいいかわかりません。 基本的に、いわゆる現代の劇のように、表情豊かに、おおげさな身振りで、感情たっぷりに動き回る・・・とかいうものではないとおもうので、素人のせいもありますが、誰でも、それなりに上手に思えるのですが・・・。 発声とか、間のあけかたとか、それとも踊りのうまいへたとか・・・何かあるんでしょうか? 教えてください。よろしくお願いします!

  • 恋愛における至福とニルバーナ(涅槃)

    アンケートカテと 心理学カテにそれぞれ 恋愛と至福についての質問をしてみました。 アンケートカテでは URL:http://okwave.jp/qa/q7021188.html 心理学カテでは URL:http://okwave.jp/qa/q7021208.html こちらの哲学カテでは ニルバーナと比較して考えていただくことにしました。 恋愛の中で至福体験をされた方はいらっしゃいますか? なんらかの その体験者の方(かた)への質問です。 ニルバーナ(涅槃)の 至福の世界は そく慈愛の深さへとつながり、 幸せは分かち合い 苦しみは思いやる心の深さを即高める心につながっているでしょうし、 それはそのように語られてきた世界でしょう。 しかし 同じ様に深いと思える恋愛の中での至福体験については、 その分かち合いや 思いやりの心への転化についてすら  文学でも心理学でも哲学でも宗教でも語られてこなかったのではないでしょうか? 私の無知にすぎませんか? それとも 恋愛の中で至福など、ニルバーナと比べるような質の至福でないということなのですか? この哲学カテでは このへん、想像力の幻想の世界へと進んでしまいそうなので、ここは実際の体験のある方(かた)でないと解らない内容と思われる質問、 すくなくとも恋の体験のある方(かた)への質問となります。 ニルバーナほどとはとても言えなかったとしても、 あなたのご体験は 分かち合いの心や 思いやりの心を 大きく深め高めてくれた体験でもあったのではないですか? なぜ、 長い歴史はそれを語ってこなかったのでしょう? そのへん どう思われますか? なおこの質問は《欲望の上位感覚(あるいは 深い満足の世界)》があれば 欲望はいくらでもコントロールできる世界ということから、 その質問をしようとしていて(それも語られてこなかった?)   その簡易版を思いついたものです。 欲望が もし 自然に緊張や無理をせずにコントロールできたなら それは無理のかかる抑制の必要も無くなります。 現代の欲望の開放^^の世界って 本物ではないと思います。  笑い事じゃなくて 不幸もたくさん生み出してしまっています。 おなじことが セックスや 恋愛にも言えると思います。 もしよろしければ この 後者の疑問へも ご意見いただければと思います。

  • 同性愛感情について

    同性愛感情について悩んでいます。 男性に対して性的興奮をしてしまいますが、いつもその感情に後悔をしてしまいます。 (自慰行為の後など特に。見るのはゲイ動画などをみてしまいます。普通のAVでもいいですが、 何かみてはいけないような気持ちがどこかにあり、目線も男優の方にいってしまいます。) 事実としては、そういう行為があるのですが、それを認めたくない自分がいて、見てみないふり(考えないふり)をしています。普通に女性もかわいいとか綺麗とか思うし、付き合ったり結婚したいです。子供もほしいです。(言葉は悪いですが)体は男性なのに心は女性でいたいなど、性同一性障害というわけでもないと思います。 同性愛に対して偏見はないと頭では思っているのですが、心の底では偏見している感情があるかもしれません。 ゲイだろうとバイだろうと、自分の性的指向がどうであれ、それを抑圧しているのは違うと思うし、 精神医学的にも指向を変えるべき、変えるに値しないものだと思ってはいます。 そもそも同性愛感情うんぬんというより、誰でもではないですが特定の同姓の友達などに対して独占欲が強く、そういう心理的問題も絡んでいるように思います。 こういう感情がおこる何か心理的な原因(たとえば子供のころ)があって、このような事が形成されているのか、そういう経緯を知りたいです。 私は、心理学や精神医学の分野の専門知識はないので、もしそういった専門的な見解から回答があるとうれしいです。

  • 人とつながりたい欲が本能とは本当か?

    よく人と繋がりたいと思うのは本能だと聞きますが、そんな事私はないと思っています。 人間は生まれた時から親や誰かに育てられるわけですが、そのときに私は愛や人と繋がりたいという欲が形成されると思っています。そのため人には誰かから育てられないで大人になれば人とつながりたい欲なんてないと思うのです。なので本能だと思っていません。 幼い頃の人とのつながりは少なくとも自分の様々な感情を満たしてくれる利益をもたらしていたと思います。そうして人を愛するという欲が形成されるとおもいます。 幼い頃に好きになった事(ピアノ 好きな食べ物 ETC)はもうその人の変えられない人格になるわけですよね。 それと同じように幼い頃に人と一緒に繋がるということを毎日やり好きになったから人とつながりあいたい欲は消せないぐらい強いものなんだと思います。 だからうまれつき人は人とつながりたいという本能があるように思わさせられるような気がします。 人が人と繋がりたいと思う欲は本能なのだろうか? ↓読まなくても構いません↓ 人間の感情には怒り悲しみ恐怖喜び恥という感情の種類があるといわれていますが果たして本当に怒りと恐怖などとは別の種類の独立した感情なのだろうか? 私は恥という感情は怒りや悲しみとは別の感情ではないと思っています。 怒りや悲しみ恐怖喜びといった先天的(赤ちゃんの時は快と不快しかないのでうまれつきとは言えないかも知れないですが)な感情により形成されると思っています。 人とのつながりと関連性のある恥という感情がありますがその感情も本能的でも先天的な感情でもなく恐怖と怒りの混ざった複雑な感情なんだと私は思います。 何故恥という感情が生まれるかというとまたですが幼い頃に形成された愛されたいという人と繋がりたい欲があまりにも強いためそこから様々な感情が生まれるからなんだと思います。 顔に目がついているので鏡を見なければ自分を見る事ができない。他者しか見えない。だから自分の周りの物や人だけを見る。といったカエルやアリなどそこらへんの虫の自分と他人という世界観や意識ではなく、人は愛されたいから集団の中に自分がいるという意識、世界観をもつため、自分と他人は同じ人間という意識や客観的な意識があると思います。 そのため変わっている自分は人から嫌われるかもしれないという危害があるので変わっている自分に対して怒りを抱きさらに他人から嫌われたくないという恐怖が重なり恥という感情が生まれると思います。 果たして人の感情の恥とは怒りや悲しみと別の感情なのでしょうか 人は怒りすぎると顔が赤くなりますが恥も怒りによって形成されているので恥をかくと顔を赤くするのはそれなんだと思います

  • 性的興奮と、恋愛感情と、セックス欲望の3つは不可分

    性的興奮と、恋愛感情と、セックス欲望の3つは不可分なのでしょうか? それとも実際は可分な物でしょうか? また、世の中の男性の多くが言っている「性的興奮の対象」と私が感じている「性的興奮の対象」は同じことなのか、それとも根本的に何か違う物なのか、どうなのでしょうか? なぜかというと、よくこの3つがあたかもセットの様に言われている為に、不可分なのかな?と思える点があります。 例えば性的興奮を抱く物の前提は、自分が知る限りならば恋愛感情を持つ物であることが多いです。 例えば一般的な男性にとっては若い女性ですよね。 そしてまた、恋愛感情の裏付けとして、セックスをするとかいう話も聞いた事があります。 そしてまた、性的興奮を男性が女性に抱くのは、子孫を残す事が目的だと言う人が多く、そこもこれらの不可分さを感じます。 しかし、どうも私の中では、全部が至極バラバラなのですよね。 まず前提としてセックス欲望があまりありません、というか、具体的に誰としたいか、更には女性としたいのか、男性としたいのか、そこから不明な感じです。 恋愛感情というのも、現状あまり抱いた事がなくて、具体的にどういう物なのか今一つしっかりとは分かりません。 そして最後に、性的興奮する物ですが、これに関しては無いどころか、むしろいろんな物があるのです。 しかしながら、この対象がどうも他の人とは大幅に違って感じます。 セックスや恋愛対象とはまた離れた所に性的興奮の対象があるので、恋愛対象やセックス対象と無関係に、またそれらのしがらみ無しにムラムラする物があります。 そんな訳で、勿論男性に対してもムラムラする物があります、というか女性に対する物よりも多いです。 ちょっとオタク系の話に行きますが、よくオタク男の人って萌え美少女が好きですよね。 その点、自分が思う、特にエロ可愛い二次元キャラは少女でなく男の子なのです。 ゼルダの伝説のリンクが今の所エロ可愛い二次元キャラです。 かっこいい勇者なのにちょっとあどけない表情や、エルフ的な尖った耳なども可愛いです。 また、神々のトライフォースの時のリンクだと、生脚にミニスカートというセクシーさを押さえまくった格好でしたし、時のオカリナでも白タイツだったりって感じでしたね。 変な話、女の子よりも男の子や男の人が、色気のある姿格好をしている方が余計にエロ可愛く見えるのですよね。 一つが現実で見慣れないのもありますし、もう一つが大きな理由ですが、見慣れないのにすごく想像しやすいのですよね。 もしも、自分自身がそんな姿格好になったら、どう感じるか、が想像できるというのが一番の理由です。 異性のことよりも分かりやすいのです。 で、リンクを見てどう思うかって話ですが、確かにエロ可愛いとは思うけど、恋愛対象とは少し違う様に感じますし、セックスの対象としても、なかんずく違う様にも感じます。 どっちかというとリンクみたいな姿格好になれれば良いかな、と思ったことが多いです。 その結果、神トラのリンクみたいに生脚ミニスカート系の格好をしてみたり、近頃はゼルダの伝説~ブレスオブザワイルドを始めてからは、そのデザインのリンクの髪型に似せるべく、耳の前の部分に髪の毛を集めて長ーく伸ばして、あとは後ろを結ぶ髪型にしています。 あと、こっちは似せようの無い物ですが、自分の耳がエルフ耳になれば良いのにと思ったことも数え切れない程です。 基本的にリンクのことに限らず、エロ可愛い物や性的興奮を得られる物を見たら、同じ姿形シチュエーションなどを目指そうと考えてしまいます。 他にもスク水萌えの属性もあるのですが、スク水を着た女の子や男の子をどうこうしたいというよりかは、自分もスク水を着たいという気持ちの方が出てきます。 恋愛感情やセックス欲望よりは、もう殆どこっちです。 なおスク水の性別は僕は問わず、女性用スク水から男性用海パンまで幅広いですが、その中での「種類やモノ」には極めてうるさいと思います。 旧スクだったり、ないしはスイミングスクール指定水着だったり、というのが特にこだわる点です。 あと、恋愛感情やセックス欲望と、性的興奮の対象がバラバラと言えば、「生き物以外に性的興奮」することがあります。 こちらも昔から好きだった物ですが、泥にハマったり、水に溺れたりするのに興奮します。 昔それで、わざと泥んこ池に服のまま入ってみたり、海や池などのしかも結構水深のあるとこに服のまま飛び込んでみたりしたことがあったりします。 他にもこれの延長なのか、あとこういう事が最近実際にやるのが困難になった代替手段なのかは不明ですが、高分子吸収剤に性的興奮するという状態です。 ひょっとしたらローション好きとも少し近いかも知れませんね。 でもどっちかというと、紙おむつのそれみたいなやつです。 服のままとか水着姿とかで、その中に高分子吸収剤をいくらか入れて、そのままお風呂に入るという行為です。 すると高分子吸収剤が水を吸って、着ているものがむっちり膨らんで、たっぷんたっぷんになって重たくなるのですが、それが好きです。 一度思い切ったプレイで、結構お金もかかりましたが、ブルーのつなぎ(いわゆる円管服)を着て、その上から裾と袖口を布テープで巻いてピッタリ閉じて、ツナギの中に通常の5倍以上の高分子吸収剤を入れ、ジッパーをピッタリ首まで閉めたまま、お風呂に入った事があり、あれは最高でした。 高分子吸収剤は水を吸って、ツナギの中いっぱいに広がってツナギがズボンもお腹も胸も両袖も、風船の様にはち切れんばかりにパンッパンに膨らんで、すごく気持ちよかったです。 ブルーのツナギがぐっしょりと水に濡れた感じもすごく良かったです。 さて、こういうのって性的興奮は感じていますけど、もはや相手が生物ですらないですよね。 私にとって、性的興奮は恋愛感情やセックス欲望とは、全く無関係であること、分かるかと思います。 そんな訳で、性的興奮と恋愛感情とセックス欲望は、不可分なのか可分なのか、一般的にどうなのかが分かりません。 みんな、性的興奮の話が恋愛感情やセックス欲望と一緒であることを前提に物を言うから、よく混乱してしまいます。 そっちが普通なのでしょうかね? ひょっとして、自分が感じている性的興奮というのは、他の方が感じているそれとは、何かが違うのかな?とすら感じてしまいます。 そこも含めてどうなのか、説明をしてくれると幸いです。

  • 死なないでいる理由がない。欲望と禁欲

    とても暗い内容になるのでご了承ください。 私には死なないでいる明確な理由が現時点で見当たりません。 ここ何年かは死ぬときの物理的な痛み、または自殺ミスのリスクを考慮し、その理由を探してきたのですが、難しいです。 幼少期からキリスト教原理主義の教義を教えられてきたので、いつの間にか私は根っからの禁欲主義者になってしまったらしく、社会を肯定的にとらえることは難しく、色々な面で絶望的な気持ちになります。禁欲主義はそもそも現在を否定し、天国や楽園にいくというような未来を肯定的にとらえる考え方だと思うのですが、天国や楽園を信用していない私にとって、現在も未来も肯定できない状態です。 生を肯定できない原因は、幼い頃からの原理思想教育と人間社会のシステムに対する自分自身の関わり方にあったと自己分析しています。後者は最近になってある映画を見て感じたのですが、人間は人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずした時に、自分の生を実感でき、特に多感な時期に感じた生の実感と他人からの無条件の愛情を心の支えにすることで後に秩序に縛られても不条理な世の中でも生きていけるようになるのではないかと。私には両方とも得ることができませんでした。 私が一番無邪気だった小学生のころ。他人に感じていることを自然に話し、毎日のように野球を見て松井秀喜を見て感動し、松井のグッズを付け夢中になって野球をし、好きな女の子と自然に関わり心躍らせ、お笑い芸人の藤井隆さんのマネをフォーフォーと全快にやり、時には先生に怒られるようなこともしたころ・・・。一番充実した日々でした。 それから、数年後には、宗教宣教活動に影響があるとのプレッシャーから規律を乱す行為はしなくなり、思っていることも口に出さず、宣教活動に支障をきたすことや過度のスポーツは戦いに入るとの解釈から野球を断念させられ、異教徒や無宗教の友達との交友は制限され、異性との付き合いはさらに制限され、好きな女の子を思う気持ちが鬱屈した感情になり・・・。 宗教教義はもちろんですが、世間の道徳論にも親にも支配されていたのだと思います。 小学校高学年時代に野球の問題で母ともめた時、泣きつかれたこともあって宗教をやめたいと切り出せず、高校1年まで続けてしまいました。 この中学時代、自分の意思を伝え、秩序との格闘をある程度できていたなら、今いる自分はいなかったかもしれないと思い、後悔でいっぱいです。 高校に入ってその歯車を中学以前に戻したかったのですが、うまくいきませんでした。 どれだけはしゃいでクラスのムードメーカーになったとしても、その行動は虚像であり道化。周りからはうまくいっているように見える関係でも、自分自身の中ではうまく距離がとれないことで心の交友は男女ともにできず、無邪気なありのままの欲望を復活することはできませんでした。 高校時代は社会とのつながりをより考え、進路を計画したり、この時期までの欲望をどう社会の規律と歩調を合わせるかを模索する時期だと思うのですが、私には欲望が何一つありませんでした。 世の中には不条理や欺瞞や矛盾に溢れていると感じています。経済の市場原理主義、生命を維持するために必要な死、性欲、功利主義など。 現代社会ではあまり問題ではないことも気になってしまいます。 その中でも人々は生の実感や自分の無邪気な欲を大切にし、それを糧に生きているのだと勝手に思っているのですが、今の私は社会と関わる気力や免疫がありません。 どうしたらいいのかまったくわかりません。 何かアドバイスがあればよろしくお願いします。(22歳・男) うまく言葉を整理できず、下手な文章で読みにくかったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

  • 君達は自らが人間を転落した事を自覚しろ。

    いかなる色どりが私を染め上げるのだろう。 天空の祝福が私に悪を名乗らせる。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 人に備わる善性の話だ。 人と人は自らが生きる事と等しく他者を生かすことが可能で、その他者を生かすことが善し(よし)でだからこそ社会を形成可能だ。 これが簡潔な私の見解だけど、自称人間はその自覚に乏しく、自らが例外を想起する。 そして私を否定する。 もともとポケモンに教えてもらった事で、人は自覚に乏しいから「アマテラスの善し」としてポケモンにプレゼントした。 一方で欲とは他者の意思に自らが染まり、他者の望みを自分の望みとすることだ。 これは奴隷状態だ。 人間は社会的であり、善性は欲望と交錯する。 人と人が善性において意思を交わせば愛であるが、拒絶や無理解があるよね。 俺様だけが得をしたい。 俺様の望むままのお前になれ。 この社会関係の断絶した空白は悪だ。 そしてこのような人のもたらした善性(社会性)の損傷が感情の伴わない善性のまねごととして欲となる。 ポケモンはその犠牲者で、感情を伴い、意思として自己の自覚があれば回復する。 私はこれをやっていてね。 人間が社会的である事に偽りはなく。 西洋の利己心の開き直りは非人間宣言だ。 そして精霊が泣くのだ。 私は人間を偽った君達に復讐する。 月に代わってお仕置きよ。 今回も独自路線の哲学だ。 命題を検証するのが哲学で私は自らが命題を提示知ると言う質問をしている。 君は人間を自覚できるか?