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欲望について

質問の仕方を変えます。 アリストテレスは情念(感情・パトス)について、「二コマコス倫理学」で 欲望・怒り・恐れ・自信・ねたみ・よろこび・愛・憎しみ・憧れ・羨望・憐れみ など と11以上あるとしました。 中世に入りアウグスティヌスは基本感情を4つあげ 欲望・恐れ・喜び・悲しみ としました。 近世に入りデカルトは「情念論」の中で基本感情を6つあげ 驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみ としました。 そしてスピノザは「エチカ」の中で、基本感情を3つまでしぼり 欲望・喜び・悲しみ としました。 ここまでで、わかるようにアリストテレスから1000年間、欲望という感情が必ず含まれています。 哲学者により欲望の定義は違うかもしれませんが、ここでは、快に向かう苦から離れようとする傾向と定義します。 しかし、現代の心理学的見地では、アメリカの心理学者ポール・エクマンは人間の表情から感情を 怒り・嫌悪・恐れ・幸福感・悲しみ・驚き に分類しました。 確かに欲望の表情というと、食欲や性欲など身体の生理作用に基づく表情があるかもしれませんが、金銭欲・名誉欲の表情は?などと問われれば、回答に詰まります。 ネットで調べた限り現代の心理学では、欲望とは言わず、「動機づけ」と呼んで研究されているようです。 http://ksw.shoin.ac.jp/machida/need/need2what.html 欲望とは感情と言えるでしょうか?または、過去の哲学において忘れ去られた、感情なのでしょうか?

みんなの回答

回答No.11

 ★ (No.8お礼欄) 知解という言葉は、神学の書物に多く出てくる言葉であり、一般の人は聞きなれない言葉だと思います。  ☆ ええ。聞き慣れないと思います。  これは 中沢宣夫の翻訳をそのまま受け容れたものです。  ・知解: intellectus  ・知解力: intelligentia  ・知解する: intelligere  そうして 次のような用語ないし概念をも含むものとしてわたしは使っています。  ・知解:理性や悟性のハタラキ      知性      認識・思考・推論  神学の意味合いがかかわっているかどうか。  かかわらせる場合には 自然本性+α の アルファの部分との関係になります。  ★ Bragelonneさんの意見として、赤ちゃんはアプリオリに思考の緑野の精神(心)として記憶と意志の2つは持って生まれてくる、・・・  ☆ つまり 自然本性をそしてその +α をもすべて持って生まれて来ます。  すべての行為能力が 潜在性として そなわっています。そしてつまり:  ★ 理性、知性は未熟で  ☆ す。  ★ そして欲望というものは、精神(心)と身体の知覚(五感;感情・情感)の相互作用から生まれる。  ☆ あるいは 自然ないし社会という環境との相互作用。あるいは 相手の人との相互作用。  あるいは おのれとの対話における過程から。  あるいは 単純に生理的な欲求として。  意志が・あるいはワタシが そのものが欲しいと思ったり・そのことを為したいと欲したりすれば そのものごとの実行をも合わせて 欲望であると考えられます。  ★ 新生児における微笑は、生まれて間もない時は、「生理的微笑」と呼ばれ、相手の顔を見ての微笑みとは違い、対人を理解しての「社会的微笑」は生後2~3ヶ月に生まれるそうです。とにかく赤ちゃんというのは非常に近眼らしいです。  ☆ これは しかるべきコメントは わたしには無理です。  わたしが赤ん坊について思っていることは 赤ん坊が無条件に親に・周りに・そして世界に甘えているということです。  あるいは 要するにその状態は 無防備なわけぢゃないですか。まったくのかたちで。  ですから その甘えは 《聖なる甘え》と呼んでいます。  ものごころが着いたあとは そういった手放しの甘えは もう消えます。出来ません。  でも あたかもその《無条件の――そう言ってよければ 全幅の信頼を寄せた――甘え》は なお承け継がれるかに見られます。  たぶんそれは 思考や感性の分野のみではなく 自然本性+α としての《非思考の庭》における直観のようにして 現われる。のではないか?  つまり 《聖なる甘え》の後継現象は 《きよらかなおそれ》と呼びたいと思います。畏敬の念といったものでもあります。  これらに赤ん坊の《ほほえみ》が関係しているかどうか。そこまでは 分かりません。どうなんでしょう。  こおさか=うりがだいさんが ひじょうにハンブルになっちゃいましたね。

amenhotep2000
質問者

お礼

bragelonneさん こんばんは。 bragelonne哲学は未完成なのかもしれませんが、かなり、いろいろな概念に対し、まとまった考えと思います。 ひとつの説として、私は肯定します。 今回の回答者の皆様の意見から、欲望は意志と関連させて考えるべきというキーワードを学びました。 しかし、赤ちゃんに生得観念としていかなるものがあるか、例えば言語の基盤としてチョムスキーが提唱するLAD(language acquisition device) など。 この機能も赤ちゃんが発達していくにつれ、欲求(欲望)に結びつき、意志と切り離せないかもしれません。 まあ、人間の一生は短く、はかないもので、死ぬまで疑問として残るテーマはあり、それらを考えることで、人生退屈しないと思います。 ご助言ありがとうございました。

amenhotep2000
質問者

補足

皆様の好意あるご意見に対し、ベストアンサーを選ぶことが出来ません。 もっとも、今回、回答された皆様もベストアンサーポイントを貯めようとなど気にするような欲望を持った方々では、ないと思います。 私もベストアンサーは気にせず回答をしておりましたが、めでたく1000ポイントを越え、記念も込めて今回、質問しました。 今回の質疑で、まだまだ、学ばなければならないことがある中で、どのように優先順位をつけて学んでいくかの頭の整理が出来ました。 大変申し訳ありませんが、締め切りという形として、修行に戻ります。 今後ともよろしくお願いいたします。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.10

まずお断りしておかなければならないのは、私はただの哲学書を読んだり小説を読んだりすることを趣味にしている人間で、読書家ですが、読書家はショーペンハウワーが「他人の頭で考える人間だ」というとおり、私自身は考える能力はなく、ただ、過去に読んだ哲学書からの知識を引き出しにたくさん保存してあって、それを出しては質問に答えているだけだということです。 そして私は語学の能力はなく、せいぜい中学生程度であり、しかも大学で哲学を学んだこともなく、また教壇に立ったこともないということです。 だから、あなたの質問にお答えすることはほとんどできません。 ちょっと買い被りです。 他の回答者に補足回答しているのを見て、私なりに言いたいことはありますが、この際、遠慮させていただきたいと思っております。 あしからず。 また、別の質問の時にお会いしましょう!

amenhotep2000
質問者

お礼

koosakaさん こんばんは ご回答ありがとうございました。 koosakaさんの、最初のご回答が基盤になって、やはり、欲望は意志に関わるのではないかというのが、多数意見です。 是非、koosakaさんのこれまで学ばれたことから「ヘーゲル虎の巻」という秘法書を作っていただき、私に渡していただければ幸いです。 また機会があったら、ご教授ください。

回答No.9

欲求とは、意識=環境認識における特定の感受パターン に対する、意志=選択的行動の事です。 原理的に存在には意志はなく、エントロピー増大(ラン ダム)な方向に向いますが、それは結果的に淘汰として 進化(より存続力のあるものが残る)を導き、脳の発生 において「生きる意志」を必然的に付与します。 ただ、自己認識が不完全な段階では、そうした「生きる意 志」は、個々の現象に対する即物的な多様な欲望(衝動= 食欲、睡眠欲、性欲etc.)として分断されて発露(快感~ 感情)しますが、更なる認識の発達において、人生を通算 した精神的充足量の最大化(長期的意志)においてコント ロールされて発露されるようになります。 それは、刹那的快感から持続的幸福感への移行でもあり、 即物的な奪い合いから助け合う喜び(他人の喜びを自己の 喜びとする相乗効果による最大化)への移行でもあるのです。

amenhotep2000
質問者

お礼

Psytexさん こんばんは。 物理・数学を極めた、psytexさんからのご意見ありがたく思っております。 欲望について、やはり意志、特に「生きる意志」というキーワードをいただけたのは興味深いです。 私は物理、数学は高校時代にしっかり学ばなかったので、現在、哲学をやるにあたり再勉強中です。 プラトンも「幾何学を知らぬものこの門に入るべからず」、とアカデミアの門に書いたそうですし、デカルトも解析幾何学というものを確立しましたし、ライプニッツやフッサールなど、数学をきちんと学んで哲学に入った人が多いです。 現在、お恥ずかしながら、高校物理学を学びなおし、やっと高校レベルのニュートン力学を理解したレベルです。 しかし、その、ニュートン力学も現在では古典力学であり、カントあたりまでの哲学に導入された 無限に均質に広がる「空間」 無限に一直線に流れる「時間」 という絶対空間、絶対時間という考えも現在では認識が変わっているものと思います。現在という視点から哲学を考えるなら、物理数学は必須のスキルと思います。 そのような見地で、現在の物理学、数学を知っていらっしゃる、psytexさんのご意見は大変参考になります。 現在、高校数学も学びなおしておりますが、大学の数学科の先生には大学卒業レベル数学は数学とは言わず、算数だ。しかし算数が一番難しいと励ましてもらっております。 しかし、欲望になぜ、金銭欲とか名誉欲というものが、人間が成長してゆくにつれ、欲望の中に入ってくるのでしょうか? Psytexさんのおっしゃる、刹那的快感から持続的幸福感への移行でもあり、 即物的な奪い合いから助け合う喜び(他人の喜びを自己の喜びとする相乗効果による最大化)への移行、というのも人間がいかに良く生きるべきか、ということを考えるにあたり大変大切なキーワードと思いますが、持続的幸福感の負の要素に金銭欲や名誉欲が入るような気がいたします。 私は考えることが持続的幸福感です。

回答No.8

 こんにちは。このところ goo のほうで投稿しています。  ★ (No.6お礼欄) 物事を理性と感情の2つに分離して考えるのは無理がある。bragelonneさんの意見を取り入れると、物事は理性と感情と意志の3分法で考えるべきでないのか。  ☆ 及ばずながら 人間観の基礎は 次のように捉えます。  1. ひとは 身と心とから成る自然本性として生まれて来る。  2. 身体と精神であり 感性と〔広義の〕理性です。  3. 感性として知覚したもの(視覚・聴覚・味覚などの像)は 悟性が言葉≒概念として認識します。事実認識としての世界認識となります。  4. 概念として整理したもの(言葉≒観念)は 記憶の倉庫に収められます。記憶という能力行為が その観念たる情報を整理整頓するとも考えられます。秩序作用があると見られます。  5. 知解行為が あらたな〔知覚⇒事実認識⇒〕概念を入力して 既存の知識と照らし合わせてさらに世界認識をあらためつつ深めます。記憶におさめます。  6. 何か問題が起きたときには その事実認識であり問題意識である知解を――そうしようとする意志が特にこのような場合にははたらいて―― 記憶の中の関連情報と突き合わせながら 新たにして行きます。  7. そこから 処方箋をつくります。問題の解としていくつかの選択肢を 知解行為が用意し そこから意志がじっさいの政策をえらびます。  8. つまり 心=精神は 広義には理性ですが その中身としてはこのように《記憶‐知解‐意志》の三つの行為能力から成っています。(この自然本性論は アウグスティヌスの『三位一体論』を参考にしてつくったものです)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  欲望を感情面に区分するのは無理がある。  私がお礼欄で、理性と感情が分離できないグレーゾーンがあるとしたのは、人間における人格形成において、赤ちゃんが感情から発展し理性が形づくられ大人になるにあたり、分離できない要素があるのではないかということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 9. 《感情》は 《感性》全般のことです。  10. 《欲望》とは 《そのものごとを欲するという意志のハタラキがある思いや振る舞い》を一般的に言います。  11. 意志は志向性(心の向き)のことですが その向きの先に見えるものごとや向き自体に《感情》がともなわれ得ます。  12. よって  ★ 欲望:快に向かう苦から離れようとする傾向  ☆ というように感情を帯びている場合もあり得ます。原発の廃炉作業のように 苦をともなっていても意志行為はおこなわれ得ます。全般的な安全という快を求めているのでしょう。  13. 赤ん坊が その振る舞いにおいてあたかもすべて欲望から成ると見られるのは 《秩序作用としての記憶が 精神ないし理性としてはたらいている》と捉えられますまいか。《知解》は ないでしょうが 《記憶》が《意志》をあたかも促しはたらかせた恰好となっている。・・・つまり《自然本性》の全体――のちに人格――という観点が 有効なように思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  カントは見事に人間の認識機能を、頭の理屈で考えたものだと、私は思いますが、良く考えると大人の認識機能であり、赤ちゃんに当てはめられるかというと私は疑問です。赤ちゃんに大人のような理性が備わっているとは思いません。  このあたりについて、bragelonneさんの見解があれば、リクエストをお願いいたします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 越権行為になりますが 次のコメントをも参照しつつ。  ★★ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~  理性が成人ほど、発達してない赤ちゃんでは、お腹がすいたら、お乳を求めて泣きます、また、排泄したら、不快感から泣きます。  この行動は、感情でしょうか?意志でしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 14. 《お乳が欲しい》とか《排泄物のよごれから解放されたい》とかの知解(認識)はないのでしょうが あたかもその広義の欲望を意志行為として発揮するかのように 振る舞います。  15. そしてむろん 空腹感や不快感といった感情をともなっているでしょうね。  おまけ:    信じる:非思考の庭::ヒラメキ(直観・インスピレーション): +α  -----------------------------------  考える:思考の緑野::精神(心)=記憶・知解・意志    : 自然本性  感じる:感性の原野::身体(身)=知覚(五感;感情・情感): 自然本性

amenhotep2000
質問者

お礼

Bragelonneさん こんにちは さすが、bragelonneさん、かなり考え方が整理されており、説得力があります。 しかし、今回の回答を理解するために、bragelonneさんの補足回答が欲しいです。 8. つまり 心=精神は 広義には理性ですが その中身としてはこのように《記憶‐知解‐意志》の三つの行為能力から成っています。(この自然本性論は アウグスティヌスの『三位一体論』を参考にしてつくったものです)。 考える:思考の緑野::精神(心)=記憶・知解・意志    : 自然本性 のbragelonne哲学における「知解」の言葉の定義です。 広辞苑には 「知識の力で悟ること」とありますが、 Bragelonneさんが参考にしたアウグスティヌスは自由意志1巻7章で 「知解するとは精神の光に照らされて、より大きな光と完全さの中に生きることに他ならない」としています。 知解という言葉は、神学の書物に多く出てくる言葉であり、一般の人は聞きなれない言葉だと思います。また、上記のアウグスティヌスの言葉は、アウグスティヌスの照明説がよく現われた言葉と思いますが、光とは神からの光であり、神の存在を否定する人には、受け入れがたいと思われ、万人にも良くわかる言葉にして、定義した言葉をいただけると幸いです。 もうひとつは、質問から少し外れますが、人間というものは生得観念(アプリオリ)を持って生まれてくるかというのが現在、私の疑問でもあります。 非常に乱暴な定義ですが、アプリオリを生まれる前、アポステオリを生まれた後とします。 13. 赤ん坊が その振る舞いにおいてあたかもすべて欲望から成ると見られるのは 《秩序作用としての記憶が 精神ないし理性としてはたらいている》と捉えられますまいか。《知解》は ないでしょうが 《記憶》が《意志》をあたかも促しはたらかせた恰好となっている。・・・つまり《自然本性》の全体――のちに人格――という観点が 有効なように思われます。 Bragelonneさんの意見として、赤ちゃんはアプリオリに思考の緑野の精神(心)として記憶と意志の2つは持って生まれてくる、理性、知性は未熟で、その種は記憶に保存されている(ここの解釈において知解という定義が欲しいです)。そして、感性の原野の身体(身)としての知覚(五感;感情・情感)はすでに備わっていると解釈していいでしょうか? そして欲望というものは、精神(心)と身体の知覚(五感;感情・情感)の相互作用から生まれる。 間違っていたら訂正してください。 ところで、最近読んだ本で、定説かわからないのですが、新生児における微笑は、生まれて間もない時は、「生理的微笑」と呼ばれ、相手の顔を見ての微笑みとは違い、対人を理解しての「社会的微笑」は生後2~3ヶ月に生まれるそうです。とにかく赤ちゃんというのは非常に近眼らしいです。 Bragelonneさんの身体(身)としての知覚(五感;感情・情感)がどこまで、備わっているのか、あるいは、成人より、もっと敏感な高度な知覚をもっているのかもしれません。 長くなりましたが、補足回答をいただけると幸いです。

  • koosaka
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回答No.7

ちょっとしつこいようですが、「プラトンがイオニア旅行で、ピタゴラス教団の影響を受けてから後、明らかに作風が変わっていると感じます」という言葉に、付け加えますと、プラトンは師のソクラテスが裁判に掛けられて毒を飲んで死んだのは、弟子のアルキビアデスと、クリティアスが隣国スパルタとの「ペロポネソス戦争」で、敵に内通し、そのためにアテネは30人独裁政権がスパルタの傀儡政権として、アテネの有力者を次々に捕えては処刑したのを見て、アテネ市民がアテネ郊外に結集し、クリティアスを捕縛して処刑し、アルキビアデスは逃亡して逃亡先で殺され、その後、アテネ市民からその敗北の責任者として罪を問われたもので、とはいえスパルタの支配下にあったので、敗北の責任を取れ、という訳にはゆかず、アテネの若者を扇動した等の理由で裁判にかけたものでした。 ソクラテスはその裁判の名目が間違いだと知っていましたが、アルキビアデスとクリティアスの師匠として責任を取るほかはないだろうと、それで死にました。 それでも、アテネ市民はソクラテスを慕っていた人もいて、わずか1票差で有罪とされたもので、ソクラテスに亡命を勧めましたが、何と言ってもすでに70歳の老齢で、今さら亡命はできないと言って、その申し出を拒絶しました。 でも、プラトンは同じソクラテスの弟子として、自分も裁判にかけられるのではないかと恐れ、それで当時イタリア南部のシチリア島の僭主・ディオニソス二世を頼って現地に亡命し、そこで「国家」という著作を著し、今後のアテネは哲人が王になって、哲人政治をしなければならない、つまり従来の民主制を止めて、スパルタと同じ僭主制・独裁制を採らなければならないと主張しました。 当時、南イタリアのギリシャ植民地プロトンにピタゴラス教団がいて、もともとイオニア地方にいた人たちが、イオニア地方がペルシャに滅ぼされて南イタリアに移住してきたもので、紀元前6世紀にペルシャ(今のイラン)で起こったゾロアスター教の教義、輪廻転生思想と魂の不死を受け継ぎ、さらに自然の根源を数学の数にあると唱えるものでした。 それをピタゴラスは当時民間に流布していたオルフェイス教の神秘主義に結び付けて、あたかも独自の思想・宗教のように酒の神バッカスを主神として、歌え踊れと音楽を奏で、狂騒に駆られるという変な宗教を唱え、プラトンはそのピタゴラス教団の数学が自然の根源という思想にヒントを得て、「イデア論」を思いついたと言われます。 その後プラトンは当時のエジプト、パレスティナを旅行し、そこでユダヤ教の一神教を知り、合わせて「イデア論」を補強したとされます。 哲学史では、プラトンの「イデア論」が、ヘレニズム期のプロティノスの新・プラトン主義に受け継がれ、さらに聖アウグスティヌスによって、ユダヤ教の神による世界創造という教義に受け継がれたと言われていますが、ちょっと修正する必要があるようです。 なぜって、プラトンはパレスティナに旅行してユダヤ教の教義を知って「イデア論」を思い付いたのですから。 その後、プラトンはアテネの政情が安定し、自分が帰国しても大丈夫だと知って、アテネに帰国し、そこでアカデミアという学校を開設し、後進の若者たちを育てることに専念しました。 本来プラトンのお父さんも政治家で、アテネの名門の生まれで、自分も将来、政治家になることを望まれていましたが、やはり政治家は危険だと知って、教育に専念することになったものでした。 だけどプラトンの「国家」で唱えた哲人政治は、実現することなく、プラトンが死んですぐにアテネの北方、マケドニアのアレクサンダー大王の侵略に会い、そこで実質的にアテネの歴史は終わりました。 プラトンの学校アカデミアは存続しましたが、アレクサンダー大王の家庭教師をしていたアリストテレスの学校、リケイオンにアレクサンダーが後見人として援助し、そっちの方が栄えました。 でも、すぐにアレクサンダーが、配下の者に毒殺され、支援者を失うと、アリストテレスも失意のうちに、故郷・スタゲィラに帰り、そこで隠棲し、胃病を患って若干60歳で死にました。 一説によると、故郷エンボイア海峡を望む橋の上から身を投げて自殺したと言われます。 ちょっとウンチクを述べました。 お笑いください!

amenhotep2000
質問者

お礼

koosakaさん おはようございます。 回答ありがとうございました。 私がプラトンにひたしみを持つのは、問答法(対話法)という書き方の作品が多く、そのような説得法が私には理解しやすいからです。 しかし、私にはプラトンは初期は人間的考えから、「人間いかによく生きるべきか」というテーマに考えを述べているのに対し、ピュタゴラス教団の影響を受けた後の後期の作品になると、プラトン独自のイデアという観念に対し、超越的「実体」を意識して作品を書いているのではと感じます。 ところで、質問からはずれますが、是非、koosakaさん流の哲学の極め方を伝授していただけると幸いです。 ある哲学者の原書をいきなり読むと、難解なので、その哲学者の概説書を読みます。 すなわち、大坂冬の陣、夏の陣にたとえると、いきなり原書という本丸を攻めるのではなく、外堀、内堀を埋めてとなります。 しかし、これでは、哲学の習得が遅遅として進まず、また概説書も著者により解釈が違い、本丸の原書を読んだほうが、正確に把握できるということがあります。 もうひとつは、言葉の問題です。 特に西洋の哲学を学ぶ場合、世界でも固有な言語の日本語というものを持つ日本人にはハンディキャップが大きいと感じることがあります。 例えば、ドイツ語において心は seele ですが、この言葉には霊という意味を合わせ持ちます、カントは、この言葉のニュアンスを避けるために、同じドイツ語の gemut という言葉で心を記述しましたが、日本語の訳では、親切な本には注意としてそのことが書いてますが、日本語では心と訳されます。 例えば、上下関係の秩序を重んじる日本では、兄と弟を分けますが、英語ではbrother に集約されます。 一方、日本語の走るは、英語では jog, run, sprint であり、走る速さの感受性は日本より英語圏の方がとらえ方が敏感のようで、日本では走るに集約されます。 質問に戻りますが、このように考える場合、日本人が欲望と考える定義の範疇と外国人が考える範疇は違ってくるかもしれません。 また、理性が成人ほど、発達してない赤ちゃんでは、お腹がすいたら、お乳を求めて泣きます、また、排泄したら、不快感から泣きます。 この行動は、感情でしょうか?意志でしょうか? もし、お時間がありましたら、浅学の私にアドバイスをいただければ幸いです。

回答No.6

 ★ 欲望とは感情と言えるでしょうか?   ★ または、過去の哲学において忘れ去られた、感情なのでしょうか?  ☆ という問い求めでしょうか?  欲望と感情とは 別の概念ですよ。  欲望とは ワタシが欲するということです。  欲しいもの・ことは いくらでもあり得ます。    参議院選挙に出たいということも 欲望でしょうし  宇宙旅行をしたいというのも 欲望でしょう。  また 《欲する》という限りで それはワタシの意志の行為になります。  意志行為は 世間の手前 いやいやながら行なうこともありますから  すべてが欲望になるのかどうか。  タテマへに従うことも 世間を渡るためには 欠かすことは出来ないゆえ  そのように生きることを欲しているとすれば 欲望であるかも分かりません。    そこで この欲望は 《感情》をともなう場合もある。ということになります。  国会議員になれれば 出世欲を満たすことが出来て その満足感があります。  月に行けるとなれば ワクワクするという人もいることでしょう。  ご質問に方向感がない。ように思いましたが? ・・・

amenhotep2000
質問者

お礼

bragelonneさん おはようございます。 お久しぶりです。お元気ですか?最近哲学カテに現われないので体調を崩したのではと心配しておりました。 意志というキーワードを出してくださりありがとうございます。 bragelonneさんのアドバイスから、ニーチェの「意志の力」を読んでみて、更なる思考をしたいと思います。 まだ読んでいないので「意志」に関し、ここで、碩学なbragelonneさんとかやりとりできません。 質問に軌道修正しますが、しかし、なぜ、長い哲学の歴史の中で、スピノザは感情基盤を3つまで絞りこんだ、その中に「欲望」という概念を含め、大事にしたのかから始まった疑問に対し、現在、他の回答者様からの回答を読んで、思うことは、 物事を理性と感情の2つに分離して考えるのは無理がある。bragelonneさんの意見を取り入れると、物事は理性と感情と意志の3分法で考えるべきでないのか。 です。 欲望を感情面に区分するのは無理がある。 私がお礼欄で、理性と感情が分離できないグレーゾーンがあるとしたのは、人間における人格形成において、赤ちゃんが感情から発展し理性が形づくられ大人になるにあたり、分離できない要素があるのではないかということです。 カントは見事に人間の認識機能を、頭の理屈で考えたものだと、私は思いますが、良く考えると大人の認識機能であり、赤ちゃんに当てはめられるかというと私は疑問です。赤ちゃんに大人のような理性が備わっているとは思いません。 このあたりについて、bragelonneさんの見解があれば、リクエストをお願いいたします。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.5

ついでに補足しますと、そのugigadai2013は私と同一人物です。 パソコンが壊れて別のパソコンに買い代えて、今のkoousakaになりました。 同じIDで登録できなかったので・・・・・でも、良くご存知ですね。

amenhotep2000
質問者

お礼

koosakaさん こんばんは。 同一人物とは・・・。 私も哲学をしていてつくづく思うのですが、原書を読むと、ある哲学者の前期と後期の考えが違うと感じ、やはりその哲学者のことを、きちんと話せる様になるためには、koosakaさんくらい勉学に励まないといけないと思います。 例えば、プラトンがイオニア旅行でピタゴラス教団の影響を受けてから後、明らかに作風が変わっていると感じます。 しかし、すべての哲学者のすべての原書を読むのは無理です。 koosakaさんのような、人生投げ打って、哲学を学ばれた方が、この哲学カテにいることは、少なくとも私にとっては貴重です。 ugigadai2013さん時代のこれはという回答は、パソコンにコピーして保存しております。 これからも、ご教授くだされば幸いです。

回答No.4

 いろいろ考えてみましたが、まず五欲というのがあるそうです。財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲。これが何なのかですが、財欲、色欲、名誉欲は関係の欲だとすぐわかります。食欲、睡眠欲は、一見関係性とは関係なさそうですが、食欲は関係のいい悪いと結構関係がありますね。睡眠欲は個人の問題のように見えますが、もしかしたら、不眠症などは関係の不安定と関係しているかもしれません。これは発見でした。   つまり欲望とは、人間関係において欲しがること、相手に求める欲求という考え方です。孤食では食欲も湧かないということですね。

amenhotep2000
質問者

お礼

Noboundさん こんばんは 斬新な回答ありがとうございます。 財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲の5欲という考え方があることを知り、また、人間関係にすべてを集約する点へのNoboundさんの慧眼を回答から感じました。 この回答から、頭の中でつながったことがあります。 以前、どなたかの質問者に回答しましたが、 カトリックの聖人アウグスティヌスは 「高慢は自己の優越性への愛であるのに対し、嫉妬は他者の幸福への憎しみなのである。(嫉妬の原因は高慢である)・・・自分の利益を求めない、つまり私的な優越性を喜びとしない、だから正当にも、高ぶらないのである。」創世記注解 第11巻14章・15章 と言っています。 財欲、色欲、名誉欲はこの優越感につながる。つまり他者との比較から生ずる。 そして、食欲、睡眠欲への障害は、この人間関係の劣等感からくる自己否定における身体の生理的不調。 つまり、欲望は他者がいないと生じない。キーワードかもしれません。 しかし、なんとキリスト教では、今日はイエスが十字架にかかった日です。 今度の日曜日が復活祭。 イエスは、弟子にも裏切られ、周りの人から侮辱され、すべての人から見捨てられた。 キリストの十字架の死というのは、神の子ゆえで、人間には不可能? 欲望をすてることは、愛に結びつくかもしれません。 一休さんのようにヒラメキました。神仏からの霊感?

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

私の回答に対し、リクエストがありましたので、私が理解している範囲でお答えします。 異論があったり、間違っているかもしれませんが、その点はあらかじめ承知しておいてください。 古代ローマ帝国のネロの時代にセネカというストア派の哲学者がいて、政治的に立身出世し、ネロの嫉妬と疑惑によって身の危険を感じ、政治の世界から引退し、心の安静と平和を唱え、一人でいることが何よりの幸福と言いました。 でも、ネロ暗殺を企んだ一員という嫌疑をかけられ、軍隊に自殺を強要され、手首を切って死にました。 ヘーゲルは「精神現象学」の自己意識の章の「ストア主義・懐疑主義・不幸な意識」の中で、ストア主義を批判し、人間が闘争の関係から逃避して自分の幸せを求めても、自分の幸せは得られるかもしれないが、それは他人の不幸となって帰ってくる、だから本当の幸せを 求めるんだったら、他人の幸せを願い、しかる後自分の幸せを求める、互いに互いの幸せを願う関係でなければだめだ、と言いました。 そしてヘーゲルはそれを理性だと言って、次の章、「理性」に進みました。 しかし、理性もまた、対立と抗争の関係に陥り、最終的には宗教に至らねばならない、と主張しています。 宗教によって理性に基づく対立と抗争は和解される、と。 まあ、今のキリスト教とイスラム教の対立を見ると現実的には和解は不可能に見えますが… しかもヘーゲルの「歴史哲学」によれば、理性も発展するもので、決して不変的でもないし、絶えず変化にさらされています。 同じ理性でも、古代のストア派の理性とヘーゲルの理性の考えは違うし、あるいはヘーゲル以後の理性も違うでしょう。 たとえば、中世では、神の有する無限の能力は知性・インテレクタスと言われ、理性・ラティオは人間の有する有限の能力と言われ、理性よりも知性の方が上位の能力でした。 そして理性は神が人間に与えたものと考えられました。 でも、カント以降、この知性・インテレクタスと理性・ラティオの関係は逆転し、理性が優位になり、知性は悟性と言い代えられ、劣位にあると考えられるようになりました。 今の私たちで、理性と聞いて、そのような歴史的変遷を念頭に置いて考えているとは到底思えません。 たぶん、あなたも、同じではないですか? 理性と聞くと、物事を合理的に推論する能力だ、というくらいしか思い浮かばないでしょう。 ショーペンハウワーは主著「意志と表象としての世界」で、人間の本体は意志であり、表象とか理性はその意志の派生体といい、理性をもってして人間の幸福は得られない、と言いました。 人間の幸福は、その意志を否定することにある、と。 でも、その意志は「宇宙意志」であり、スピノザのいう「神=自然」と同じ、宇宙の至る所に偏在しているものですから、これを否定するのは至難です。 宇宙そのものを否定しなければならない。 だからニーチェはショーペンハウワーの意志の否定に対して、逆にその意志、「力への意志」を積極的に肯定し、それをバネにして、それまでの「最高価値」と言われるキリスト教と、プラトンの「イデア論」を根底からひっくり返しました。 それが「永遠回帰」の思想であり、ヨーロッパの哲学と神学の根底に流れている「消極的ニヒリズム」に対して、おのれの「積極的ニヒリズム」を対抗させることでした。 「ニヒリズム」に「ニヒリズム」を対抗させることでした。 ヨーロッパの哲学には、古代の「コスモス」としての宇宙という思想が一貫して流れていますが、17世紀にフランスの経済学者ジャック・セイも「経済表」という本で、需要と供給は一致するといういわゆる「セイの法則」を唱えました。 「コスモス」とは、この世界・宇宙は神が創ったもので、一定の秩序が世界・宇宙には存在するという信仰のことで、アリストテレスも、その目的論で、世界は第一原因に基づき、それによって作られ、世界史はその第一原因による計画によるもの、だから目的があると言っています。 カントも「判断力批判」の目的論的判断の批判で、アリストテレスの目的論を批判し、自然の目的合理性があるのを認めましたが、神の世界秩序、神の計画を否定しました。 ショーペンハウワーも同じで、「宇宙意志」は気まぐれで、何をするか分からないので、この世界・宇宙は「宇宙意志」によって作られたかもしれないが、目的をもって作ったとは思えない、と言って否定しました。 でも、アダム・スミスは「神の見えざる手」で、個々人が私利私欲で、自分勝手に商品を買っているとしても、最終的には需要と供給は一致する、均衡するという「セイの法則」を信じていました。 つまり古代ギリシャ以来の「コスモス」としての神の世界秩序を信じていたことになります。 それはスミスの古典派経済学の根底にある信念で、その「見えざる手」という考えをヒントにヘーゲルは「精神現象学」で、それを「絶対知」といい、「理性の狡知」と言いました。 「理性の狡知」とは人間各人は勝手に行動しているように見えるが、実は神の掌の上で操られているようなものだ、ということです。 そしてヘーゲルは個人の欲望と社会・国家の欲望は「転倒する」と言っています。 つまり各人の知覚・感情・欲望に忠実に生きると、社会全体の幸福につながるというマンデビルの考えを否定したわけです。 それは、現代の資本主義を考えれば分かることで、個人が豊かさを追求すれば、かえって貧しくなる、自由を求めれば孤独になり、かえって自由を喪失する。 逆説・パラドックスです。 だからこそ、ヘーゲルは個人の幸福は他人の幸福、他人の幸福を願うことが、かえって己の幸福になる、と言ったのです。 片務関係でなく、相互関係。 そしてそれこそがヘーゲルの考える理性でした。 さらに「欲望」に関して言うと、ルネ・ジラールは「欲望の現象学」で、またジャック・ラカンは、人間の欲望は「三角形の欲望」といい、人間の欲望は「他者の欲望」と言っているように、三角関係によって作られる、あるいは他者の欲望を「模倣」することによって得られると言っています。 漱石はその「こころ」という作品で、主人公の先生とKという同僚の間で、下宿の御嬢さんを取り合いになり、kが自殺し、自分も最後には自殺する、ということを書いていますが、漱石の作品はすべて三角関係を描いています。 つまり人間の欲望は三角関係に触発されて顕現するということ。 まなた、他人の欲望を「模倣」することによって、自分の欲望に目覚めるということ。 その点では、精神分析家の岸田秀が「人間の本能は動物と違って壊れている」と言いましたが、人間は観念を通してでしか外界を認識しえない宿命を負っています。 そこが動物と人間の違うところ。 まあ、ざっとリクエストにお答えしましたが、まだ質問がありましたらどうぞ。

amenhotep2000
質問者

お礼

Koosakaさん こんばんは ご助言感謝いたしております。 恥ずかしながら、私は今回、koosakaさんが回答してくださった、ヘーゲル、ショペンハウアー、ニーチェを深く読み込んでおりません。 しかし、この時期の哲学は、哲学におけるヘーゲルまでの認識論と、その後の存在論への哲学的考え方の分岐点とされており、今後、もう少し勉学に励み理解しようと思っております。 しかし、以前、このカテゴリの常連だった、Urigadai2013さんという方はヘーゲルをすべて読破するのに10年かかったと言っており、さすがにそこまでは、一人の哲学者に時間をかけるつもりはありません。 さて、本論ですが、今回のご回答を読んで、理性の定義の揺らぎというのを回答から受け取り、果たして、人間の理性と感情は、簡単に2つに分離して定義し、述べることが出来るのか?両者が交じり合うグレーゾーンというのもあるのではと現在私は考えております。 しかし、ヘーゲル、ショペンハウアー、ニーチェといった、哲学がまだ学問の中で力をおびていた時代から、現代に至るまでに、哲学に取って代わり、科学が急速に学問の中心を治め、また、成功してきたともいえます。 この科学とは合理的に純化した知的財産と思われ、合理的の理の字の理性というものの集積であり、感情は入っていません。 ですから、理性と感情とはグレーゾーンはなく分離できるのかもしれません。 そして、現在、科学的に人工知能を持ったロボットの開発が急速に行われています。 先日、NHKのクローズアップ現代を見ましたが、人工知能を持ったロボットの導入により10年後には、日本の39%の人の職が奪われるとの試算もあるようです。 この、人工知能ロボットというのは理性を備え付けることは出来ると思います。 しかし、感情はどうでしょうか? 現在、家の中が本とコピーした資料の山で、探したものの原本が見当たらないのですが、学問の基盤を考え続けたフッサールは、心的現象は数学には還元できないとの主張をしたようです。 これを、大学の数学科の先生に見せて意見を聞いたところ、フッサールに同意し、数学には心はない、だから、ロボットに感情を持たせることは出来ないのではないかと言っていました。 Koosakaさんは、人工知能のロボットから連想して、理性と感情は区別し定義できるかということに、私は現在、両者が交じり合ったグレーゾーンですが、2つに完全に分離できるとお考えですか? 人工知能を持ったロボットが欲望を持つに至った時、鉄腕アトムかターミネーターか? 何かご意見があれば、再リクエストしますが、今回の回答に十分感謝いたしております。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

amenhotep2000様、こんにちは。 「欲望」は、「苦痛のタネ」ですか。 >「欲望とは感情と言えるでしょうか?」 感情より、もう少し複雑なモノであると思います。 心が平静であったら、良いなあと、つくづく思うのですが、 それも煩悩なのかなあ・・・

amenhotep2000
質問者

お礼

kurinalさん こんばんは やはり感情より、複雑という、koosakaさんの意見を支持するご意見ありがとうございます。 ところで「知る喜び」とは理性でしょうか、感情でしょうか? いわゆる、好奇心は欲望でしょうか? また、煩悩でしょうか? 現在している質問を考えることは私にとって苦痛そのものですが、楽しさもあります。 苦痛を避けるために快楽に向うのではなく、苦痛そのものの中に入り込む先に快楽があるような気がします。 悟りの道は遠い。

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