• 締切済み

KY は 草の根民主制への第一歩である

 民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。  日本人にあるまじきKYだ と言ってそれを読めという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。  いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の中に持ち込み人びとに飲み込ませようとするときの思潮やまた圧力と感じられもする雰囲気のことである。  この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)》が人びとの心の中に見られる場合がある。  あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》という無謬性の神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。  これらの風潮がはびこっている。  この風潮を読まないというKY は 未来社会への旗手である。  たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。  ご見解とご批判をどうぞ。  なお最後にですが あらためて定義です:   ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに    言論をとおしてというかたちを超えて    おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って   ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの   意向をすでに汲み取って――    多くの参加者の意向がそれになびいているとき    そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みんなの回答

回答No.10

もうあまり絡まない方がいいと思っているでしょうけど、 集団関係は自分のテーマでもあるので。 言葉を自分なりに解釈すると、 「KYは,草の根民主制の第一歩である」= 同調圧力に屈しない、打ち破る。 その通りなんですが、みんなそれがなかなかできないのは、いじめ、排除、上司などがひどいとクビなどの目に合うからです。そこへの言及がないですね。そんなのは大した問題ではないのか、それが大きな悩みかで、視点は変わってきます。私は後者の視点なので、似たような疑問を持ちつつ、同調圧力への悩みで四苦八苦している問いかけと対処法を長年追求しています。いわゆるいじめ本人対処法です。結論がなかなか出ないので書けませんが、今の自分のテーマはそれだけと言ってもいい位です。知り合いのカウンセラーの先生に言わせると、「一匹仔鹿でこの世を渡り歩けるか」ということらしいです。狼になるべきか、逃げ足速くなるべきか。最近の流行り言葉でいうと、「生き残るのは、強いものではなく、環境に適応できたものだ」KYが生き残るための、環境適応とは何か?は質問につながります。悩まないのが一番かもしれませんが。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    「KYは,草の根民主制の第一歩である」= 同調圧力に屈しない、打ち破る。  その通りなんですが、みんなそれがなかなかできないのは、いじめ、排除、上司などがひどいとクビなどの目に合うからです。そこへの言及がないですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。まづは  ご回答をありがとうございます。  そうですね。この質問の場合は ちょっとずるい手法を用いています。  すなわち いま世に《 KY 》と呼ばれる現象があり そう呼ばれる人びとがいる。という現実を取り上げているとき いちど長い目で見てみたら どうか? あんがいおもしろいのではないか? と話を持ち出しているだけだということです。  おっしゃるような現実のいま目の前の事態にどう対処するかについては 二の次としているということになります。  ★ いじめ、排除、上司などがひどいとクビなどの目に合うからです。  ☆ といったまづい結果に遭っているとしたら それはやはり――そのような結果を覚悟であえて踏ん張る場合を除けば―― そのKYと呼ばれている人たちである。ということですね。  そして この《KY》さんたちは じつは 確信犯ではないわけです。一般的に言って ふつうに自然に《クウキが読めない》わけです。  つまり そういう《あたらしい人たち》が出て来てくれたことは 考えてみればおおきな歴史的な出来事なのではないか? という見方をまづ してみてはどうかという話を差し向けている。だけだと言えば そういうことになります。  少し色をつければ こういう見方を人びとが 共有するようになればそれだけで あんがい問題は 思わぬ方向へ不幸中のさわいのごとく すすむのではないか。というズルいお話ではあります。  あとは そうですね。これまで質問してやり取りして来た主題の中から拾うなら たとえば《アース役とガミガミ役》という見方をしてみることです。  造語ですが おそらくいっぱつでお分かりになると思います。  そこで あーあ アース役はつらいよ。けっこう毛だらけ 猫灰だらけうんぬんと言ってみることです。  このせりふを みんなで大合唱してみることです。  まあ こんなところですかね。どうでしょう。  

回答No.9

bragelonneさん 返信。 bragelonneさんは若いなぁ。 年相応に、少しは丸くなったらどうですか。 http://okwave.jp/qa/q8162964.html この問題は解決済みです。 bragelonneさんとのやり取りをしていると、哲学ではなく、ただのディベートしている気分になるから私は嫌なのです。 会社にもプレゼンにおいてディベートで勝つことには長けているが、いざ、その計画を実行しようとしたら、まるで役に立たないという人もいるらしいです。 いろいろな人の考えが飛び交い、実行しても絵空事では終わらないような考えが成熟する、有益なIT mediaの哲学カテであって欲しいと思います。 私も KY 的に発現は控えるという哲学カテではあってほしくはありません。 bragelonneさんも、教えてgooから得た情報を提供する等ご協力ください。 では、修行に戻ります。図書館で7冊も本を借りていますが、完全にキャパシティーオーバーのようです。

bragelonne
質問者

お礼

 新知見を ほかの人間から出されたものとしては 受け容れがたい。それは ただのディベートにしか過ぎない。と言って 排除しようとしています。よ。  ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 ★ この問題は解決済みです。  ☆ BAを決めたから 解決済みだというのは ちと短絡。

回答No.8

bragelonneさん おはようございます。 問題提起されている KY についてですが、私は、私的な行動ではなく、社会で行動するときには、やはり TPO [Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)]を考え行動するのは必要だと思います。 会社の忘年会では、酒の場ということを借りて、上司と対等な立場で会話しても、会社で仕事という場になれば、上司を立てなければなりません。もちろん会議で多くの意見を出すことは有益ですが、上司の面目を失墜させる発現を繰り返すなら、会社という組織内において孤立すると思います。 人間が、社会的生活をする時には、チームワーク(組織)というものは欠かせず、今年涌かせたラグビーにしろ、野球にしろサッカーにしろ、やはり日本のお家芸は「組織力(チームプレイ)」であると思います。 それは、日本という古くからある習慣の、「困った時はお互い様」とか、「なさけは人の為あらず」などという言葉からわかるように長い時間をかけて日本という国に沈殿している宝と思います。 もちろん、組織というヒエラルキーは腐敗してマイナスに働くこともあるかもしれません。しかし、いかに「秩序」立てるかということも大事と思います。 bragelonneさんもお読みかもしれませんが、アウグスティヌスは著書、「自由意志」の中で 人間をして動物をまさるものとすれば精神(mens)または霊(spiritus)をもっていることで、欲情(性欲・賞賛・名誉)は理性に服さない欲求であるが、魂のもつこういう動きを理性が支配する時、人間は秩序のもとにあるといわねばならない と書いています。 西洋におけるキリスト教社会では、唯一のただ一つの神を頂点とする、宗教的ヒエラルキーによる秩序造りを考えることが出来るかもしれませんが、日本においては、人々はほぼ無神論であって、西洋的な宗教による秩序造りは難しいと思います。アウグスティヌスが指摘しているようなことを良心という形で人々共有することが出来れば日本の未来は明るいと思い、bragelonneさんの構想する社会も可能かもしれませんが、どのようにお考えですか? まぁ、宗教による秩序を造っても、現在のイスラムの現状や、ジェームス・ディーンの「理由なき抵抗」の映画を観るとどうかとも思ってます。 話は変わりますが、私の世代の中学生時代は校則による学校秩序の規律は厳しく、体罰なんて当たり前でした。ズボンやスカートの丈とか、学校によっては、ゲームセンターに行くと不良になるからと、全学生、髪の毛を丸坊主にし、先生がゲームセンターに見回りに行ったときひと目で分かるようにするという中学校すらもありました。 私は、中学生の頃は、大人になったらインベーダーゲームを思う存分するというのが夢でしたが、現在において中学生になっても、コンピューターゲームをしたことがないという日本の若者がいたら、生きた化石です。 そのような規則づくめの秩序を造ろうとした学校の社会において、我々の世代に尾崎豊というスターが生まれましたが、現在の若い人が聴いても、良くわからないのでは。また、当時の学校秩序を打ち壊した歌詞に、尾崎豊の独創性があります。 「秩序」というものが、どうあるべきか、bragelonneさんのお考えをお礼にいただければ幸いです。

bragelonne
質問者

お礼

 あなた 年寄り臭いなぁ。  まづは ご回答をありがとうございます。  少なくともここは 哲学カテ。  互いに人間性をとうとび 秩序を――良し悪しを問わずという場合があるほど――重んじるといった大前提は 話の大前提なのです。  その上で KYなる現象が いかなる歴史的・社会的な意味を持つものなのか。分析して欲しいという問いです。  ▲ (アウグスティヌスは著書、「自由意志」の中で) ~~~~~  人間をして動物をまさるものとすれば精神(mens)または霊(spiritus)をもっていることで、欲情(性欲・賞賛・名誉)は理性に服さない欲求であるが、魂のもつこういう動きを理性が支配する時、人間は秩序のもとにあるといわねばならない  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1. 《霊》は 生物なら何でも持っています。あるいは 霊におおわれている。  2. 感性(そしてそれの自己目的となった欲望もありますが)は 基本として理性よりもえらい。  あるいは感性は 中立なのです。  3. 理性ないし意志なる判断力が 中立なる感性を どうみちびくか・どう利活用するか。の問題だと考えます。  4. 《欲情》であったとしても それが《理性に服さない》というのは マチガイでしょう。理性ほんにんが その欲求を止めないのです。  5. 理性は 欲求を満たすという判断を意志に対してさえも迫るのです。それこそが 《人間》である。人びとのあいだで好かれるためには 欲求の問題を過度に抑制してはいけないと理性が計らうのです。  6. 欲求にまかせる。それを満たす意欲のおもむくままにまかせる。果てはそもそもその欲求を頭にすでに描いてその満足をねらって謀を立てこれを実行する。これらはすべて 理性のしわざなのです。  7. アマアガリにんげんです。むろん表向きでは そうではありませんよ。  8. このアマアガリ人間が取り仕切るのが これまでの歴史としての秩序です。  ★ ・・・どのようにお考えですか?  ☆ クリスマスツリーの――従来の秩序にかかわるところの――カザリを ただのタテマエとしてのみ重んじておき あとは 樅の木本体をそれぞれ互いにしっかりとした実存にしようというコンタンです。  ★ 「秩序」というものが、どうあるべきか  ☆ 《KY は 草の根民主制への第一歩である》という理論的基礎にもとづく秩序を思い描いています。  

bragelonne
質問者

補足

 あめんほてぷさんには関係ないことなのですが No.4でお礼欄の投稿が まだエラーつづきです。投稿をクリックすると 次のように出ます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  この操作は実行できません。  以下のような操作をした場合、このページが表示されます。操作をご確認ください。  ・回答を記入中に質問が締め切られてしまった場合  ・自分の質問に回答しようとした場合  ・投稿完了画面が表示される前に、「質問する」「回答する」ボタンを連続で押してしまった場合  問題が解決しない場合は、FAQをご確認の上、お問合せください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なぜでしょう。No.4だけです。  事実の確認として 覚え書きとして しるします。

  • hahaha86
  • ベストアンサー率14% (82/576)
回答No.7

くいきにたいする攻撃法は 内部自滅を待つか くうきで勝しかないでしょう 韓国の問題は上のほうは空気で勝ちました まあ、札束で頬をたたいた感はあるけど まあ、あのおばさんは終わりで小 国内の反発が強いので 政権交代時新たなく基地外が来るんでしょうが あの一文があるので まあ、ほっとけば自滅するでしょう 北朝鮮はほっといて ISISは脅威です 実力行使ですか 国内はどうしようもないです

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~  くいきにたいする攻撃法は  内部自滅を待つか  くうきで勝しかないでしょう  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 舌足らずだったけれど このようにクウキの社会的・歴史的な変遷をめぐって 現在では《 KY 》という社会現象が起きている これがその変遷にどのように絡むか? ここに焦点があります。  《内部自滅》のきっかけやそれを促すチカラとして KYが作用するのではないかという見解について問うているわけです。  ★ 国内はどうしようもないです  ☆ これが 答えでしょうか。  ご回答をありがとうございます。  ★ 基地外  ☆ の史観では一致したようですが。

回答No.6

言い回しが独特過ぎて、一般向けの読みものになっていないよ。 私なら、 君達が常識だと納得している事はどこにも通用しない。 こういう、その気になればカネのとれる上質のアニキなツンデレサービスで引き込むけどね。 ちなみに私はそうした空気を無視しないで、敏感に嗅ぎ取り、仏その物のあらゆる思慮をめぐらせ、ジラーチちゃんにお願いされている通り、調和の実現のために柔らかく行動する。 このオカマバーでは、主に闇の仏陀だが、実際の生活では生き仏さんが私だ。 私はこのオカマだーで必要とされる餌を忠実にほどこしているよ。 ありがたがってもらいたいもんだ。

bragelonne
質問者

お礼

 元気そうだね。よかった。  むかしを思えば ひまだね。何か変わったんだと思う。  

bragelonne
質問者

補足

 話はちがうけれど No.4にだけは お礼を投稿できない。  何度やっても エラーが出る。  いちおう そのことをここに書いておきたいと思って。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

>「どういう結論を持つかだと思います。」 さてさて。。 「人権を侵害しないでね」 もとい 人権を侵害しないように、心掛けたいものですね。

bragelonne
質問者

お礼

 聞き飽きたというせりふも聞き飽きたかな。

回答No.4

人類は、個体が生命の最小単位だった古代から、分業化・ 組織化して、助け合う事で社会が生命の単位となった。 その過程において、原始共産制による助け合い=脳の発達に よる自律的社会行動=「ヒト型進化」とは乖離し、そうした 自己の生の社会的拡張を把握し得るだけの認識の深まりを 怠って、お金や出世、虚栄心や自己顕示欲といった社会的 二次的な価値=馬車馬の目の前のニンジンによって他律的に 操られて社会行動をとる「アリ型進化」へと変質したのだ。 生きる目的が「物質的な繁栄」ならば、どちらも進化に違い ない選択肢であるが、「精神的な充足」が目的ならば、認識 の深まりを伴わない希薄な精神の充足は、結果的即物的成果 によらず充足量を損なう。 社会に依存して生きている自己の客観視=他人への思いやり による助け合う喜び(自己存在の本質に根差した幸福)を 見失い、KYに自己顕示欲流されて中身のない駄文によって 場を乱すのは、自他にとって損失である。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

B様、ありがとうございます。 >「KYについてのこの議論が 合理的であるかどうか。」 「あらゆる異論を排除しない(検討する)」のが合理的なんだと思います。 ・・・へへ、「理性的」とは言いません。

bragelonne
質問者

お礼

 まだ判断がつかないということですか。  ご自分の考えを持ってそれを明らかにして述べられるようにとのぞむ気持ちがわたしにあります。  ご回答をありがとうございます。  つまり  ★ 「あらゆる異論を排除しない(ようにして検討する)」  ☆ ことをしたあと どういう結論を持つかだと思います。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

B様、こんにちは。 合理的、ということ 「それって、本当?」ということの積み重ね そういうプロセス それから「本人意思の尊重」 (と、「人権を侵害しないように心掛けましょう」)

bragelonne
質問者

お礼

 だから KYについてのこの議論が 合理的であるかどうか。  どう考えたのですか?  ご回答をありがとうございます。

  • hahaha86
  • ベストアンサー率14% (82/576)
回答No.1

なかなか面白い考察ですが くうき は日本独自のものではありません 与えられたくうきですが スタンフォード監獄実験 や ミルグラハム実験 http://www.excite.co.jp/News/odd/Karapaia_52175132.html における くうきは邪悪さえ正義にしてしまいます ナチス や 日本赤軍 を 生んだのもくうき 今年夏シールズもくうき アイドル信仰もくうき バブルもくうき この不景気もくうき 自民党一党支配もくうき 民主の風もくうき 大阪維新の会もくうき です ただ熱しやすく冷めやすく 反省しまくる というのが 日本のくうきでしょう 戦後70年そういう教育を生んだ 韓国の反日もくうきでしょう ISISもくうきで生んだんだと思います

bragelonne
質問者

お礼

 それだけですか?  ご回答をありがとうございます。  何でもクウキの問題がからんでいる。って見方ですか?  ううーん。  ★ 韓国の反日もくうきでしょう  ☆ これは はっきり言って違っていて 問題は きちがいだと見ます。  要するにウソ ウソ ウソです。  自分の心をあざむいて生きている。  都合のよさのため。自分の得になることのため。手段をえらばない。  まぁ そのようなマチガイやアヤマチを助長するようなフンイキが 社会にもすでに培われている。  つまり クウキの問題も一役買っているでしょうけれど。  いまの問題は このクウキの支配あるいはクウキ教のはびこりに対して どう考えどう振る舞うかです。  それについては 何も無しですか?  日本教とも言うべきクウキの支配は たとえば日本人にもウソつきはいくらでもいますが そのウソ・イツハリについて 誰も何とも言わないということはないはずです。ましてや そのウソのはびこりを促す動きを おおやけにおこなうとは思えません。――そこが ウリナラとはきちんと一線を画して違うところでしょう。  韓国病は 気がちがっているのです。それが直って そのあとクウキの問題がある。こういうふうに見ています。  あとは 社会の一階とそしてお二階との関係――チカラ関係――の問題として クウキが醸し出されることが いちばん大きな要因ではないかと考えます。  要するに国家の統治・その経営者の支配の仕方にかかわるものと考えます。お上には逆らえないといったクウキをつくる。というような意味です。

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     《クウキ》論のこれでもかこれでもかです。  というよりは 先にこの質問を問うてそのあと《 KY 》の主題を問うべきでした。    この問題が広くみなさんの視野に入ることを欲して再度問います。    *  玄関を一歩出ると そこは 運河である。  人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。  まづは ゴンドラを誂えなければならない。  船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。  ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?  クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?  ええっ?  クウキで出来たそれぞれの船。  ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年二千年も昔から仕立て上げられて来たお古である。  お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。     *  では このクウキは 何で出来ているか?  思うに マクロとして アマテラス公民の無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波であり いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出ている。  《主権者たるスサノヲ市民 ‐ 公僕たるアマテラス公民》という二階建てから成る社会が 国家という社会形態の構造として 逆立ちしてしまった。一階よりお二階さんのほうがえらい。それが アマテラス公民の無謬性なる神話であり そういうクウキとしてゴンドラをかたちづくっている。  官僚や政治家は 間違いを侵さないというお仕着せの船であり 実際にかれらが犯した間違いを知っていても これを口に出してはいけないというのが 通行手形の中身である。〔ここのところ この神話は 崩れて来ただろうか?〕  この逆立ちした《アマテラス‐スサノヲ》連関制のもと その上下関係に似せて形作られているのが 《上司‐部下》の関係である。  しばしば送られてくるガミガミ電波は やみくもに発する意識の排泄をともないながら その観念の運河としては・そこを通行せずばなるまいという部下のあたまの中には けっきょくみづからがアース役となって この電波を受け止めざるを得ないことになる。  スルーすることも出来なくないが そうすると このミクロの・ミニ《観念の運河》は いつまで経っても 同じ絵柄しか写しださない。  まじめな人は アース役となって受けとめ 少しでも運河の水をきれいにしようと努める。  あるいは問題は ガミガミ役にかんしてその自分ひとりの昇進のためや地位の保守のためではなく その電波を会社のためという心つもりで発信するときである。  会社がつぶれたら 元も子もないというところから――いかに人間であることを守り人格をとうとぶ人であっても―― その電波の命ずる仕事を引き受けなければならないと考える。そういうゴンドラの歌もある。  一般に 資本主義の問題である。  かくて 観念の運河を クウキなるゴンドラは今日もゆく。    *  現代の哲学を つのります。

  • 観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく

     玄関を一歩出ると そこは 運河である。  人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。  まづは ゴンドラを誂えなければならない。  船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。  ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?  クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?  ええっ?  クウキで出来たそれぞれの船。  ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年二千年も昔から仕立て上げられて来たお古である。  お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。     *  では このクウキは 何で出来ているか?  思うに マクロとして アマテラス公民の無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波であり いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出ている。  《主権者たるスサノヲ市民 ‐ 公僕たるアマテラス公民》という二階建てから成る社会が 国家という社会形態の構造として 逆立ちしてしまった。一階よりお二階さんのほうがえらい。それが アマテラス公民の無謬性なる神話であり そういうクウキとしてゴンドラをかたちづくっている。  官僚や政治家は 間違いを侵さないというお仕着せの船であり 実際にかれらが犯した間違いを知っていても これを口に出してはいけないというのが 通行手形の中身である。〔ここのところ この神話は 崩れて来ただろうか?〕  この逆立ちした《アマテラス‐スサノヲ》連関制のもと その上下関係に似せて形作られているのが 《上司‐部下》の関係である。  しばしば送られてくるガミガミ電波は やみくもに発する意識の排泄をともないながら その観念の運河としては・そこを通行せずばなるまいという部下のあたまの中には けっきょくみづからがアース役となって この電波を受け止めざるを得ないことになる。  スルーすることも出来なくないが そうすると このミクロの・ミニ《観念の運河》は いつまで経っても 同じ絵柄しか写しださない。  まじめな人は アース役となって受けとめ 少しでも運河の水をきれいにしようと努める。  あるいは問題は ガミガミ役にかんしてその自分ひとりの昇進のためや地位の保守のためではなく その電波を会社のためという心つもりで発信するときである。  会社がつぶれたら 元も子もないというところから――いかに人間であることを守り人格をとうとぶ人であっても―― その電波の命ずる仕事を引き受けなければならないと考える。そういうゴンドラの歌もある。  一般に 資本主義の問題である。  かくて 観念の運河を クウキなるゴンドラは今日もゆく。    *  現代の哲学を つのります。  

  • 観念の運河をクウキなるゴンドラは今日もゆく(続)

     玄関を一歩出ると そこは 運河である。  人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。  まづは ゴンドラを誂えなければならない。  船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。  ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?  クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?  ええっ?  クウキで出来たそれぞれの船。  ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年二千年も昔から仕立て上げられて来たお古である。  お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。     *  では このクウキは 何で出来ているか?  思うに マクロとして アマテラス公民の無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波であり いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出ている。  《主権者たるスサノヲ市民 ‐ 公僕たるアマテラス公民》という二階建てから成る社会が 国家という社会形態の構造として 逆立ちしてしまった。一階よりお二階さんのほうがえらい。それが アマテラス公民の無謬性なる神話であり そういうクウキとしてゴンドラをかたちづくっている。  官僚や政治家は 間違いを侵さないというゼッタイとしてのお仕着せの船であり 実際にかれらが犯した間違いを知っていても これを口に出してはいけないというのが 通行手形の中身である。〔ここのところ この神話は 崩れて来ただろうか?〕  この逆立ちした《アマテラス‐スサノヲ》連関制のもと その上下関係に似せて形作られているのが 《上司‐部下》の関係である。(かくのごとき《フラクタル構造》?)  しばしば送られてくるガミガミ電波は やみくもに発する意識の排泄をともないながら その観念の運河としては・そこを通行せずばなるまいという部下のあたまの中には けっきょくみづからがアース役となって この電波を受け止めざるを得ないことになる。  スルーすることも出来なくないが そうすると このミクロの・ミニ《観念の運河》は いつまで経っても 同じ絵柄しか写し出さない。  まじめな人は アース役となって受けとめ 少しでも運河の水をきれいにしようと努める。  あるいは問題は ガミガミ役にかんしてその自分ひとりの昇進のためや地位の保守のためではなく その電波を会社のため省の存続のためという心つもりで発信するときである。  会社がつぶれたら 元も子もないというところから――いかに人間であることを守り人格をとうとぶ人であっても―― その電波の命ずる仕事を引き受けなければならないと考える。そういうゴンドラの歌もある。  一般に 資本主義とそれに従う共同自治の問題である。  かくて 観念の運河を クウキなるゴンドラは今日もゆく。    *  さらに現代の哲学を つのります。修正と展開をどうぞ。

  • ホノ二ニギ(天孫)は アマテラスとスサノヲの子孫か

     非論理的な話です。  いわゆる伝承上の第一代天皇である神武カムヤマトイハレヒコは アマテラスにとって来孫(らいそん)または耳孫(じそん)という五代目の孫です。まご ひまご やしゃご。そしてその子の きしゃご というのだそうです。    高千穂の峰に降臨したのは二代前のホノ二ニギです。これは 孫です。アメニキシクニニキシアマツヒコホノニニギのミコト。    さて このホノ二ニギの父・すなわちアマテラスの子は マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトです。  ところがこのオシホミミは 例のアマテラスとスサノヲとの賭けのようなウケヒにおいて生まれた子です。  アマテラスの髪飾りの珠を取ってスサノヲが噛み 吹き捨てた息吹きの霧に生まれたと言います。  ならば   【Q‐1】 神武天皇とそしてそれからの歴代天皇は アマテラスの子孫であると同時に スサノヲの子孫でもある。  こう言えるか?    ところで むろんアマテラスとスサノヲは じつの姉と弟です。と考えるにつけても  【Q‐2】 この国は あまりにもアマテラス系をとうとび過ぎて来たのではあるまいか?  一般にアマテラス公民が スサノヲ市民に対して デカい顔をし過ぎて来たのではあるまいか?   【Q‐3】 スサノヲ市民たちをもとうとんだ時代は 栄えたのではないか?  いまは あまりにもその格差が――感覚的に言って―― ひどすぎるのではあるまいか?  これでは 先行き とうてい明るいとは言えまい。  【Q‐4】 このような単純な問題なのではないか? いまのわが国の状態は。  あまりにも幻想的な議論であるが――なんのことはない―― そもそも人びとが 幻想的なクウキにしたがって考えたり振る舞ったりしているのではないか?  【Q‐5】 まだなおこのクウキたる共同の観念にしたがうとすれば まづ世の中の主役であるスサノヲ市民らを大切にするしか道はないのではないか?  さもなければ これまでのクウキとして君臨してきた共同観念を打ちこわすことが もとめられなければならない。  こうではないか? いづれにしても スサノヲ市民主権の時代ではないか。それとも スサノヲ市民は 長年しもべとして仕えたかのような歴史の末に へなちょこ人間に成り下がったか。もうどうしようもないか?

  • 《押し籠もり》についての批判です。

     《日本教=クウキ教》の批判です。  《押し籠もり》。  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからが周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

  • 民主制の中にも帝国主義(覇権思想)があり得る。

     § 1 まづ社会形態の類型をとらえます  市民社会(《わたくし》の S 圏=一階)と公民圏(《おほやけ》なるお二階 A 圏)との二階建てから成る国家という社会形態について 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) A圏とS圏との自由対話型:日本社会    (κ) 《民衆( S圏 )は自由暴君》型:アフリカ型社会  (ω) S圏内もA圏内も両圏相互としても 自由競争型:西欧社会    おおざっぱな分類です。《果たして民主主義でよいのか》のたぐいの質問とそのやり取りがつづいていますので それにちなんで何とか問題をほぐしたい。  これまでの大統領が任期を終えたあとには ことごとくと言ってよいほど石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて その大韓民国という社会は (κ)のアフリカ型ではないか?  中華人民共和国は 人民の国とうたっている割りには おほやけなるA圏のもっぱらの公民が暴君としてのさばっている。やはりアフリカ型か?  とは言うものの 現代にあっては おほやけなるA圏の人たちも 《わたくし》なる一人の市民としてそして人間として みんな自由でありその自由が互いにひとしく平等であるとうたった考え方は それとして普及しています。タテマエは 民主制です。  民主制のもとにあっても 日本型も西欧型も 対外的な帝国主義の動きは過去となりつつあるとしても 対内的な覇権主義が――じつはそれは過去の動きであったものであると同時に 現在にも残っているし―― はたらいている。という問題を取り上げたい。  § 2 民主制にひそむ覇権思想としてのアマアガリ・シンドロームについて  まづ (α)日本型と(ω)西欧型とにかんたんに捉えた説明をあたえて行きます。  (α) 対話型の社会形態は 国ゆづり型である。  (α-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  どのようにクニユヅリが成ったか?  S(スサノヲ)市民の中から出た公民 A (アマテラス)らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげた。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定し制約するような檻に住まわせたとも言える。これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (α-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群なる心理――が絡んでくると スサノヲ市民どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  すなわちこれらよき基礎とあしき部分とをふくんだところの《 S - A 》の対話型である。  そして 端的に言って アマアガリ・シンドロームは 覇権思想である。もっぱら《上から目線》によって成り立っている。  (ω) A と S とが《競争型》なるその《 A - S 》連関制  (ω-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A(おほやけ) = S(わたくし) 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  国ゆづりというよりは 国盗り・天下取り型になる。  (ω-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの社会的な意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているようでもある。  § 3  (α)および(ω) 両者を比較対照します   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向ではないだろうか。《法律》は その既成事実を保守するためにつくられる傾向があるのだろうか?  日本市民は――その昔 オホクニヌシとその息子のひとりは―― これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら 相手を神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは国の共同自治の権限を返せとは言えない。言わない。おとなしい。そして ただそれだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群が覇権思想となったヰルス)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。《主戦論》が優位に立つ場合もある。欧米主導のグローバル化に感染したゆえなのかどうか。  § 4  さらに別の A - S 連関制 とはどういう現実か  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民 S らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:《 S (=じつは 絶対的 A ) ∽ A 》連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。  対話型(α)と見た日本社会の《伝統》は そして 自由競争型(ω)と捉えた西欧社会とともに この民衆暴君型(κ)と見られるような社会と国家の動きに対して どのように対処して行くのがよいであろうか。  いったい何が問題なのか? 何が悲しくて何を問題としているのか?  お考えをお寄せください。