KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか

解決済みの質問

KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか

KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか

 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。
 KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。
 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。

 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としての空気も 上昇気流となること請け合いであるようだ。

 たぶん その場合にも KY としての空気も読むことだけは読んだほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。

 ご見解とご批判をたまわりたく。

投稿日時 - 2010-08-18 08:05:06

QNo.6117420

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

周りの空気を読まないという意味でのKYに限定して回答しますと、そのような人が今後の日本を作ってゆくだろうなとおもいます。つまり十分な共感能力を持ちながらしかし確立した自分をもって、周りの状況に流されない人と言う意味でのKYに期待しています。

現在は戦前、戦中の非国民という社会を崩壊に導いた呪文から解放されて、あるいはわすれて、はたまた解放されてきたような状況がうまれてきたのではないかと思います。つまり日本は戦前の全体主義的な状況を許容するような時代に先祖帰りをしようとしているのではないかと、すこし恐怖を感じるところです。

投稿日時 - 2010-08-18 22:39:27

お礼

 シンシナティさん こんばんは。見解をまったく同じくしますとまづお伝えします。ご回答をありがとうございます。

 ★ ・・・つまり十分な共感能力を持ちながらしかし確立した自分をもって、周りの状況に流されない人と言う意味でのKYに期待しています。
 ☆ いいですね。《十分な共感能力を持ちながらしかし確立した自分をもって》ですね。つまり空気を読めないわけではない。読めている。けれども読んだ結果分かったことは それがいかに妥当性の少ない内容をしか持っていないことか。
 前例にしたがう〔権限保持者の意向に追随する〕ことを一番に考えるであるとか。
 あるいはたとえば《和を以って貴しと為す》という文句をつぶやけばそのつぶやいた人が その意見をも含めて とうといと見なされてしまうであるとか。
 どこかから――つまりたとえばマスメディアから――右向け右!の 号令がかかれば 身も心もそれについて行くという習性があり これに従うであるとか。
 このような《空気》を読めということほど おかしな話はありません。

 ★ 現在は戦前、戦中の非国民という社会を崩壊に導いた呪文から解放されて、あるいはわすれて、はたまた解放されてきたような状況がうまれてきたのではないかと思います。
 ☆ そのとおりです。とともに いままだ《非国民》の大合唱は ひとりの旗振り役の号令とともに 起こり得ます。いまちょうどわたしは これを受けています。
 ★ つまり日本は戦前の全体主義的な状況を許容するような時代に先祖帰りをしようとしているのではないかと、すこし恐怖を感じるところです。
 ☆ 《恐怖を感じる》というよりわたしは 滑稽さを感じます。恐怖を感じるにつれ こっけいさが現われます。おそらく KY を異端分子と見る人びとにあっては いまこの日本社会にとっての難局を打開するには 《先祖がえり》しか方法はないとでも思っているのでしょうか? 哲学の貧困!!

 ★ 周りの空気を〔* 読めても 積極的な方針として〕読まないという意味でのKYに限定して回答しますと、そのような人が今後の日本を作ってゆくだろうなとおもいます。
 ☆ とわたくしも思います。

投稿日時 - 2010-08-18 23:38:39

ANo.5

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ベストアンサー以外の回答(4件中 1~4件目)

ANo.4

 すみません。「日本人は人間にはならないのでしょうか?」にも回答をしましたが、「空気を読む」も今の自身のテーマなので、ちょっと参戦?をします。

 たとえばモンスターペアレントの「給食費未払い」問題もどうして起きるのか、ちょっと考えてみたんですが、昔だったら、給食費なんて払わないなどと学校に言ったら、すぐさまご近所にうわさが広まって、「あそこのご家庭、払ってないらしいわよ」とその家中が恥をかかされるような装置、すなわち「世間の目」が働きました。いわゆる共同体のまわりの目だと思うのですが、それが崩れたことによって、「自己中心←世間の目」という強制力、圧迫感がなくなり、「自己中心→世間」というモンスター、クレーマーが噴出。

 ただこのままだと、周りが迷惑千番のため、今度は世間側が「空気を読め」と自己中本人に当然の要求。このときに本来は「自己→周りの空気を読む」という本人の主体で行えばいいことなのですが、「空気を読め」が大きな要求のように感じて、「自己←周りの空気」という強制力プレッシャーの状態がそこかしこで起きているようです。

 まとめると、やっと世間の目という窮屈さが取れたのだから、自己中から始まり→自分で周りの空気を読み、「集団の中の自分とは?」を判断する能力を養う→周りと協調しながらも自己表出する社会性を持つ とかに進展していけばいいと思います。(もちろん読めない人はしょうがないですが、読まない開き直りはどうだか・・・)

 ただ、その自然の流れのどこかが日本の社会においては支障をきたしていて、「空気を読めない奴はハブかれる」症候群が横行している様にも感じます。やっぱり家庭問題でしょうか?

投稿日時 - 2010-08-18 22:08:18

お礼

 ノウバウンドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★(要約) コミュニケーション論――これは おもに成人への通過儀礼をどのように経て行くかの問題を中心にしていました――において その成人化がうまく行かないと のっぺらぼうになる。つまり 意思疎通をうまくできないようになる。でも たとえ遅れたとしても なお通過儀礼を繰り返すかのごとく のっぺらぼうながら ネット荒らしだとかモンスターぶりを発揮するだとかして自己表出しようとする。
 ☆ そして今度は
 ★(要約) 自己中の問題と空気を読む・読めないの問題との絡まり
 ☆ のようですね。

 次の事柄は 時代の変化を象徴するひとつの事態なのでしょうね。
 ★ 昔だったら、・・・「世間の目」が働きました。いわゆる共同体のまわりの目だと思うのですが、それが崩れた
 ★ やっと世間の目という窮屈さが取れた
 ☆ なるほど。そちらの時代思潮の変化から切り込んでいくのですね。つまり わたしの場合は この《世間の目》としての《空気》が 昔からの価値観を保ちつつなお強力にして現実に居残っている。ゆえにそれは すでにあたかも蝉の抜け殻のようなものでしかないのだから その空気に対しては読まない(つまり読んでいるけれどそれに 従わない)という KY の現象が起きて来ているのだと見たわけです。
 すなわち
 ○ 昔からの世間の目という空気が居残っている→
 ○ それは有名無実なのだから 相手にしづらい→
 ○ つまり KY という行動に出る。 / あるいはまた
 ○ 自己中心的に――ちなみに その昔 漱石はこの問題にあたって《自己本位》という考え方を掲げたと思います―― 或る種の仕方で《オタク》のようにして 自分にとって大事なことがらに集中して行く。
 (漱石の自己本位は 相手や世間をないがしろにするのではなくしかも 個人主義のような思想だと思います。さらに則天去私を目指しますが それは実践途上だったのだと考えます)。

 ☆ これに対して たぶんノウバウンドさんは 自己中心的な思想や KY の思想について それぞれ悪い性質として明らかに欠陥を持つという場合をおもに取り上げているかも分かりません。わたしは 旧い時代の思潮に抗する側面を それも故意に大きく 取り上げようとしているようです。

 そのような二つの側面からのアプローチの結果 たとえば次のような方向が ひとつの結論としてみちびかれて来ます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 まとめると、やっと世間の目という窮屈さが取れたのだから、自己中から始まり→自分で周りの空気を読み、「集団の中の自分とは?」を判断する能力を養う→周りと協調しながらも自己表出する社会性を持つ とかに進展していけばいいと思います。(もちろん読めない人はしょうがないですが、読まない開き直りはどうだか・・・)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについて わたしが思うところとしての違いは こうです。
 もはやすでに《空気》というものは 要らないと捉えてみること。ここから 出発してはどうか。
 ○ 自己中ないし KY から始まり→
 ○ もし周りに何らかの空気が作られていたとすれば これを読みとりつつも その流れをまづは個人としては かわす(いなす)。かわしつつ 自分の意見を述べ続ける。→
 ○ 《集団の中の自分》ではありつつ もはや集団としても 個人一人ひとりを大切にするという思潮を作りだす。これは 従来の空気に抗するあたらしい流れであるが そこに《空気》は要らない。なぜかと言って それこそ空気のようなものとしての情況環境であるのが 民主制なのだから。→
 ○ ★ 《周りと協調しながらも自己表出する社会性を持つ とかに進展していけばいいと思います》。――☆ これについては ひとつの目標としての命題であって 見解を同じくします。《協調しつつ おのれの自己表出をも生かす》というそれぞれ《わたし》にとっての社会性 これが実現するときには もはやいわゆる空気は 要らないし なくなっている。

 そうして いま現在の情況としては
 ★ ただ、その自然の流れのどこかが日本の社会においては支障をきたしていて、「空気を読めない奴はハブかれる」症候群が横行している様にも感じます。やっぱり家庭問題でしょうか?
 ☆ といった状態であり なかなか楽観しづらいところに来ている。《家庭問題》は 苦手なのでなかなかいい評言を持ち得ません。だれかおしえてください。
 KY 排除症候群は それに罹って自分たちの敵を排除しようとする側こそが 自己チューであり 歴史を読めないという意味で KY であると思いますね。勇み足にて。

投稿日時 - 2010-08-18 23:20:10

ANo.3

他人の気持ちを分かる、相手の立場を理解する、自己を客観視できる
のは、民主主義がどうこういう以前に、社会的に生きる上で重要です。

投稿日時 - 2010-08-18 15:33:03

補足

 ★ 他人の気持ちを分かる、相手の立場を理解する、
 ☆ なんでこのようなことが 《空気を読む・読める》ことなのか。
 これらは 昔から《思いやり》がある・無いという問題である。

 ★ 自己を客観視できる
 ☆ に到っては 《空気を読む・読まない》な問題なものか? まったく的をはずしている。自己の確立の問題である。

 と簡単に批判して済ませ得たようだ。
 思いやりは 思考をにぶくさせる。

投稿日時 - 2010-08-18 23:45:13

お礼

 サイテックスさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 KY の定義をNo.2のやり取りで行なっておきました。
 ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 言論をとおしてというかたちを超えて おもにヨリ高い権限を有する者の――必ずしもまだ発言されていないが噂で流されているところの――意向をすでに汲み取って 多くの参加者の意向がそれになびいているとき そのような同調という風潮を意に介さない傾向。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ けれども この定義がなくても 趣旨説明から問い求めの焦点などは分かるのではないかとは考えます。つまり
 ★ 他人の気持ちを分かる、相手の立場を理解する
 ☆ という要素は KY という主題にはかかわらないか もしくは主要な問題ではないという意味がです。まづ 最初に次のように命題を掲げているからです。
 ☆☆ (趣旨説明) 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。
 ☆ いいでしょうか。そのあと 次のように続きます。
 ☆☆ (同上) KY というときの空気は このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。
 ☆ すなわち
 ★ 他人の気持ち
 ☆ は ここで取り上げる《空気》のことではありません。(例外は そのような気持ちが 上の定義における《会議》において《分かる必要があって その気持ちにも考慮を払わなければならない場合》です。けれども それなら そのことをもその会議で言葉にして互いに認め合って 議論をすすめ合意にたどりつくというかたちを取ればよいはずです)。
 ★ 相手の立場を理解する
 ☆ このことが どのように KY という現象にかかわっているでしょう? まさか社会的な身分が上のひとを相手とするときには 下という位置に立った側がその《相手の立ち場を理解する。つまり 尊重しそれに逆らわない》といったことを提唱しているのではないでしょうね?
 おのれの立ち場は 互いに自分で言葉を費やして説明しあえばよいのです。
 
 仮りにこの質疑応答が 《会議》だとしますと では《相手の立ち場を理解する》とは いったいどういうことを言うのか? 回答者としてわざわざ手間ひまをかけて考え投稿したのだから その立ち場を理解せよと言うんぢゃないでしょうね? それが出来ないのは KY だという回答内容なのでしょうか?
 要するに 回答の内容はどうであれ 回答者という立ち場は 絶対なのだとでも唱えておられますか?
 KY の扱い方から行けば どうもそのような思想の持ち主でいらっしゃる。

 ★ 自己を客観視できる
 ☆ できていないでしょう? その思想をつらぬくのであれば。
 
 このように民主制をどうこう言うことが 社会的に生きる上で重要なのです。どうでしょう。

投稿日時 - 2010-08-18 16:34:24

KYの定義付けが必要かもしれません。KYは、アスペの俗称ですよね。ご存知ですか?

投稿日時 - 2010-08-18 14:43:42

お礼

 オヤズアカナさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ KY の定義付けが必要かもしれません。
 ☆ なるほど。なぜなら
 ★ KY は、アスペの俗称ですよね。
 ☆ であるゆえに。疾患の問題に入るおそれがあるからと。

 ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 言論をとおしてというかたちを超えて おもにヨリ高い権限を有する者の――必ずしもまだ発言されていないが噂で流されているところの――意向をすでに汲み取って 多くの参加者の意向がそれになびいているとき そのような同調という風潮を意に介さない傾向。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そこで《そのような同調の流れを認識する》ことはしておくことがのぞましい。つまり《空気を読むことは読んでおくが 同調はしない》ことが のぞましい KY である。と考えます。
 というより要するに 対話や議論をきちんと言葉で説明しあってすすめていくなら 問題はないわけです。
 そういう問い求めになっています。

 なお アスぺにつきましては
 【Q:アスペルガーとアマテラス語方言】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5507123.html
 にて取り上げております。
 ☆☆ (上の質問における趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そのような〔* =《言葉を額面どおりに受け取る》という特徴によって起きるところの〕意思疎通の障害やそれにともなう交通事故を無くすためには どうしたらよいか。
 これを もしこの特徴に限るなら アスペルガーが症候群であるなどとは ちゃんちゃらおかしいと思うという立ち場から 考えてみたい。

 なぜなら 二枚舌――社会的な知恵や方便である場合もあろうかと思うが 一般に後味がわるく 社会的に弊害があると思われるような種類の二枚舌――を使うのは あくまでもっぱらの公民であるアマテラス族であって そのアマテラス語方言においてこそ 悪質なものがはびこっている。つまり アマテラス語方言の利用者にこそ 症候群があると診(み)られなければならない。

 これは まなざしをやおら上から向けて来てひとを見降ろすようにして見るアマテラスお二階さんが 虫の居所がわるいのか 怒ったり喚き散らしたりあるいはいぢの悪い要求をつきつけたりとおのれの意識の排泄をおこなって それをアース役として受けとめるものとの間に繰り広げる二枚舌合戦であって このとき弱い者の側だけが 病いに落ち入ったと診断するなどとは 《ゆるせない》。つまり――ゆえに―― 赦す・赦さないを超えて 事態の精確な把握と分析をなしておきたい。

 つまり問いたいことは アスペルガー症候群という一種の疾病のレッテルを貼りつけようとするのは みづからのその症状を隠すための社会的戦術であるのではないか。
 あたかも敵は本能寺というごとく二枚舌をあやつるこのアマアガリ症候群に根ざすと思われるアマテラス語方言現象 これじたいが 或る種のアスペルガー症状なのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《二枚舌》問題は いまこの質問では 《会議において言葉で交わされて来た議論の内容とは微妙に違うところの空気》と《それとは内容が異なる別の議論》との衝突を見ようとしています。

 従いまして KY が発生する情況というのは 《その読めないところの空気が ほんとうは必ずしも妥当性のある議論だとは見られていない。にもかかわらず誰かの意向によって通されようとしている》というものであるとなります。そのときに KY をつらぬくことは 草の根民主制にとって確かな第一歩であるのではないか? こういう問い求めです。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-08-18 16:11:50

ANo.1

難しいですが・・・

>KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか

むしろ逆かと。

KYを淘汰しようとする風潮はむしろ独裁主義的なにおいがします。

なぜなら民主主義であれば議論が起こるはずであるが、KYの空気中ではそれがないから。

もとより決まった価値感の単一のものさしで雰囲気の「善悪」を定め、それからはみ出したものをKYといういかにも公衆の敵のように扱う。

日本特有の議論を避ける、事なかれ主義のような風潮によるものかと思う。

たしかに、民主主義において「多数決」が多用されるという点においては民主主義的かもしれないが、それは議論を経てから用いられるものであり、最初に議論すら許さない「空気」という圧力の下では、民主主義は正常に機能しないのではないでしょうか。

投稿日時 - 2010-08-18 14:17:25

お礼

 こんにちは フックンさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ むしろ逆かと。
 ☆ ええっ? なぜって
 ★ KYを淘汰しようとする風潮はむしろ独裁主義的なにおいがします。
 ☆ という同じ方向で 《 KY 〔の出現〕とは 草の根民主制への第一歩ではないか》と問題提起しています。すなわち
 ☆☆ (趣旨説明) KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。
 ☆ です。つまり同じ方向を向いたご見解とお受け取りしました。

 すなわち――確認してまいりますが――
 ★ もとより決まった価値感の単一のものさしで雰囲気の「善悪」を定め、それからはみ出したものをKYといういかにも公衆の敵のように扱う。
 ☆☆ (趣旨説明)  いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。
 ☆ たしかにひとつの党派の《決まった価値観で決まった物指しで雰囲気の善悪を定め》 その空気で人びとの判断に足かせをはめる。《それからはみ出した者を KY という名で 公衆の敵のように扱う》。
 よって
 ☆☆ (同上) 民主制には わざわざ空気を読む必要はなく 空気をかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。
 ☆ ですよね。

 次のご投稿(回答No.2)で 違った見解が出されています。対話をつづけます。

投稿日時 - 2010-08-18 15:42:21

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