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アジアではねじが発明されなかったのでしょうか

種子島に鉄砲が伝来したとき、ねじを知らなかった日本の職人は苦労したというようなはなしを聞いたことがありますが、例えば中国でもねじは使われていなかったのでしょうか。

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回答No.1

まあそうですね。よく「中国が自力で発明出来なかったモノはネジだけ」と言われます。中国にみならず、日本や他の周辺アジア地域の古王国や文明などでも、文献や遺跡などから「ネジ」が見つかった事はありません。アジアで最初にネジが伝わったのは、1543年の日本の種子島って事になるのかな?いずれにせよ16世紀になってからです。 一方、西欧ではかなり古い時代から既にネジの原型が登場しており。その起源は未だ定かではありませんが、少なくとも紀元前200年頃にはネジの様な機構を持った機械、或いは部品の様なモノが記録に残っています。

kaitara1
質問者

お礼

紙など中国から西洋に伝わったものがありますから逆法でねじも中国へ伝わっていてもよかったと思います。ねじの有無は象徴的で、ねじによって西洋がアジアを支配するようになったようにも思います。

その他の回答 (4)

  • tak7171
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回答No.5

国友村と種子島に直接的な関わりはなかったかと思います。 堺商人と根来寺の僧は種子島で鉄砲の製法を学んだでしょうが、国友村の場合は足利将軍から実物を貸し与えられて複製を命じられています。愚考するに、堺商人は複製した鉄砲をサンプルとして幕府に献上し、独占的大量購入を期待したのでしょうが、あまりに高価だったので、幕府では自前で作ろうと将軍の息のかかった鍛冶集団に複製を命じたのではないかと思います。そういう事情では堺に製法を聞く訳には行きませんね。では、国友村から種子島に学びに行ったか・・・というと、そういう事実を記した資料がなく、「国友鉄砲記」では独自に穿螺技術を工夫したとあったように記憶しています。

kaitara1
質問者

お礼

摸倣というのは能力がないとできないといいますが刀の鍛造で蓄えられていた技術がものを言ったのですね。日本でも琵琶などの弦を張る部分でも単に摩擦を利用するだけでねじの痕跡もないですね。尤もバイオリンはねじではないですが、ギターはねじですね。

  • tak7171
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回答No.4

厳密には無から発明したのではないのですが・・・ 近江国友村では足利将軍から鉄砲を借り受け、分解してネジを見て、独自に製法を工夫したそうです。なんでも刃の欠けた刃物でダイコンを刳り貫いて思いついたとか・・・ 「国友鉄砲記」に記載されてたような気がします^^;

kaitara1
質問者

お礼

種子島との関係はなかったのでしょうか。

  • jkpawapuro
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回答No.3

まずネジは基本的には鋳造ではつくれっません、ネジ山にすごく強度が求められるのにあの細い構造に鋳鉄を流し込むのは至難の業、そのうえ鋳造は細部の強度が低いです。 よってネジは基本的には掘削、理想は旋盤機械で削るのがいいです。 この先は私の憶測なのですが、歯車・滑車・回転部品といった機械技術の発達は産業革命前から非常にヨーロッパが得意な分野です。水車や風車をふんだんに使えるヨーロッパの気候風土が東洋と違い機械技術全般を発展させ、その一環としてネジの分野も進んでいたのだと思います。偏西風が常に吹く環境で、小麦を主食とし常に製粉動力を求めている。風は吹かない、吹いたと思ったら強烈な台風、コメはちょっと精米すれば苦労なく簡単に美味しく食べれる、この辺の背景が東洋と基本的に違うんでしょう。

kaitara1
質問者

お礼

必要は発明の母が当てはまる一例ですね。

回答No.2

そうです 当時の日本をはじめアジアにはねじを鋳造する技術はありませんでした ですから 種子島を国産化するときに もう一度ポルトガルの商人が来るのを待ってねじの作り方を教わり それが堺で確立して鉄砲の国産化が可能となったのです

kaitara1
質問者

お礼

それにしてもよくポルトガルの商人が技術を教えたものですね。もっとも当時のヨーロッパではねじに関する技術は特別の秘密ではなかったのでしょうか。グーテンベルグの印刷機はぶどう汁をとる道具の転用と聞いたことがありますが、日本ではてこが限度だったのでしょうか。轆轤はあったと思いますが…

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