坊主の講話:無であり空、有難い戒名を手に入れるために

このQ&Aのポイント
  • ある坊主が説く、色即是空空即是色。この世は無であり空であるという言葉の真意について考えます。
  • 坊主は人々に対し、この世を実在と思い込むことは間違いであり、実際にはあの世こそ真の存在だと説きます。
  • そのため、人間は立派な戒名を手に入れることが最も重要であり、お金を惜しんではいけないと主張しています。
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ある坊主の講話

  ある坊主が言ってました。 「色即是空空即是色、この世は無であり空である。 あなた方があると思っているこの世は実は無いのです。 だからあなた方が有ると思ってせっせと貯めこんでいる銀行預金とか、へそくりの類は実は無に等しいのです。 しかし本当に有るのはあの世の世界です。 そのあの世の世界で優雅に暮らすことが人にとって最も有難いことなのです。 そしてそのあの世で優雅に暮らすために必要なものが戒名なのです。 だから生きている人間にとって立派な戒名を手に入れることが他の何よりも大事なことなのです。 その有難い戒名を手に入れるのにお金を惜しんではいけません。 所詮あなた方の貯め込んでいるお金は無なのです。 無を手放すことにより有難い戒名を手に入れることが出来るのです。 いくら出せとは申しません。 とにかく持ち金全てを投じて立派な戒名を手に入れなさい。 そーすればあの世に行って悠々自適の生活が出来るのです。 ・・・・・・・ ・・・・・・・ 」 坊主はこのよーな講話を数十人のじーさん、ばーさんを前にして長々と3時間ほど繰り返してたそーである。 色即是空空即是色、果たしてこの世は無であり空なのでしょうか。  

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.6

>果たしてこの世は無であり空なのでしょうか。 この世の本質を問うよりも、もっと重要なことは、この世に滞在できる時間があとどれほど残っているか、ということじゃないかな。 若い時はあと80年もある、あと60年もある、あと40年もある、などと考え、その残り時間が多いので、あたかも有限では無い様な錯誤をする。 でも、人生も頂点を過ぎて、残された時間が後20年、後10年、いや、10年も残っていないぞ、ってことに覚醒することからこの世で大切なものは何か、明確にわかるようになるんじゃ。 ワシの場合は、この世で大切なものは 快食 快便 快眠 であるということを悟った。 それ以外、坊主の宗派や、袈裟の色、寺院の大きさ、檀家の多さなどは、この世におけるプライオリティーの遥か下の方にあるのじゃ。 だから、坊主の説教など聞く時間が無い。 まして肉食妻帯畜髪坊主など相手にするのは時間の無駄じゃ。 戒名が欲しいと思うなら、自分で戒名をつけとけばよい。 残された人生の時間をこの世で過ごすのであるから、 残された日々を、快食、快便、快眠で過ごすことが出来る様、あらゆる努力を傾注し、もてる経営資源もそちら方向に集中配置しなくてはいかんと考えています。 この世に生を受けた僥倖に感謝し、残された時間を大切に生きることじゃ。

hitonomichi35
質問者

お礼

>戒名が欲しいと思うなら、自分で戒名をつけとけばよい。 わしの戒名は既に決まっておりますぞ。 モクゾーさんだけに、密かに教えてあげましょう。 「有瑠慶院人之道大居士」 時価1億円くらいする立派な戒名でごやんす。        

その他の回答 (11)

回答No.12

とりあえずビットコインの登録をしてみた。 それはともかく、インド哲学科の教員までもが 揶揄してくるとは思わなかった。 写本は「写し」だから「オリジナル」というのは気になるけれど どうせ私への嫌みだろうから。 まあ、是非とも誰でも読めるように写本を画像データにでもして 無料で公開してほしいけれどね。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

こんばんは。 >「そのあの世の世界で優雅に暮らすことが人にとって最も有難いことなのです。」 「男一人に、姉三人。空調完備の自室に、芳しいフルーツがてんこもり。 酒は、中身は勿論、容れ物までも豪奢を極めた逸品・・・」

回答No.10

>葬式のときに坊主がそれを受け入れるかどーかってゆー問題が残っており アルケー神のエバンジェリストともあろうお方が自分の葬式の心配をして居るのかい(笑) まあ、子孫に迷惑を掛け無い方法としては、菩提寺を無視して、公共墓地の一区画を購入して、そこに埋葬してもらうことだな。

回答No.9

木造院殿食便眠大居士

hitonomichi35
質問者

お礼

  木造さんに一言。 木造院殿食便眠大居士はなかなか立派な戒名です。 ただ生きているうちは自分で戒名をつけるのは勝手だけど、問題は葬式のときに坊主がそれを受け入れるかどーかってゆー問題が残っております。 もしや戒名料の支払いが無いとき、あるいは足りなければ、木造院殿食便眠水子もしくは木造院殿食便眠畜生などと戒名されるかも知れんのです。 この辺りのことよくよく考えたほーがよいのではないでしょうか。  

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8875)
回答No.8

戒名を持ったらあの世でも死ななければならないのだから、この説法は完全に破綻してしています。ジーサンバーさんはこの坊主よりよほどしっかりしているのでは…

回答No.7

もし無だと思うなら、そこには無を感じる何ものかが 存在する訳で、真の無ではない。 むしろ、ある形式で、無とは感じられない中に、真の 無はある。 「ある形式」とは、存在(空間軸)とそれを感じる心 (時間軸)の相補分化に基づくものとして、だ(相補的 不確定性=不確定性原理を伴う)。

回答No.5

良い思いをしたいならお金を吐き出しなさい、その代わり腹も膨れずこの世では全く役に立たない名前を付けてあげますとは体のいい金儲け方法ですね。 どの宗教もそうですがある意味洗脳教育ですね。 どの宗教でも格の高い偉い人は良い暮らしをしています。 多くの信者を持ちながら食べる物も食べず信者より質素な生活をしている人は居ませんね。 教えを広め人々を救いたいならお金は要らないはず。 この世が無なのに坊主自身が金を要求しているのは自己矛盾してますな。 戒名を付ける坊主が一番の煩悩の持ち主なのかもしれません。

  • gunflict
  • ベストアンサー率20% (8/40)
回答No.4

仏教でいう無や空というのはそれこそカネや肩書きにとらわれるなってことなので、戒名を手に入れていい生活しようって真逆な説話ですね 寺の維持にカネが必要なのでウチに税金のかからない方法で払ってくださいと言いたかったんでしょう まぁ無常感というのはそれこそ死ぬ目に合って実感できるものなので、延暦寺の千日回峰行なんて方法があるわけです なまじその死ぬ目に生き残ると食うだけでもカネがかかるわけで、死んだことの無い人にあの世のことをあれこれ説明されてそのために支払ういわれもないもんですな

  • catpow
  • ベストアンサー率24% (620/2527)
回答No.3

すでにある回答とおなじですけど、せっかく書いたので投稿します。 その坊主の言うことは、途中までは、ある意味で正しいといえます。 仏陀は、「この世のことに執着するな、そうしないと、本来の世界である「あの世」への旅立ちがスムーズにいかなくなる」 という意味の説法しましたからね。 でも、その論理を押し通せば、大金を払って、どんなに立派な戒名をもらっても、銀行預金やへそくりが無に等しいように、戒名も無になるのです。 そして、三途の川を渡るとき、この世で執着したものを落とすわけですけど、たぶん、「りっぱな戒名をもらった」と思っていたら、お金や名刺といっしょに戒名も三途の川の底に沈むことでしょうね。 当然ながら、あの世での評価はゼロです。 >>色即是空空即是色、果たしてこの世は無であり空なのでしょうか。 まあ、初期の仏陀は、執着を捨てよという教えを広めるために「この世は無である」という説法をしましたが、これは、人々にショックを与えるための方便的な意味でもあったと思います。 仏陀が悟りを得たのは35~36歳ころといわれています。そのころの「悟り」よりも、年月が経過したあとの「悟り」の方が高い段階になるのは当然でしょう。 だから、その後の教えでは、その極端な言い方から「この世にも存在価値はある」という考え方に変わっていったといいます。 とはいえ、存在価値を認める「この世」ではあっても、この世は修行の場であり、いわば学校であるのには変わりありません。 どんなに素晴らしい学歴があっても、社会に出て長く働けば、学歴が無価値になるのと同じってことですね。 「釈迦の本心/大川隆法」の「空の思想」には、「諸行無常という言葉を単なる厭世観としてとらえてはならない」 「実在界の視点で世の中を見ることができるようになった人間には、それまで価値あるものと思い、生き生きとして感じられていたものが、色あせて見える瞬間がある」 と書かれています。 若いうちは、あれほど夢中になったアイドルの魅力が、年齢を経ると彼女たちアイドルに無関心になるのに似ているでしょうか?

hitonomichi35
質問者

お礼

この坊主の講話から言えることは確かにこの世は諸行無常ってことです。  

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.2

 まあ、戒名も無ですからね、僕はありがたいお話は半分寝て聞くことにしています。

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