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《神は死んだ》ったってイエスはすでに死んでんぢゃん

 何をか言わんや。  ことさらに言わなければならないというのは いったい阿呆でないなら どういう理由がありますか?

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回答No.6

bragelonneさん おはようございます。 こんな、くだらない質問して、IT mediaで遊んでいる暇があったら、bragelonne哲学完成に精進する事をお薦めします。 キリスト教では、先に何人もの方々が、回答してますが、「キリストの復活」というものを信じ、また、それゆえキリストは「人の子イエス」ではなく、「神の子キリスト」たる所以です。 聖書の福音書の聖句を2つばかり 「私が命のパンである。私のもとにくる者は決して飢えることなく、私を信じるものは、決して渇くことがない。」 ヨハネによる福音書 6章 35節 「この水を飲むものは、誰でもまた渇く、しかし私の与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 ヨハネによる福音書4章13~14節 ここの「永遠の命に至る泉」という言葉に、聖書とキリストを信じるなら、この世における限りのある、時間ではなく、永遠という時間があり、イエスからキリストになった神は生きている。 ところで、bragelonneさんは神学者で聖人のアウグスティヌスを哲学の土台にしているようですが、本当にアウグスティヌスの著作を勉強して読んでいるのですか? アウグスティヌスの「キリスト教の教え 第2巻 第7章」の(神に至る)上昇の7段階を要約して書きます。 第1段階 神を畏れること 第2段階 敬虔 第3段階 知識(隣人を愛することの認識) 第4段階 正義 第5段階 あわれみ(隣人愛の自己完成) 第6段階 目(心)そのものを清める 第7段階 知恵 世の中には第3段階で止まっている人がいかに多いことかと思いますし、また第5段階に至れば十分だと私は思いますが、アウグスティヌスは「知恵」に至るまで、更なる要求をしている。 現在、図書館で出会い、私に教授していただいている神学科の名誉教授に聞いたら、この7段階の「知恵」とは「人の知恵」を越えた「神の知恵」と解釈してもいいのではとのこと。 孔子の教えのようで、私は40にして迷わずですが、bragelonneさんは、どこまで達してますか? 第7段階までいかないと、bragelonne哲学を本にしても、再生紙になり、トイレットペーパーとして、皆さんが喜んで尻を拭くことであろう。 では、私も第7段階を目指し修行に戻ります。

bragelonne
質問者

お礼

 あめんほてぷクン お早う。  No.5のすとみむ( stmim )氏へのこたえにも書きましたが いまだにウリナラぢゃなかった うりが○○なる文献学者は このフレーズを持ち出してくるのです。  オフザケが過ぎます。アルケー問題と同じです。存在性の問題と同じです。  放っておくという方針もあり得ますが この哲学カテの場という目の前でタワゴトが繰り広げられているのですから どうしたらよいか。思案ものでしょう。  ★ それゆえキリストは「人の子イエス」ではなく、「神の子キリスト」たる所以です。  ☆ ちょとちがう。ナザレのひとりの男であるイエスは ふつうの人間であると同時に キリストと呼ばれる神の子でありまたみづからが神である。こういう想定です。  ★ ここの「永遠の命に至る泉」という言葉に、聖書とキリストを信じるなら、この世における限りのある、時間ではなく、永遠という時間があり、イエスからキリストになった神は生きている。  ☆ ちょっと いや だいぶ ちがう。  信じるのは イエス・キリストが指し示した普遍神です。ユダヤのための神であったヤハヱーが狭い範囲を持つみづからを棄て この広い普遍神へと みづからがみづからを――イエス・キリストの歴史世界への登場をつうじて――揚げたのです。  《永遠》は 時間ではありませんよ。  神は生きているなどというのは 主観のつぶやきにしか過ぎません。むやみに言うものぢゃありません。  そういう信仰の動態をあゆむなら 汲めども尽きぬ泉に湧く水のごとく いのちがいのちに成って――おのが寿命を――生きる。  病気になるなら それとして意味のある経過をたどる。  そしてすべては 身の周りの人びとに対して おのれは一歩(あるいは 一秒)ゆづっている。(またそれゆえ 病気になる場合がある)。  これでも わたしも つねに受け身であって そのぶん相手に対して ゆづっているんですよ。口がわるいだけ。いぢわる好きなだけ。  ★ bragelonneさんは、どこまで達してますか?  ☆ ほぼ誰に対してもその相手に合わせる知恵 の段階にまで達しています。  ただし アルケーは羊の囲いの外にいます。存在性は 思い込みが激しい。その溶けるのを待つ時間が要ります。  うりが○○は 呆けているから 何とも言えません。  あなたは へんな理性が――たのもしい知性とやぶにらみしかしない知性とが――入り交じっていて 往生します。  だけど どの段階にあるか。などとは 人間の考えること。すべては 湧き出る水のハタラキです。  その時その場その相手に応じて 必然的にして必要な知恵が あたえられます。   ハカラヒ無きを以って 自然となす。義無きを以って 義とす。  即身成仏ないし即得往生といった言い回しは 神学にはないかも知れませんが まったく同じであって しかもその知恵のめぐりは すでに全部を体得したとかわきまえているとかという風に捉える必要はありません。  なぜなら そのつど必要で有益な知恵は 湧き出づるごとく あたえられるものです。自由自在なのです。融通無碍です。  それでなくては 普遍神の信仰とは言えません。教会もオシへも関係ありません。  もっと言えば その情況において必要な知恵やあるいは知識さえもが じつは そこにおける当事者である一人ひとりの人から わたしは得ることができるのです。そういう意味で 神からあたえられるのです。  当事者本人は そのことに気づいていない。場合がほとんど。それに 知恵が自分にある・あったとも思わないでしょう。でも 暗黙の内に ミラーニューロン現象とでも採って欲しいのですが わたしにはあたえられるのです。    つまり ほとんどの場合 問題の解決は その当事者が――なやみ苦しんでいる本人こそが――知っています。気づいていないのです。ですが わたしには それを――心をひらいて――おしえてくれます。だから 自由自在の知恵が わたしには湧き出て来ます。そういうからくりです。  どうぢゃ 分かったか? いつまでもミイラのままでいては だめですよ。

その他の回答 (8)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

はい。 >「神々といえども腐るのだ。 ・・・ いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?」 そうですね。 それが「歴史」という、ものかも。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ 「言ってみただけ」という説も、あるようです?  ☆ ない。あっても 通用しない。――と確認してください。

bragelonne
質問者

補足

 確認せよ。それが先。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

B様、こんばんは。 「言ってみただけ」という説も、あるようです?

bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (ニーチェ:神は死んだ) ~~~~~~~~~~  寒くなってきてはいないか?  これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?  昼前から行燈を灯す必要はないのか?  神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?  神が腐る臭いがまだしてこないのか?  ――神々といえども腐るのだ。  神は死んだ!  死んでしまい 蘇ることはない!  しかも 我 々 が 殺 し た の だ!  殺しの中の殺しをした我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?  これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。                (『喜ばしき知識』125番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。

回答No.7

bragelonneさん こんばんは。 確かに、bragelonneさんの考察も一理あります。私は、私の回答がわかりやすくするために、あえて、イエス(人)とキリスト(神の子・メシア)を分離して回答しました。 キリスト教では、マリアが天使により受胎告知されたので、生まれながらにして、イエスはキリストと解釈できます。 しかし、哲学に行くと、中世の神学論争(普遍論争)にうんざりした、デカルトは、自分と神の存在を認めておきながら、「延長」の概念を持ち出し、天使の存在が入り込まないようにしたから、ややこしくなる。 しかし、そのおかげで、狐に取り付かれたなどの迷信がなくなり、科学という、人類が自然の脅威から逃れるための武器を手に入れたという事実は否定できません。 しかし、西洋の人間中心的な科学信仰は、今度は、人間と共存すべきはずの、自然を破壊してしまって、地球の環境を守らねば、人類は生きられなくなってきつつあるのが、21世紀の課題です。 それは、仏教の「一切衆生悉有仏性」という、生けるものすべてに仏が宿るという、日本人の精神に残る、人間中心ではなく、自然と共存するという精神を大切にして、早くから手をつけた環境問題に対するテクノロジーを武器にして、世界におけるリーダーシップを日本は取って行くべきではと思います。 後は、神様でも仏様でも、おてんと様でも良い。大いなるものが、天網恢恢疎にして漏らさずで見張っているから、悪事や、傲慢にならず、大いなるもののを畏れ、へりくだるという精神が大切と思います。 私は、枇杷一本で海外に行き、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・おごれるものも久しからず・・・。」という吟遊詩人として世界中を歩き、ムーミン谷で暮らします(笑)。 安部首相に世界において、日本がリーダーシップを取れるように、天皇陛下から「喝」を入れてもらいましょう。 2015年8月15日 玉音放送 「景気ノ低迷ニヨリ臣民、堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ、朕、首相国会ニ於イテ過労死スル覚悟ヲ望ム。」 「ねぇブラちゃん。こっち向いて、恥ずかしがら~ないで♪」お礼お待ちいたしております。 ムーミン谷に冬が来た、みんな眠りについた。私も寝よう。おやすみなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ マリアが天使により受胎告知されたので、生まれながらにして、イエスはキリストと解釈できます。  ☆ 神学は きちんと表現しなければなりません。  ナザレの人ヨセフを父とし マリアを母として生まれた男イエスは そのまま人間であり と同時に――想定じょう―― 聖霊によって生まれのちにキリストと呼ばれるようになる神の子でありさらに同時にみづからも神である。  言いかえると マリアは ヨセフとの性交によって息子イエスを生み そのとき同時に聖霊によって身ごもるかたちをも取った。  この解釈が いちばん妥当だと考えます。   デカルトは いただけません。  【Q:デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8938723.html  あなたがベストアンサーになっています。  いただけないという意味は 摂るべき栄養がないという意味です。  その《考えるわれ》は けっきょくブラフマ二ズムにおけるアートマン(霊我)のようなものです。  だから その後 《それが考える。 Es denkt 》などという議論が現われました。  デカルトにかかずらわると 時間が もったいない。これは 結論です。  ★ 自然と共存するという精神  ☆ 内容ないし志向性に文句はありませんが この趣旨説明だけでは よわいでしょうね。  ★ 「一切衆生悉有仏性」という、生けるものすべてに仏が宿るという[・・・]精神  ☆ これは 先ほどのアートマンが 梵我一如だとすると 仏仏一如なる表現でのけっきょく同じ内容としての信仰類型です。そこまで言わないと 何のことだかはっきりしません。  プシュケー・コスムーだとか アニマ・ムンディと同じ類型なのだというふうに説明するとよいでしょう。  ★ 大いなるものが、天網恢恢疎にして漏らさずで見張っているから、悪事や、傲慢にならず、大いなるもののを畏れ、へりくだるという精神が大切と思います。  ☆ 遠慮なく・歯に衣着せず・けっきょくいぢわるく言うとすれば まだそれではあまい。  《きよらかなおそれ≒聖なるあまえ》については 同感ですが このおそれには 善悪は入り込みません。  信仰は 精神ではないのです。  《天網恢恢疎にして漏らさず》という理念を立てるという義無きを以って義とす。というのが 親鸞です。  ・ 風は気ままに吹く。のです。  ・ 神はあわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ。のです。  ・ エサウを憎み ヤコブを愛した。のです。  人間のさかしらな頭で 世界を捌(さば)くのは あまりよくありません。  神が裁くというふうに神を持ち出すのも それを人間が語っているのであるからには 人間が捌いているにほかなりません。  そうですよね。自分があたかも神になったかのように 世界を料理している。あまり褒めたことではありません。  天皇は どうでもよろしい。自由で対等な存在として相い対することが 人間の道です。  

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.5

イエスが死んだのは、人間として死んだだけで神としては死んでないです。 その後復活していますし。人間としてのイエスは、神の予定として死ぬことになっていて、その予定が実行されただけ。 神とは、父なる神と子なるイエスと聖霊の三位一体のものであり、すべてが死なないと死んだことにならないです。 そもそも「神は死んだ」というのは、もはやキリスト教の神という設定を信じることができなくなったという近代的な考えを「死んだ」と表現しているだけです。 ただ、こんなこと全てご存知ですよね。知っていて質問するなんて・・・

bragelonne
質問者

お礼

 でも 死を死んだことは――物語じょうと言うべきかどうか―― 事実でしょう。  しかも その死こそが 中核の中核ですから。  こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 神としては死んでない  ☆ これも 当たり前ですよね。つまり そのように認識し直すようにこの質問があります。  ★ 人間としてのイエスは、神の予定として死ぬことになっていて、その予定が実行されただけ。  ☆ これは あいまいな説明ですね。なぜ去って行かねばならなかったか? ちゃんと記述はありますから それを言わないと 《予定》ったって 何のことかとなってしまう。  ★ 神とは、父なる神と子なるイエスと聖霊の三位一体のものであり、すべてが死なないと死んだことにならないです。  ☆ 意味が採れません。《すべてが死なないと》ったって 死ぬわけないぢゃん。生まれてもいないのだから。 (子は父から生まれたとか 聖霊は 父と子との交わりから発出したとか 表現では言いますが 時間を超えた無限・絶対に時間的な現象はありません。  つまりそれは たとえです。  あたかも父なる光源からあたかも子なる発耀は生まれ出て来る。その光源と発耀の両者から 明るさや暖かさに譬えられる聖霊が発出する。  経験事象としての太陽などは 時間的に生まれたのですから やがて死にますが 三位一体のそれぞれの位格ないしその全体は 時空間を超えています。死ぬわけないぢゃん)。  ★ そもそも「神は死んだ」というのは、もはやキリスト教の神という設定を信じることができなくなったという近代的な考えを「死んだ」と表現しているだけです。  ☆ いいえ そうではありません。  それに そのようなあたまの中の観念としての神は――そしてしばしばプラトンのイデアにたとえられる《観念の神》は―― その《設定》した時点で 死んでいます。ただの想像なのですから。つまりは 初めから インチキと分かっていたのですから。つまり もし長い時間が経ってからようやく分かったというのなら そのように・つまり初めから死んでいたと分かったと表現しなければなりません。  信じていたのではなく ただ思い込んでいただけだったと確認しなければいけません。そうしないことも 阿呆です。――というふうにこのいま わたしたちは確認する必要があります。  いや そうではなくはっきりと《死んだ》と言っていますよ。  初めは ヘーゲルが観念論として神は死んだと言ったようですが ニーチェとやらは 自分たちが殺したとはっきり言っていますよ。  もし《ただ思い込んでいたのだからとうぜんのごとく〈信じる〉ことは出来なくなった と言うのなら われは教会からもクリスチアニズムからも去るとでも言えば済むわけです。  もしそのようなへっぽこ論客ではなく あなたの言うように《神が死んだ》は 単なるタトヘだとすれば やはり《神が死ぬわけない》ということを ここで確認することができれば それでよいわけです。質問のねらいがかなえられます。  ですから この確認が――そしてその前に おっしゃるように《神が死んだ》という文字通りの認識は 阿呆らしいオフザケであるという確認が―― 必要だったのです。  いまだに フリッツ君のこのタワゴトが この哲学カテに出て来ます。出て来るたびに 必要とならば こういう真実を確認する質問を挙げます。

回答No.4

経験的に助言しよう。 ツンデレしないと、ツンデレされるぞ。 君はそれに沸騰して瞬間湯沸かし器を自称した。 ほほえましい話だ。 食うか食われるかと言う、幻影が一種の死の幻とも言える。 真面目に取り組むならそういう話だが、笑う位のおおらかさがいいだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 いや いままでにそうと認識したことはなかった。  それに ツンデレというのを知ったのが つい最近。  まぁ 考えてみれば アラシ回答で強くあたってくるのは ツンツンだと言えないこともない。でも デレは なかったなぁ。  あぁ そうそう。デレデレで入って来て 途中で ツンツンに変わった場合が一件あったよ。《まじめに回答することにしたが あんたの言うことはマチガイだ》って 途中で態度が変わった。(ブログにまで押しかけて来た。一件落着はしたけれど)。  ま あまり気にしていません。中身で勝負だし 中身イッポンのおまけに ほかのことには触れたり触れなかったり。だと思う。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

そうだな~。 丁寧なアニキのツンデレでなくても、確かにこの短いつぶやきで気がつき人はいるだろーなー。 私も気にしているがファンレターが少ないよね。 おそらくうまく自分の言葉で表現できないのだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ おそらくうまく自分の言葉で表現できないのだろう。  ☆ ふむ。そういう場合も考えられるってわけか。  《ツンデレ》になっちゃったのかなぁ。  ご回答をありがとうございます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10491/32992)
回答No.2

まず#1さんが指摘しているようにイエスはあくまで「神の子」であり、神様そのものではありません。 また、イエスは死んで三日経った後に「復活」してキリストになったということになっています。この復活はキリスト教の根幹に関わることなので(復活しないとキリストじゃないんだそうです)、小学生風にいうと「死んだけど生き返って永遠の生命を得て神様の横に座っている」ってことになります。 ニーチェが何を言いたかったのかは、私はそんなにニーチェに詳しくないので。一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)信者は「神が死んだというのはあくまでニーチェの個人的見解(あるいは妄想)であって、神様は死なない」と答えるんじゃないかな。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ No.1のお礼欄に引用した聖句のほかにも 人間イエスが 神の独り子であると同時にみづからが神であるというくだりをさらに掲げます。  ▲ (マタイによる福音書 / 11章 27節 ) ~~~~~~~~~~~  すべてのことは、父からわたしに任せられています。  父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。  ▲ (ヨハネによる福音書 / 10章 38節 ) ~~~~~~~~~~  しかし、〔わたしが父の業を〕行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。  そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」  ▲ (ヨハネによる福音書 / 14章 10-11 )~~~~~~~~  わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。  わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。  わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。  わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。  もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間イエスが父なる神の内にいる》というだけではなく 《父なる神が人間イエス〔すなわちキリスト〕の内にいる》と言っていることに注意して欲しいと思います。  ★ 小学生風にいうと「死んだけど生き返って永遠の生命を得て神様の横に座っている」ってことになります。  ☆ 成りません。小学生風に言っても ダメです。  肉(身と心と)のからだがあるなら 霊のからだがあるのです。(これは 想定です)。  霊のからだは そのまま永遠の不可変性ですが それとともに ほろんだ肉も復活したと言っています。  これは 人間にわかるわけがありません。そういう想定です。  いづれにしても 神の子でありみづからが神であるキリストと呼ばれた人間イエスは すでに十字架じょうに死んでいるのに ずいぶんあとになって《神は死んだ》と言うのは よほど間抜けでなければ 言えません。  しかも 絶対・無限なる存在(または 非存在)であるなら 時間を超えているからには その《時間の流れ》からは自由です。時間を超えているのに どうして《生まれる》も《死ぬ》もがあるのでしょう? ちゃんちゃらおかしいぢゃありませんか。  とにかく 神は死んだと言うのは 精神錯乱でなければ言えないでしょう。また 同じビョーキにかかっているのでなければ それに同調することもないでしょう。

回答No.1

イエスは自分を神とは言ってないよ。 キリストだって救世主という意味だから。 元々生きてすらないけど。人間の見解だと。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~  それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。     * 16:16 ペトロの言葉として《生ける神の子》があり イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。  ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~  〔* サマリアの〕女が言った。   「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」  イエスは言われた。   「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」  ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~  イエスは言われた。   「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、   だれも父のもとに行くことができない。    あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに   なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」  フィリポが   「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」  と言うと、イエスは言われた。   「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない   のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を   お示しください』と言うのか。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない   のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな   い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う   のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな   さい。    はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、   また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから   である。    わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、   父は子によって栄光をお受けになる。    わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ   げよう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~

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