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私は何に向かって生きていくべきなんでしょうか?

私は昔からよく疑問を持つ子供で宇宙やら素粒子やらについて考えを巡らす事が多かったのですが 最近それらの疑問を越えて存在そのものに対する疑問をふと感じてしまい色々調べて ウィキペディアにあった「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という記事なども見ました。 答えの出しようがない疑問だと薄々分かりつつ読んでみたんですがやはり答えらしい答えはなく、 私がこれから一体何のために生きていけば良いのか分からない精神状態になってしまいました。 これは実際以前からずっと前から抱えていた悩みなのですが全く時間が解決してくれる気配もなく 精神が日に日に蝕まれていくと感じたので今回質問させていただきました。 何か哲学的な思考?みたいなものを意識すると自分が生活している上で行っている行動への意味や価値や善悪などが全て吹っ飛び 一体自分は何を基準にし、何に向かって生きていく事が望ましいのか、という疑問にさいなまれ自分が行っている行動に対する疑問が尽きません。 勝手な推測ですが哲学をやってる人達もこういう感覚を覚える事は多分あるんじゃないかな、と思うんですが、 皆さんはどうやって楽しく生きていけるような精神を獲得しているのですか? 何か趣味などでも見つけて誤魔化しでも生きる希望を見いだそうと頑張った事もありますが無理でした。 今後の人生において本質的な幸福を獲得するのは不可能だと感じます。 今はなんとか生きていますが、正直死んで楽になりたいです。 私はこれからどうするべきなんでしょう、やはり死ぬべきなのでしょうか……? ちなみに私は昔からただ一人で考え事をしていただけなので哲学などの知識は一切ないです。

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  • lucky1267
  • ベストアンサー率44% (449/1019)
回答No.2

>ちなみに私は昔からただ一人で考え事をしていただけなので哲学などの知識は一切ないです。 自分も一切ありませんから気にくわなかったらスルーして下さい。 自問自答に陥り、その答えが出ないまま、新たな疑問が生まれる、ようは出口のない迷路のようなものに迷い込んだのではないでしょうか? >私がこれから一体何のために生きていけば良いのか分からない精神状態になってしまいました。 これは実際以前からずっと前から抱えていた悩みなのですが全く時間が解決してくれる気配もなく 精神が日に日に蝕まれていくと感じたので今回質問させていただきました。 これは多かれ少なかれ、誰しもが抱える問題ではないでしょうか? 結局、こういう問題に陥り、勝てない方が精神を病むのではないでしょうか? >皆さんはどうやって楽しく生きていけるような精神を獲得しているのですか? 楽しいばかりの毎日ではありませんよ。 むしろ社会は厳しい方が多いです。そんな中で職場などでほんの些細な喜びが、また頑張ろう!という気にさせてくれるんだと思います。 >今はなんとか生きていますが、正直死んで楽になりたいです。 私はこれからどうするべきなんでしょう、やはり死ぬべきなのでしょうか……? これはダメです。世の中には働く能力があるのに、ごまかし、生活保護などを受けのうのうと暮らしてる方など山ほどいます。 自分自身に負けてるんでしょうね。精神の・・・・・・。 纏まりのない回答ですが、考えすぎたら駄目だと思います。 適当な流し、も必要だと思うのですが。 全然哲学でなく申し訳ありません。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

>結局、こういう問題に陥り、勝てない方が精神を病むのではないでしょうか? 確かに私は思考の迷路に負けて、結果病んだのかもしれません。 心が強ければもっとポジティブに捉えられたのでしょうか。 >楽しいばかりの毎日ではありませんよ。 別に生活する上で社会的な問題は特にないんです。 仕事がつらいだとか人間関係がどうだとかそういう下らない問題で悩んでいるわけじゃないです。 ただ一般社会的に価値のあるとされる物に私は一切価値を見いだす事ができない、空虚な感覚を感じ続けているんです。 >纏まりのない回答ですが、考えすぎたら駄目だと思います。 >適当な流し、も必要だと思うのですが。 確かに考えすぎだと言われたらそれまでかもしれません。 しかし生きるという事は考える事の連続によって成り立っているものではないでしょうか? ちなみに、なぜあなたは生きているのですか? 仮に何かしらあなたに生きがいや生きるための理由があったとして、 それの為に生きる価値はあるのですか?意味はあるのですか?何を基準にそれを考えましたか? あなたが基準と考える物は一体何から導き出されたものですか? こうして突き詰めていくと、自分が生きるための希望としている物は全く無根拠に発生した何の意味もない思い込みであると気づけるはずです。 確かに私は考えすぎなのかもしれませんが、間違った事を言っているつもりはありません、 間違っていたらむしろ指摘していただきたいです。 とりあえずあなたの優しさは伝わってきました。 ご回答どうもありがとうございました。

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回答No.13

お礼ありがとうございました。 最後に伝えたいことがあります。 どうしてみんなの回答が「生きる方向」のものになるのか。 それは、生きることが空しいとみんな分かっているからです。 (もちろんこういうことに悩まないタイプは空しいと感じていないでしょうが) ただ、希望を捨てていないからです。 生きることは空しいけど、自殺してしまうことはもっと空しいからです。 だからなんとか個人的な主観的な生きる意味を探している。 そしてそれを探しているうちに様々な体験をしていつの間にかやり過ごせている。 で、年をとってまぁいっかという気持ちになる。 そんな感じですよね。 人生なんてそんなもんですよ。大きな意味なんかない。 でも自殺することはとっても大変ですよね。 まず痛いし怖いし、死んだらどうなる変わらないし、 家族にも心に一生十字架を背負わせることになる。 多大な迷惑がかかります。 死ぬよりも生きるほうが随分マシだから生きているということでしょう。 だから上手な暇つぶし、熱中できることを探すんです。 もちろん自殺しても悪いとかはありませんよ。いいとか悪いなんてない。 でも私なら自殺をとめますね。 質問者さんの家族や親しい人の人生まで破壊するからです。 自分を育ててくれた人、親しくしてくれた人の人生を破壊するのは 恩を仇で返すようで忍びないでしょう。 今の時代はあまりにも死というのが遠いから、 なんかつまらないから死のっかな、となるわけです。 少し前までの日本は、腹減ってしょうがないし、働くしかなかった。 働いても十分な飯も食えない。生活も不便だしね。 楽しいことなんて別になかったんですよ。 生きることは、生き抜くことであり、餓死しないことであった。 周りには簡単に人が死んでいたし、 病気になってもウチには金がないからね、というのが当たり前だった。 病院にすら行けない。 苦労せずに腹一杯になれる現代は、プラスアルファを求めるんですよね。 でもプラスアルファの目的なんてないっすからね。 腹一杯になったらゲームクリアですから。 それ以上は別にないんで。 だから質問者さんは、一回断食をするといいかもです。 腹一杯にしながら、生きる意味は、と考えるのは すでに意味を満たした状態で考えてるのと同じで、考えてることにならない。 何も食わずに腹をすかしたら、生きる意味とかより前に、 なんか食いたいってなりますから(笑) それが意味っちゃ意味ですよね。 何も食わずに、それでも飯よりも「生きる意味は?」と 考察し続けることができるってんなら大したものですよ。 今でも飯が十分に食えない国はたくさんあります。 そういう国は自殺者は少ないです。 豊かになると、実は人生は特にすることないって気づくんで自殺者が増えます。 断食するか、貧困の国に滞在してみることをおすすめします。 その「体験」が、あなたの「感じ方」を変えるかもしれませんよ。 あと、生きる意味ということで本を読むなら ・夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)※旧版がおすすめ ・超思考(北野 武) がおすすめです。ぜひ一度読んでみてください。 生きることに大袈裟な意味なんてないし・生きるなんてしょうもないってことと、 苦しみそのものに生きる意味を見出すことの重要性がわかります。 苦しいから、それを乗り越えると充実感がある。 その落差が生きる活力を与えます。 だから登山家は意味のない山に登るんですね。自ら苦しくなるんです。 経営者は会社拡大を目指すし、アスリートは勝負に勝とうとする。 みんな自分からあえて苦しいことをしています。 自作自演ですよ。それが虚しくならないコツです。

回答No.12

追記です。 気になる質問だったので、もう一つ違う観点から回答させてください。 この世界ではどこまでいっても、自分の主観が主体です。 何を思うかは、 「その人の考え方」によって決まっていると思いがちですが、 その手前に、 「その人の感じ方」があります。感じ方が先にあって、そこから考え方が発生します。 生きる意味は? という質問の答えは、釈迦がすでに1,500年前に出しており、「意味は無い」が結論です。ですから凡人の私たちが一生懸命「考えて」も意味は無い以外の結論を出すことはできないでしょう。 しかし、生きる意味を問わないで大丈夫な人もいます。その人は「なぜ生きるのか?」を疑問に「感じない」からですよね。 人生は無意味なのだから、考え方によってそれを意味のあるものにしようとする試みは失敗すると思います。 でも、「感じ方」を変えれば、意味を問う必要性が消えてしまうことがよくあります。 「感じ方」は人の個性ですが、実は年齢や習慣によって意外と簡単に変化するものなんです。 例えば、人を好きになる時を考えてみてください。その人のことを好きだと口にすればするほど、本当にその人のことがより好きになります。自の脳を自己洗脳しているとも言い換えられます。 例えば味覚も変化します。大人になると小さな時には辛くて食べられなかったものが美味しく感じます。数週間でも粗食に変えると、外食すると味付けがどれもくどく感じます。 絵の勉強をした人は、絵を勉強してない人に比べて、1つの絵から様々なことを感じ取ることができます。 このように年齢や習慣でものごとの感じ方に変化が出てきます。私は「意味のない世の中で、意味を問う風に生まれ育ってしまった人」を救うのは、この「感じ方の変化」に見出せると思います。 そしてここからが大切ですが 人生に意味を感じない、と思う人は、その前に「自分自身に価値を感じない(自己肯定感が弱い)」ことが多いと思います。 自分には価値がある、しかし人生に意味を感じない、とはなかなかなりません。 で、この「自分には価値がある」と感じられるかどうかは、習慣によって変化させることができます。 自分を褒める習慣です。これも実際に「体験」することで変化を感じることができます。人を好きになるように、脳を自分で洗脳すれば、自分自身に価値があると感じることができます。 例えば、幸せな人は毎日の食事に「美味しかった、幸せだ、農家の人に感謝」などと感謝する習慣をつけます。するとこのような小さな幸せにも本当に大きな喜びを感じられるようになります。これもある意味で脳を洗脳しているからです。 脳は自分の意思で「感じ方」をコントロールできるものなんです。 だから、本質的に無意味なこの人生を楽しく生きるには、脳を自分で楽しく生きられるように習慣によってコントロールする必要が有ります。 モデルは自分に自信をつけるために、鏡の前で自分を毎日褒めます。そうすると見た目は同じなのに自分に対する「感じ方」が変わってきて、本当に自分のことを以前より綺麗だと感じられるようになり、雑誌の撮影でも自然に良い表情ができるようになります。 そして脳の感じ方を変えるのは、思ったよりも早く結果が出ます。私は1ヶ月かかりませんでした。 自分に価値があると思えたら、「この世に価値がない?ふーん、じゃあ俺が価値をみつけてやんよ」くらいになってきます。 自分を褒める習慣をつけてみてください。その際には、ほめ日記をお勧めします。ほめ日記でググってみてください。 考え方の前に、感じ方があります。感じ方を変えるのは習慣の実践です。感じ方が変われば考え方が変わります。 今日も天気が良いだけで幸せになる人がいます。言葉で聞いても「たかがそんなことでそこまで幸せになるか!」と思いますが、幸せなひとは実際にそう「感じる」ことができています。それは主に習慣による脳の自己洗脳がそれを可能にしています。 だから他人と話し合っても意味がないんです。人生は感じていること、主観が全てです。そして経験や習慣によって、感じ方を変化させることができる。 ここに解決のポイントがある気がします。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

よい方法だと思います。 しかし同時にそうまでして生きる必要はあるのか?という疑問も感じてしまいます。 そんな真似をしてまで無理矢理楽しい気持ちになって生きる必要はあるのでしょうか? 別に死んでも良いんじゃないですかね? 大体生きるか死ぬかの話になると死を避け生きる事の方が良いという話の流れに自然となってしまう事は多いですよね。 確かに私もその気持ちは理解は出来ますが、結局これは遺伝子に従ってるだけですよね。 しかし私自身こうして投稿している以上、死にたいよりは生きたい気持ちの方が強いからこのような質問をしたのかもしれませんし、 今考えるとなんとも納得いかん事です。 本当に死にたいなら黙って死ぬでしょうからね。 どうもありがとうございました。

回答No.11

ご質問読ませていただきました。 私も、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事を読んだことがあります。 根源的に、そもそも何の理由があってここに立っているのか。さっぱりわからないですよね。そもそものそれが分からないのに、どうやって生きていくかがわかるはずもないと。全くその通りだと思います。 そしてこの世の中は「なぜか知らないけどそうだった」で構成されていると思います。 例えば、現状すごく楽しく生きている人は「なぜか知らないけどそうだった」が先にあって、その後に理論をくっつけていると思います。「私が今楽しいのは、物事を前向きに捉える習慣を身につけたからうんぬん。。」 同じように今つまらないと考えている人も、まず「なぜか知らないけどつまらなかった」が先にあり、その理由を考えて「家庭環境が。。性格が。。才能が。。」などと後付けしていると思います。 これが実際のところだと思うんです。 ただ、人間には以下の性質があることはハッキリしていると思います。 1. 自分が「快」だと思うことに理由を求めない 2. 自分が「不快」ふぁと思うことには理由を求めがち 例えば美味しいアイスクリームがあります。このアイスを食べることに「意味あるの?」とは誰も考えません。美味しくて自分が快感を得られること自体が「意味」だからです。 一方で、強制労働を課されたとします。「なぜ強制労働を課されるのか?」と意味を問います。不快なことに対しては意味を問うようになっています。 質問者さんは、人生が楽しくてしょうがないならば、人生の意味は問うてないと思います。 世の中には、人生の意味を問う必要がない人と、問う必要がある人が生きています。あくまでその人にとっての基準にまで快が達していなければ、問うてしまうと思います。 少し話は変わりますが、世の中には「何のために生まれてきたのか」と問わざるを得ない人たちが想像以上に多くいます。飢餓地帯に生まれた赤んぼうは、3歳まで生きずに餓死していきます。 紛争地帯に生まれた小どもは、家族を殺され、その恨みで兵士になり、自分もいつか殺される前提で生きます。 このような極端な例を挙げるまでもなく、この日本でも、生まれ持った性格や才能や環境の組み合わせによっては、苦痛しか感じることができない人間も多数いると思います。 生まれ落ちる時代や環境の運によって、何の意味も見出すことができない状態になってしまいます。 そして人間は、年齢を重ねるごとに状況はどんどん厳しくなっていきます。 病気の可能性は高まるばかりです。死別も必ず経験します。人間関係のトラブルも、金銭問題も大きくなります。子供ができれば金銭問題はより一層大きくなります。 その中でも、常に自分は3食食べていく必要があり、日々を新たな刺激で暇を紛らわす必要があり、人間関係を良好に保つ必要があります。 つまり、何が言いたいかというと、この世の中は「そもそも」、「楽しいところではない」ということです。そもそも意味を見出せるようなところに生まれ落ちていないんです。 現状幸せな人は、本人の物事の捉え方の工夫や、外的環境が運良くうまく回り、一時的に幸せになっているに過ぎません。 じゃあ、死ねばいいのか。 でも死んだらどうなるかわかりません。今よりもっと苦しいかもしれません。 今よりもっと無意味かもしれません。 逆に天国かもしれません。誰にもわかりません。 人生は、このような「状況だけが与えられている」に過ぎません。 いくら勉強しても死後のことは生きている誰にもわかりません。 ただし、以下のことだけは言えるのではないでしょうか。 ・今死ぬと、この人生といわれている不思議なものは、恐らくすべて終わる ・生き続ければ、今後「生きる意味はこれだった」と思える瞬間が来るかもしれない メロンの味は、言葉でいくら説明しても、食べてみないと分かりません。経験することのみによって、それを理解することができます。 このようなことが人生にはたくさんあります。 人間は所詮感情の生き物ですから、経験することで考え方が変わることは日常茶飯事です。 よって今後の人生では、なるべく未体験なことをし続けることをお勧めします。 例えばサーファーには、「波の合間をくぐりぬけてゆく快感」に「生きる意味」を感じる人も居ます。しかし、自分が実際に海の合間をくぐり抜けなければ、いくらそれを語られても、その快を経験することはできません。 好きな人と愛し合い永遠の愛を誓い合う快感は、それを経験するしか味わう方法はありません。 どんなことが自分にとっての生きる意味になるかは分かりません。しかし何らかの快感がそれに関係していることは確かです。 ちなみに私の快感は、いろいろありますが、例えば、 この意味が与えられていない世界で、自分が意味づけをするために1日生きた、すごいぞ俺」という快感です。 私は意味を与えられていない人生に負けるのが嫌なんです。それに俺は十分抵抗した、と思える1日の終わり方ができた時、夜眠る時に小さな「快感」を覚えます。 例えばそれが私にとっての生きる意味です。 客観的な生きる意味は、おそらく無いんだと思います。少なくとも生きている人間に見出せることはなさそうです。 しかし個人的な、主観としての生きる意味付けは、その人次第で可能だと思います。最終的に寿命まで生き切れば、たいしたものです。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます、具体的でよい回答だと感じました。 >1. 自分が「快」だと思うことに理由を求めない >2. 自分が「不快」ふぁと思うことには理由を求めがち >質問者さんは、人生が楽しくてしょうがないならば、人生の意味は問うてないと思います。 >世の中には、人生の意味を問う必要がない人と、問う必要がある人が生きています。あくまでその人にとっての基準にまで快が達していなければ、問うてしまうと思います。 確かにその通りでしょう。 私は幸せの最中我に返り、数瞬の思考の末に逆に空虚な感覚に襲われる事があります。 これは快を感じつつも私が定める快の基準には達していないから起こる現象なのかもしれません。 ただ私は快か不快かで行動を選択する事にあまり納得できません。 快と不快を定義する事が不可能だからです。 快という感覚も自分の思い込みから発生した感情に過ぎず信用ならない基準です。 快ならば良いのか?不快ならば悪いのか?一概には言えません。 快不快に重点を置く人生に疑問を感じてしまいます。 しかし生きていく上では大事な事だという事も理解はしています。 >生まれ落ちる時代や環境の運によって、何の意味も見出すことができない状態になってしまいます。 >そして人間は、年齢を重ねるごとに状況はどんどん厳しくなっていきます。 >病気の可能性は高まるばかりです。死別も必ず経験します。人間関係のトラブルも、金銭問題も大きくなります。子供ができれば金銭問題はより一層大きくなります。 >その中でも、常に自分は3食食べていく必要があり、日々を新たな刺激で暇を紛らわす必要があり、人間関係を良好に保つ必要があります。 >つまり、何が言いたいかというと、この世の中は「そもそも」、「楽しいところではない」ということです。そもそも意味を見出せるようなところに生まれ落ちていないんです。 確かにそうですが社会の中で悩んでいるだけならまだ救いがあります。 それはただの身の回りの物質が充足しているかどうかの資源的な悩みですから、難易度的には優しい問題です。 実際に叶うかどうかは別問題ですが答えとしては非常にシンプルでただ豊かになれば解決する問題です。 深刻な問題ではありますが今回の質問内容と比較する物ではないでしょう。 >人生は、このような「状況だけが与えられている」に過ぎません。 >いくら勉強しても死後のことは生きている誰にもわかりません。 >ただし、以下のことだけは言えるのではないでしょうか。 >・今死ぬと、この人生といわれている不思議なものは、恐らくすべて終わる >・生き続ければ、今後「生きる意味はこれだった」と思える瞬間が来るかもしれない これは人生という範囲内に限って成り立つ話だと思います。 生きる意味、というのも人間である自分が、自分の人生に対していかにして納得するか、ただそれだけの価値観です。 死ぬ事で全て終わるなら今終わってしまっても別に構わないという考え方もできます。 結局これも何一つ定義し得ない問題で、どちらも肯定できないし否定もできないという所が残念ですね。 >私は意味を与えられていない人生に負けるのが嫌なんです。それに俺は十分抵抗した、と思える1日の終わり方ができた時、夜眠る時に小さな「快感」を覚えます。 >客観的な生きる意味は、おそらく無いんだと思います。少なくとも生きている人間に見出せることはなさそうです。 あなたはその「無い」に対して生きようと思い、私は死にたいと思った。 私は人としての人生に快を見いだせなかった人間だったという事でしょう。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.10

>皆さんはどうやって楽しく生きていけるような精神を獲得しているのですか? 私は、創価学会の壮年部の者です。 日蓮大聖人様の残された、御本尊様に向かい、『南無妙法蓮華経』のお題目を唱えて生きています。お題目を唱えるとともに、世界の平和と全ての人々の幸せを祈っております。 >私はこれからどうするべきなんでしょう、やはり死ぬべきなのでしょうか……? 創価学会に入会し、日蓮大聖人様の残された、御本尊様に向かい、『南無妙法蓮華経』のお題目を唱えて、世界の平和と民衆の幸福を祈り、生きていくべきだと思います。また、仏教には今日の科学を超えた知恵が含まれています。是非、あなたも仏教の研鑽をお勧めしたいと思うところであります。 間違いなく、あなた自身が良い方向に変化するでしょう。 ※入会はお近くの会館で相談してください。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

残念ですが私は、お布施や自主的な寄付も含めて金銭を受け取る宗教や、 特定の神や人物を崇める宗教を宗教とは認めておりません。 >私は、創価学会の壮年部の者です。 >日蓮大聖人様の残された、御本尊様に向かい、『南無妙法蓮華経』のお題目を唱えて生きています。お題目を唱えるとともに、世界の平和と全ての人々の幸せを祈っております。 本当に世界の平和を考えておられるならば信者の誤解を解き真実を教えてあげてください。 宗教とは本来優れた思想の流布を目的に広めるべき物です。 心の安息のみを求めた真実にはほど遠い思想の植付けや、幹部の懐が潤うような搾取行為は宗教としてあるべき姿ではないです。 宗教団体が金銭的に潤うという事は、集団洗脳と搾取を行っているという証明を自分たちでしているような物です。

回答No.9

kvb59euaskn9さん 重症のようですね。 音楽で元気がでたら、DVDで下記の映画を観る事をお薦めします。 ●「生きる」黒澤明 志村喬のいぶし銀の演技がひかり、私は、この映画を大学時代観て、「創造」する仕事をしようと思いました。kvb59euasknさんは、もしかしたら定年退職した方かもしれませんが、まだ、遅くありません。 https://www.youtube.com/watch?v=FXX0RpALVbA ●「今を生きる」ロビン・ウィリアムズ主演 ロビン・ウィリアムズは昨年亡くなりましたが、私が最も好きだった俳優です。 https://www.youtube.com/watch?v=ySPI_Wd_ph4 これらの映画のDVDは旧作は楽天レンタルで借りたら1本10円です。送料が3百数十円かかりますが、お時間があれば「生きること」へのヒントになるかも知れません。 最後に英語ですが、このサイトを良く見てお考えください。 https://www.youtube.com/watch?v=Lybu_ZEFn6w これは、数年前、この哲学投稿サイトにおいて、とある回答者が投稿したものです。 kvb59euaskn9さんは、自分が恵まれた体で生まれたことすら、忘れていると思います。 何のために生きているのかわからないから死にたいなどと甘えるのもいい加減にしなさい。と言いたい。 上述の奇形児さえ、周りの人が受け入れ、愛し、愛されています。 まずは身近な人を愛することから始めることをお薦めします。 最後に、恵比寿にある山種美術館が所蔵する、奥村土牛の「醍醐」という桜の絵を添付します。 https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A5%A5%E6%9D%91%E5%9C%9F%E7%89%9B+%E9%86%8D%E9%86%90&hl=ja&rlz=1T4GGHP_jaJP580JP580&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=GY6YVd-pBYO9mgWukr2gCw&ved=0CCMQsAQ&biw=1366&bih=607 奥村土牛は101歳まで、生きました。人生まだまだです。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

>音楽で元気がでたら、DVDで下記の映画を観る事をお薦めします。 >https://www.youtube.com/watch?v=FXX0RpALVbA >https://www.youtube.com/watch?v=ySPI_Wd_ph4 >https://www.youtube.com/watch?v=Lybu_ZEFn6w これらの物は今回の本題とはあまり関係ない物と感じます。 >上述の奇形児さえ、周りの人が受け入れ、愛し、愛されています。 障害者と比較しそこに幸福感を感じる事はそもそもズレた感覚と感じます。 これは結局自分よりも不幸な物を眺め哀れみを感じるなどして気持ち良くなるという卑しい感情だと思います。 私はそもそも障害者を生かす事は反対です、気の毒ですが生まれる前に中絶する事が望ましいと考えます。 障害者を生かすという事は障害者のみならず周囲の人間にとっても大変な労力が必要になりますし、 障害者が子孫を残した場合も再度障害が発現する可能性が高いです。 そのような遺伝子は淘汰し、より障害が発生する確率を低くした方が長い目で見ると遺伝子的にも幸福度的にも有利です。 進化の歴史もそういう弱い個体を淘汰する事で今の快適な社会が成り立っています。 重度の障害は一般社会への溶け込みは不可能で援助や補助無しでは生きられません。 仕事をする場合も過酷な環境と低賃金で暮らさなければなりません。 下らない倫理観に捕われて、殺しはしないがまともに生かしもしない今の社会体制をどう考えますか? これはただの親のわがままです、自分の子供は特別で可愛いうエゴと、効率の悪い道徳観念です。 仮に私や私の子が事故や病気などで重大な障害を負った場合是非とも殺していただきたいものです。 >kvb59euaskn9さんは、自分が恵まれた体で生まれたことすら、忘れていると思います。 >何のために生きているのかわからないから死にたいなどと甘えるのもいい加減にしなさい。と言いたい。 贅沢な悩みだという事は自覚しております、しかしこれは苦しんでいる人間にとっては酷な言葉です。 苦しいというのは他との比較によって発生する物ではないからです。 自分より苦しい人間が居ようが居まいがいかに下らない理由で悩んで居ようが苦しい物は苦しいです。 有名人などが度々自殺する事がありますが圧倒的に恵まれた環境に身を置きながら彼らは何が不幸で自殺などするのでしょうか。 正直私は一般的な趣味に魅力を感じる事が出来ないと実感しており、 この様な物を見ても表面上の感動や感銘は受けつつも本質的には楽しめません。 お気遣いには感謝します、少々厳しい事を書いてしまった事をお詫び申し上げます。 ご回答どうもありがとうございました。

回答No.8

>私はこれからどうするべきなんでしょう、 1.毎日減ってゆく人生の残り時間を大切にし、この世に生を受けた僥倖に感謝する事。 2.自分の自由を最大化(今日の自由より、明日の自由が大きい)するように努力する事。 3.社会にあっては、近くにいる人の幸福を願い、何らかの貢献をする事。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

>1.毎日減ってゆく人生の残り時間を大切にし、この世に生を受けた僥倖に感謝する事。 確かにほっといても死にますな、感謝する気持ちも理解できます。 >2.自分の自由を最大化(今日の自由より、明日の自由が大きい)するように努力する事。 これ以上何を追求すべきなのでしょうか。 正直身の回りに溢れる俗物に興味を沸かす事が出来ません。 何かを目指すにしても人の人生において目指すべき明確な対象が欲しい。 >3.社会にあっては、近くにいる人の幸福を願い、何らかの貢献をする事。 これはもっともらしい事ですが叶える事は大変不可能に近い事です。 生物として生命維持をする以上、他者への貢献よりも他者に苦痛を与える量の方が圧倒的に多いからです。 私達は他の生物に苦痛を与え殺しながら生きています。 身の回りの親しい者だけをひいきする考えはありません。 他者へ貢献したい心があるのであれば今すぐ死ぬ事ではないかと、つくづく感じます。 ご回答ありがとうございました。

noname#211048
noname#211048
回答No.7

> 正直死んで楽になりたいです。 それはずるい > 答えの出しようがない疑問だと薄々分かりつつ読んでみたんですが 答えはでなくても、体感することはきっとあるはずです。例えばこの彫刻存在感あるな・・とか 頭でわからないだけなので、落胆し生きる希望を失う必要はないとおもいます。 > という疑問にさいなまれ自分が行っている行動に対する疑問が尽きません。 成人してるなら、腹据えてください。 > 何に向かって生きていく事が望ましいのか 思想が好きなら思想家、私的なものが好きなら詩を書くとか、社会の中に入りきるなら主婦やレジうちをするとか・・自分の成長の為か、純粋な感情から起こる人のためにたつための行動であれば、決めてしまえばどれでも(大差なく)よいとおもっています。 私も(はかな?)未熟者なので参考程度に。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

>それはずるい ずるいですか、確かに私の思考や思想は私が誕生する以前に既に人類が培った膨大な学問を元にたどり着けた結果なのかもしれません。 それを勝手に利用しては放棄し死ぬということは確かにずるいと言えるのかもしれません。 >答えはでなくても、体感することはきっとあるはずです。 確かにそれはあります、考えれば確かに無意味で無価値、無根拠な事でも 無根拠なまま体感し感動する、そういう事は起こります。 その感情に疑問を持たず身をゆだねろ、という事でしょうか。 >思想が好きなら思想家、私的なものが好きなら詩を書くとか それは結局ただの社会の歯車として生きていくという事に他なりませんが、本当にそれでよいのですか? いや結果的に現に私はただのサラリーマンで既にそういう形で生きておりますが、疑問はやはり捨てきれないです。 私の質問文の書き方も悪く、他の回答者様からも鬱と勘違いされている様な雰囲気がありますが 私はポジティブに人生に価値を感じられないんです、肯定的に死を選択した方が良いのではないかと思ったんです。 ご回答どうもありがとうございました。

回答No.6

ふむふむ。これは禅病ですな。 修行をしすぎた、お坊さんがなる病気と診断します。 治療法としては、頭のてっぺんの「百会」のツボにお灸をのせて、その熱さが、へその下、三寸の「丹田」を通り、足のつま先に温かさが伝わるようにするのが良い。 しかし今回は音楽療法としよう。 ただし今回出す3つの音楽の薬は日本の中年世代において流行ったもので、処方しますが、残念ながら、新薬ではなくジェネリック薬品です。 上から順番に聴いて最後まで良く歌詞を聴いてください。 https://www.youtube.com/watch?v=f0QrSQB7vBs https://www.youtube.com/watch?v=5BALU1WG3LE https://www.youtube.com/watch?v=RvIWD9xV4e8 ちなみに哲学は正解なしも、また真なりです。 副作用が起きたら、他の回答者の助言を読んでください。 えっ、次は、いつ診察かですって。 申し訳ない私は無免許精神科医で、現在、警察に追われている。 では。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

>修行をしすぎた、お坊さんがなる病気と診断します。 そうなのですか、やはり物事を追求しすぎるとそのような精神状態に陥りやすい物なのでしょうかね。 >治療法としては、頭のてっぺんの「百会」のツボにお灸をのせて、その熱さが、へその下、三寸の「丹田」を通り、足のつま先に温かさが伝わるようにするのが良い。 >しかし今回は音楽療法としよう。 つまりとりあえず体やら心の安らぎを得て苦痛を取り払い生きる方向へ持っていけという事ですかね。 確かに苦痛がなく気持ち良かったら死にたくはならないのかもしれません、しかしそれは麻薬と同じようなもので誤魔化し以外の何物でもないです。 生物として危険や苦痛を避け安全や快を求める原始的欲求に従った行為に過ぎません。 >上から順番に聴いて最後まで良く歌詞を聴いてください。 私はあまり音楽は聴かないのですが、 とりあえずメロディ的にリラックスや切ない方面へ感情が傾く曲調だと感じました。 人間としての肉体、機能を備えているので当然の反応です。 一時の安らぎを得る分にはこういった娯楽療法もありなのでしょうな。 >ちなみに哲学は正解なしも、また真なりです。 >副作用が起きたら、他の回答者の助言を読んでください。 確かに一時の元気は出るかもしれません、 しかし元気が出たらそれで良いのか?という疑問は消えません。 ご回答どうもありがとうございました。

  • catpow
  • ベストアンサー率24% (620/2527)
回答No.5

私の場合も、質問者さんと同じく、子供のころからSF小説好きだったので、宇宙とかUFO、タイムトラベル、電磁波などに興味があると同時に、それらに対して不思議に思っていました。 そういう通常なら回答が得られない疑問に対して、それなりに答えを与えてくれ、さらに人生の目的、生きる意味を教えてくれたのが、幸福の科学の大川隆法総裁の書籍であり、御法話でした。 質問者さんは、宇宙や素粒子に興味あるようですので「(宇宙時代の目覚め)不滅の法」や「宇宙の法入門」「宇宙人との対話」「宇宙人リーディング」「宇宙からのメッセージ」などの書籍がお勧めですね。 ただ、上記にあげたような幸福の科学の宗教書を読むのが嫌なら、微分・積分や三角関数、テイラー展開、オイラーの公式など、数学の学習もお勧めです。 何も考える「まず神を信じなさい」というのではなく、「数学を通じて、神の存在を感じることで、理系にとっての信仰心が芽生える」という気もします。

kvb59euaskn9
質問者

お礼

残念ですが私は、お布施や自主的な寄付も含めて金銭を受け取る宗教や、 特定の神や人物を崇める宗教を宗教とは認めておりません。 >そういう通常なら回答が得られない疑問に対して、それなりに答えを与えてくれ、さらに人生の目的、生きる意味を教えてくれたのが、幸福の科学の大川隆法総裁の書籍であり、御法話でした。 本や人物の紹介ではなく、あなた本人が幸福の科学の基本的な思想を書いて欲しいです。 そこからあなたが導き出した答えを書いていただきたい。 >質問者さんは、宇宙や素粒子に興味あるようですので「(宇宙時代の目覚め)不滅の法」や「宇宙の法入門」「宇宙人との対話」「宇宙人リーディング」「宇宙からのメッセージ」などの書籍がお勧めですね。 これは宇宙の本ではないですね、宇宙を題材にした全く関係ない内容の幸福の科学関係の書籍のようです。 そもそも宇宙がこの世界においてどのような物か、大きな物なのか小さな物なのか、宇宙の中に住まう人間には到底理解できません。 仮に宇宙内の法則を全て解明した所でこの世界のメカニズムを解き明かす事には全く至りません。 宇宙の末端に触れた程度で見聞が広がったような感覚を覚えるのは大いなる勘違いです。 こちらの本はそういった側面を全て無視し強引にねじ曲げて表現していると感じます。 >何も考える「まず神を信じなさい」というのではなく、「数学を通じて、神の存在を感じることで、理系にとっての信仰心が芽生える」という気もします。 神の定義と存在の証明をしてから話をしていただきたいです。 宗教とは本来優れた思想の流布を目的に広めるべき物です。 心の安息のみを求めた真実にはほど遠い思想の植付けや、幹部の懐が潤うような搾取行為は宗教としてあるべき姿ではないです。 宗教団体が金銭的に潤うという事は、集団洗脳と搾取を行っているという証明を自分たちでしているような物です。

回答No.4

1.根本的には、生物として、生きることが目的です。 (それに反しようとしても淘汰されて、全体としてその方向性は 維持され、それが進化として我々の本能の源泉そなっている) 2.二次的に、認識体として、精神的充足量の人生を通算した 最大化が目的です。 (それに反しようとしても、それ自体が意志の充足の追及として、 結果的に「精神的充足量の追求」から逃れられない) 3.現象的には、人類は社会生命として、自己の可能性を 社会貢献に生かすことが目的です。 (特に、上記の「精神的充足量の最大化」において、人は知らない ものを欲求できないことから、自己の生存(根源的欲求)における 社会生命性の自覚化=自律的生=助け合いとしての社会行動(愛)に よって生きることが求められる。お金や出世、虚栄心のためではなく)

kvb59euaskn9
質問者

お礼

>1.根本的には、生物として、生きることが目的です。 確かにその通りだと思います。 視点を変えて見ると全くそのような事実があると感じます。 >2.二次的に、認識体として、精神的充足量の人生を通算した最大化が目的です。 これも全くその通りかと思います。 私が病んで苦しんだとしても、それは私自身が望んでそうした事だという行為と判断出来ます。 だからこそそこに疑問を感じ得ない気持ちもあります。 >3.現象的には、人類は社会生命として、自己の可能性を社会貢献に生かすことが目的です。 理想的な考え方だと思います。 しかしこれは見方を変えると、現在社会的弱者から搾取し快適な生活を送っている一部の者を淘汰し 出し抜け行為を一切禁止するという事でもあります。 つまりこういった体制があるという事は体内のガン細胞を殺すかの如くズルした者、ズルしようとした者が 確実に自然淘汰される仕組みが構築されているわけです。 全体を見た時の幸福度や発展する速度は確かに優れていますが究極に統率された束縛された社会と捉える事も出来るのではないでしょうか。 しかしまあ賛成か反対かで言えば賛成ですね、このような思考が一般化すれば少なくとも今の世の中よりは生きやすい環境が出来るかと思います。 あなたのお答えはとても納得できる物でした。 しかしこの考え方はやはりこの世界が存在している事前提で考えられた事実を述べているだけであり、 悲しい事ですが本質的解決には至っていない、と感じました。 非常に分析的な回答で為になりました、どうもありがとうございました。 ただちょっと説明が難解ですね、もう少し分かりやすく書いていただけたら助かりました。

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