• 締切済み

いつも考えても答えの出ない悩みを持ってしまう

なんというか…哲学的な思考が好きなのかもしれませんが、生まれてきた理由や死について、存在、真実とは何か…とかいったなかなか答えの出す事が出来ない(答えを出す必要がないのかもしれない)疑問を抱いてしまいます。僕の年齢が17歳という事もあって親に相談すると「脳が発達しているんだよ」とか「大人になって忙しくなるといらない事は考えなくなる」といいますが、僕は結構無駄な事を考えてしまう自分に悩んでいるんです。こういう答えのでない疑問はどうすれば忘れる事が出来るのか教えてください。

noname#23495
noname#23495

みんなの回答

  • 99kanbaku
  • ベストアンサー率13% (4/29)
回答No.5

おはようございます。悩みについては、三島由紀夫が、自分の著書の中でこういうことを言ってたので、引用します。 「青年期の悩みは、たいがいスポーツをして汗をかいてしまえば、なくなるものだ、それでも消えない悩みは、本当の悩みだから一生かかって悩めばいい」 と、書いてます。まぁ、一生悩むのはすごいエネルギーが必要だと思いますけどね。 俺の17歳のころは、すごく頭でっかちでしたね。社会的経験が少なかったんで、自分の考えてることをひたすらノートに書いていました。 それでも、生きていくと、学校を卒業し、仕事をしたりすると、いろいろな経験をしますんで、わかってくることとかありますよ。 考えることは大事だと思いますんで、そのまま、考え続けてください。 自分の考えを外に出すことや、いろいろな本を読んだり、いろいろな経験を積んだり、人の話を聞いているうちに、また考えが変化しますんで、さらに先に進めると思います。 大事なことは、頭でっかちにならないようにすることです。自分の考えを紙などに書いて外に出すことだけでも、やっておいたほうがいいでしょう。 そして、自分の世界を広げてください。世の中には、自分が知らない世界があることを実感するといいと思います。 そうすると、考えることも変化しますんで、次のステップにいけると思います。疑問を忘れることよりも、次の次元に進むほうがプラスになると思いますし、一定の答えも出ますよ。 自分も考え続けた結果、生きる意味みたいなものは、27歳で見つけることができました。

noname#160321
noname#160321
回答No.4

大いに「正常」なのではないかと思います。 私も定年近くになってもまだ悩まされています。 17歳ですと雑用がないので純粋で「悩みの固まり」になっている頃です。 我が子も悩まされています。 ただ暗い方に走って行きそうでしたら、普通の内科で抗不安薬を処方して貰って下さい。 不安について話せば良くあることなのですぐ処方して貰えます。 考えが離れなくなってパニックになりそうになったら一錠飲んで落ち着いて下さい。 で、死についてですが、唯物論と唯心論を「混合」してしまうとパニックになってしまいます。 唯物論では人はただ居なくなるだけ。唯心論では世界が人の前から消えるだけ。と明確です。 いなくなった後の世界を考えるのは「混合」ですのでパニックになってしまいます。 m(_ _)m

  • nekowanko
  • ベストアンサー率10% (3/29)
回答No.3

私もそういう時期がありました。 私の場合はノートに文章を書きました。 タイピングではダメなようで、ボールペンで書くのがいいみたいです。 作家の石田衣良はすごくて、大学時代にノート山積み状態まで書いたそうです。 しかしそれが小説家としての原点になったというのだから頭が下がります。 文章にこだわらなくても、何らかのはけ口が必要でしょうね。

  • kyesK
  • ベストアンサー率67% (147/217)
回答No.2

無理をしてまで忘れる努力をする必要はないかな…と、私は思います。考えることの内容を、その矛先を、向きを変えることは出来ると思います。例えば好きな趣味に没頭するとか…映画を見てその世界に浸るとか、音楽を聴いてその世界に浸るとか、運動(野球でもサッカーでも何でも)で体を動かしていると、そちらのほうで思考力は忙しくなるので余計なことは考えなくなりますし、親御さんの「大人になって忙しくなるといらない事は考えなくなる」というのは、大人になって仕事が増えてくると、仕事のことでいやでも頭を使わざるを得なくなるので自然と余計な考えから距離を置くようになる、ということで、趣味に没頭するのと似たような状態になることだと思います。 質問者様は、大人と比べて考える時間の余裕が持てるほど、エネルギーがあまっているのかもしれないです。それは若い証拠なので、悩むよりもむしろ、トコトンまで考える時間を作ってみても面白いかもしれません。答えは確かに出ないでしょう、それは円周率の答えが永遠に出ないことと似ています。全てが割り切れるなんてことはまずないでしょう。それが分かってても考える。それは他人には分からない理由があるからかもしれませんし、何より今の10代の考えたり悩んだりしたことは、将来決して無駄にはならないはずです。「今考えるから意味がある」ことかもしれません。悩まないように、というより、悩んでもいいじゃないかって思います。ほどほどの悩みは自分を成長させてくれるものです。その繊細なご自身の感性を、大切にして欲しいなって私は思います。何の疑問も持たず、機械のように言われた事だけをこなす人間になってしまうほうがとても怖いです。 そして、そうやって考えたり悩んだりしながら、ご自身の足跡を残しながら人生の道を切り開いているんだということに、いつかふと、気づく時が来ると思います。無駄な考えなんて、本当はないと思います。答えの出ない、割り切れない思いをみんなどこかに持ってて、それでも道を進み続けています。割り切れないものがあると実感できて、それとともに歩む覚悟ができたら…ホンモノの大人に近づいた証拠といえるかもしれません。人生、お互いがんばって歩いていきましょう…!

noname#23495
質問者

お礼

こんばんわkyesKさん 答えの無い問いに自分だけが立ち向かっているような気がしていたのですが、kyesKさんの助言でとても励まされました。僕は自分が思っていた以上に未熟だったのかもしれません。それと、完全に答えが出ていて完成されている世界を想像してみたのですが、それはそれでイヤな感じだな~と思いました。最後に応援ありがとうございました。お互い頑張って生きましょう

回答No.1

こんにちは 私も未だに寝る前などに考えてしまい、怖くなって考えることを止めてしまうことがあります(今年33歳なんですが^^;) 生きている以上生まれてきた理由や死について考えることは、ごく自然だと思います また答えは考える人によって様々だと思います 私の場合は、哲学的なことだけでは無く、どんなくだらないことでも他の知識も吸収していくことが必要だと考えます 歴史・宗教・政治や、マンガやテレビ、果てはお笑いなど、何であっても答えの材料になります また他人との触れ合いの中で、自分以外の人の人生観や物の見方がわかると、また考える材料ができ(身近では両親や兄弟など)、そういった積み重ねで、答えが導けるのだと思います 私も私なりの答えが、全てではありませんがあります これをこの場で発表しても、それは私の意見でしかないので、nao-kunnさんには、その答えを導くところから頑張ってもらいたいと思います ちなみに「大人になって忙しくなるといらない事は考えなくなる」というのは本当だと思いますが「いらない事」を考えられる余裕を持った人間になりたいと私は思っています

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