• ベストアンサー

人びとは やる気があるのか 哲学。

 哲学をやる気が そもそもあるのだろうか 人びとは?  理由を添えて おのが結論を述べる。互いに。  推論の緻密さとうつくしさを言わば競うのではないだろうか?  そうではなく おまえのかあちゃん 出べそとたわごとを叫んだり  あの子が欲しい あの子ぢゃわからんという花一匁をやっているに過ぎない。  のではないか?   シコーテーシでどうしてこのカテなのか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

たぶん自分も同じような自意識を持っていますが 個人がある集団と向き合う時に、その集団に張り合うため、その集団全体のダメなところをあげつらう、「お前らここがダメじゃないか」というやり方がいいかどうかですね。「俺くらいちゃんとできる奴はいないのか!」上司の説教に近いです。集団関係としてやっていいのかどうかはまだ思案中ですので、参考になる考察があればいいなと思います。前も上司の説教の問題を考えた記憶があるんですが、忘れてしまいました。もしかすると、カリスマ性のある人だったら言ってもいいのかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 たぶん 哲学の《始動》は 現状におけるいい所とあまり芳しくない所とを捉えそれらの成り立ちや原因を分析することにあるのではないか。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~  理由を添えて おのが結論を述べる。互いに。  推論の緻密さとうつくしさを言わば競うのではないだろうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と まづは思いました。  のうばうんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  つまり おっしゃるところの  ★ 「俺くらいちゃんとできる奴はいないのか!」上司の説教に近いです。  ☆ なる領域は 《始動》からの《本論》であり 哲学の実践編ですね。  そして ここの場では 実践編についてもその事後の認識としての報告のようなものになりますね。  とは思いました。  ★ もしかすると、カリスマ性のある人だったら言ってもいいのかもしれません。  ☆ といった実践編で考えておられるのですね。わたしは たのもしいと思います。単純に頼もしいと思います。失敗は何ごとにも付きものですから 失敗・成功の問題ではないとも思います。ので そう言ってよいと思います。  そして同じ程度に 《始動》編についてもチカラをそそいでもよいのではないか。こうも思いました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (7)

回答No.8

余興として、知的SMショーを演じるのは哲学そのものは汚さないよ。 全員参加ならM嬢も受け入れなければね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 知的SMショー / M嬢  ☆ これは 哲学を汚さないのではなく 哲学にまだかかわっていない。  ぎゃくに言うと そのショーを演じる人間であろうと誰であろうと いい内容の哲学があるかどうかだけが問題です。  ご回答をありがとうございます。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.7

>哲学をやる気が そもそもあるのだろうか 人びとは? :うん?だから言われなくてもしてるってば。生きてるし。 こんばんはでした。 https://www.youtube.com/watch?v=oaHBeFEScz8  

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ わたしの場合は 哲学しているところは 既存の理論のぶっ壊しなんですけれど。  だから 人びとは 《伝統》の定説と常識とにたっぷり浸り過ぎなのではないか? と焦っているわけです。  ご回答をありがとうございます。こんばんはでした。  《ありがとう》を持ち出すのは 物分かりが良すぎます。ぷらぽ先生みたい。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#210533
noname#210533
回答No.6

こんにちは。 ぶっ壊れる、というのは別に悪意でも挨拶でもありません。 そのままを書いただけです。理性的とは言い難い罵詈雑言に近い言葉なので。 ★ 全く、実に全くあなたの思う通りにならないのでしょう? ☆ これは 話が違います。そもそも世界が 自分の思うようにならないのは 世の常です。   誰にとっても同じでしょう。 re:  私の問いがきちんと理解されていません。社会一般論を問うたのではなく、  あなたがこの質問を書いた個人的な動機を訊いたのです。  ご自分を世間一般に紛れさせてしまってはあなたが私から見えなくなります。  私は、あなたという一個人に話しかけたのです。  ちゃんとあなたとして話して頂かないと。  ★ 全てはあなた以外の人間が愚かだから?  ☆ ということから始まる推量は ぜんぶ外れています。前提が違うからです。 re:  これもよくあなたがやる手なのでスルーです。まず、相手の意見を全否定してから、  独自の主張らしいものを書き始める。  これではダメです。相手の質問には答えないと対話が成立しません。  しかも推量では無く、問いを書いたに過ぎません。  おまけにそれは、私ではなくあなたが書いた問いの趣旨です。  自分で書かれた言葉を否定しては話になりません。だからダメです。  「推論の緻密さとうつくしさを言わば競うのではないだろうか?」  これは一見正しいように見えて、大きな誤りをいくつも含んでいます。  昔からよく勘違いされる、自称天才が陥りやすい独りよがりです。  ここを越えられないと、そもそも他人の姿が見えません。  若者にはよくあることですが、あなたのような高齢の方が、こういった  未熟な自尊念慮に視座を置くのは非常に違和感を感じます。  私が勝手に高齢者は熟成した人格を持つべき、と虚しい期待感を抱えて  いるだけかも知れませんが。  日比野さん。  対話というのは、相手の話をきちんと理解し合う為にするものです。  一方的に優劣をつける前提でなされるものは、対話ではありません。  それは先生が生徒に対して行う講義・講釈に過ぎません。  あなたと「人々」は対等です。 例えば、私はあなたの生徒ではないし、  敵でも味方でもありません。  「人びとは やる気があるのか 哲学。」  無論、この「人々」が意味するものは「私・ブラジュロンヌ、及び  私が認めた知性ある者、以外の全ての人々」という意味ですね?  せめて、この程度の質問には正直に答えてもらいたいものです。  これに異を唱えるなら、最早、共通理解の確認が不可能になります。  前提となる言葉を、互いに共有していることを互いに確認出来ねば、  対話など成り立つわけがありません。  その後の「ということから始まる推量はぜんぶ外れています。  前提が違うからです。」は、前回も書きましたが、まるであなたが  ご自身について書かれているように見えるのです。  繰り返しますが、「人々は、哲学をやる気があるのか?」という  あなたの訴えについて、  「その人々って誰のこと?まるで先生が勉強しない生徒を嘆いて   いるように振る舞っているあなたは、自分を人類の哲学の教師と   思っているの? 自分のことは、どう見ているの?」   という問いかけをしているのです。  推量など、これっぼっちもしていません。あなたが、そう決めつけるだけです。  私は問うているに過ぎません。  あなたについてあなたがどう思っているのか、あなたを理解しない人々に  ついて、あなたがどう思ってるのか。  ただ それだけを訊いているに過ぎません。  >>>「しかも前提の違うそちらの土俵で勝負におよびます。」 re:   あなたは数年前に私にこう言いました。   ふふん、返り討ちにしてやる。腕が鳴るわい、とね。   何の質問だったかは覚えていませんが、正直一気に引きました。   自分は天才だ!という意識全開のティーンエイジなら判るけれど、教鞭を取り、   本まで出しているあなたは還暦を大分過ぎた円熟の域のお歳です。   それが、「俺こそが偉いのだ!」という青臭い怪気炎を未だに上げていらっしゃる。   そんなことは言っていないと反論しても、それは無意味です。   それは他人があなたの心を見透かすもので、あなた自身にその自覚があれば   議論を勝負などと、低次元(所詮、哲学的思考などではなく、単なる個人的動機、   という意味で)な争いを求めるはずはないからです。   回答者を頭ごなしに否定し、ではその話がちゃんと理解できているかというと   判らないところは「そんなことに大した意味はない」と読み飛ばし、問いにも   誠実に答えず、あっという間に10倍の「あなたの聖書」を書き殴る。   対話、ではなく、勝負、とあなたが常日頃考えているのは、優劣を決する闘いが   人間の真のコミュニケーションだ、という自信過剰で孤高を気取る「喧嘩腰」で   あることを、少なくと多数の回答者が指摘しています。   真摯にそれに応じないのでは、「この人は人の話を全く聞く気が無いばかりか、   判った振りをして否定する極めて嫌らしい人物だ」と見られて、多くの人々が   あなたに背を向けて立ち去ってしまうのは当然のことだと思います。     まあ、脊髄反射で得意の反論を書かずに、落ち着いて静かに、無私の気持ちに   なって、対岸から自分を見たらどう見えるかについて沈思黙考してください。   何様のつもりだ、俺を誰だと思ってる!というような個人的感情は置いといて、   本当の知性ある人というのは、70になろうが100になろうが、自分を他人によって   変化させていける柔軟性を維持しているはずです。   あなたはまるで哲学や宗教について人々に「オシエ」を考えさせて、自分は   明確な立場と見解の結論を示さずに韜晦し、生徒を見下ろして「もっと考えたまえ、   未熟な生徒たちよ」とやりたいだけの可哀想な人に見えます。   多くの「生徒」に相手にされず、自分を変えられず、明確な立場を取って責任を   背負う覚悟も無く、ただ自尊に固執するだけ。 そんな先生、よくいますよね。  ☆ かんたんです。わたしの文章(つまり わたしの思想)が そのどちらをも含む幅を持つということです。見る人読む人によって いろいろに幅が現われて来る。です。 全然簡単ではありません。それを一人合点というのです。 何故なら、あなたの文章を読む人によって好意的にも批判的にも解釈できる、 ということなら、当然、いかなる回答者にもそれは当てはまるのです。 あなた一人が特別に全てを含む幅を持つ訳ではありません。 あなたが理解できずに、取るに足りないものと断じた意見・見解にもまた、様々な 捉え方が出来る「幅」があるのです。 あなたは、自分の考えを「どこからでも かかってこい!」と肩に力を入れ過ぎたせいで、他者の言葉の中に広がる世界観も その人となりの言葉の重みも、何一つ吟じることも味わうことも無く、投げ捨てて しまう。 良く、美食家を気取る人が大きなマグロの、ほんのわずかな部位のみを取り上げ、 さもありがたい高貴なるもの、これを食して味わえる我はなんと気高い人間なのか、 お前達凡人は畏怖してひれ伏せ、崇め奉れと云った風情で薀蓄垂れたりしますが、 マグロの命、重み、そして旨みを知る漁師の足元に、それこそひれ伏すべきです。 以前にも書きましたが、いずれ影も形も無く滅び去るあなたです。 無論、あなただけではなく、誰でも同じ。 だから、自分が世界から様々なものを与えられて出来上がったように、今度は自分が 世界に返していく。 そのためには、言葉を勝負と捉え、自分と他人を優劣をつけるようなことばかり していたのでは、言葉の通じない孤独な老人として益々盲目になってしまうと 思います。 こうして色々書いていても、私の見解もまた、誰かから見れば「それは違うと思う。」と 見られるでしょう。 私が懲りもせずに書くあなたに、稀にでも応えようとすることにも、私の個人的な 動機があります。 それを推し量り、そのズレたピントや合理性の欠陥を指摘する人もいるでしょう。 自分が否定された、という脊髄反射ではなく、理性的な批判について、ちゃんと 冷静になって読んでみれば、「うーん、確かにあたしが間違ってる、というのも 一理あるわね・・・」とうなずくしかないことも多々あります。 それは、批判であっても理性と優しさを併せ持つ・・・品位と呼べばよいでしょうか。 品位ある批判に対しては、こちらも襟を正して素直に心を開ける。 言葉が通じる、通じないということは、共通の理解、共通の言葉を使うのは 当然として、相手が自分を殺そうとしているのか、活かそうとしているのか、 それらを含む人格の品位も大きく影響します。 他人を理解し、自分の無知を認め、その知を持つ者にそれなりの敬意を払い、 自分も相手から学ぶのだ、という謙虚な姿勢が持てなければ、いつまでも 人は孤独なままです。 また同じことを書きますが、無私・多利であることを是とする思想の 優れている点を、ご理解いただけますか? あなた以外の人々が愚かなのか? それともあなたこそが愚かなのか? まだあなたは答えておられません。 簡単な二者択一なのに、あなたは立場を表明する勇気を未だに持てずに いるようです。 一体、誰が、愚かなのですか? 今一度、あなたに問います。 愚かなのは、誰、ですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ぶっ壊れる、というのは別に悪意でも挨拶でもありません。 / そのままを書いただけです。  ☆ ですから こちらは《あいさつとして受け留めておく》振る舞いに出ました。  さしづめ 《あなたは 〔常識や定説を〕ぶっ壊しますね》といったあいさつと受け取ったわけです。そのとおりです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   ★★ 全く、実に全くあなたの思う通りにならないのでしょう?  社会一般論を問うたのではなく、  あなたがこの質問を書いた個人的な動機を訊いたのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから たとえば次のような《進展》としては《思うとおりになっている》という含みをもってお応えしています。     ・ どうしようもないアラシと呼ぶ投稿が 数年前とくらべれば 格段に減っている。   ・ シコーテーシの投稿であっても 多少は質問者に対してのわづかな気配りが混ざって来ている。   ・ つまり 悪質な内容が減って来ており なおシコーテーシであるが 言ってみれば良質のものへと変わって来ている。  この《思うとおりになる・ならない》問題はこのあと尾を引いているようですが すでに答え得たわけです。前提が異なります。  ★ 対話というのは、相手の話をきちんと理解し合う為にするものです。 / 一方的に優劣をつける前提でなされるものは、対話ではありません。  ☆ (あ) この質疑応答の場で言う《対話》は 或る主題をめぐって互いに問い求めをおこなう――つまり 情報交換をおこなう――とき互いに用いる形式です。微妙ですが そういった理解に立ちます。  (い) 繰り返しましょう。《相手の話をきちんと理解し合う為にするもの》を 一定の質問のもとに互いに問い求めるために用いる。です。  (う) 《競う》と言ったからと言って 《優劣をつける前提》があるとは限らないでしょう。特には 結論についてよりも推論について言っているからには 或る種の仕方で互いに自由にその発想や表現の妙を競うという〔或る種の〕あそびのことです。舌足らずだったとすれば あやまりますが それほどのことではないでしょう。〔と断定しておきます〕。  (え) 精確を期して重ねて述べます。《主題を互いに一定の課題と見做しその解明に向けて問い求めを実行する。そのとき対話というかたちを用いる》 これが 基本です。互いに相手の言い分を理解しあって問い求めをすすめるとき その《推論の緻密さやうつくしさを競う》ことがあって何のおかしいところがありましょうか。問題は 課題の解明にあります。その過程における道草です。  次はお答えするには及ばないでしょう。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  それは先生が生徒に対して行う講義・講釈に過ぎません。  あなたと「人々」は対等です。 例えば、私はあなたの生徒ではないし、  敵でも味方でもありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   「人びとは やる気があるのか 哲学。」  無論、この「人々」が意味するものは「私・ブラジュロンヌ、及び  私が認めた知性ある者、以外の全ての人々」という意味ですね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その解釈は わたしの本意ではありませんが そう採ってもらってかまいません。  質問者の意図は あくまで漠然とした《人びと一般》です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  繰り返しますが、「人々は、哲学をやる気があるのか?」という  あなたの訴えについて、   「その人々って誰のこと?まるで先生が勉強しない生徒を嘆いて   いるように振る舞っているあなたは、自分を人類の哲学の教師と   思っているの? 自分のことは、どう見ているの?」  という問いかけをしているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それでも かまいません。そういう解釈の余地を残していたとすれば その余地にしたがって解釈してもらって結構だという意味です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  あなたについてあなたがどう思っているのか、あなたを理解しない人々に  ついて、あなたがどう思ってるのか。  ただ それだけを訊いているに過ぎません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ どうも思っていません。これから百年・千年経っても わたしを理解しない人びとはいるでしょう。数はどうであるにせよ。ただ それだけのことだと思っています。  そんなことは いちいち述べなくても分かり切ったことだと思っています。  わたしは  ★ 教鞭を取り  ☆ の経験はありませんよ。  ただし  ★ それが、「俺こそが偉いのだ!」という青臭い怪気炎を未だに上げていらっしゃる。 / そんなことは言っていないと反論しても、それは無意味です。  ☆ と言われてしまうことについては その中身でかまいません。但し書きもしません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対話、ではなく、勝負、とあなたが常日頃考えているのは、優劣を決する闘いが  人間の真のコミュニケーションだ、という自信過剰で孤高を気取る「喧嘩腰」で  あることを、少なくと多数の回答者が指摘しています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (お) 基本は 或る主題をめぐるその解明であり 相手といっしょにすすめる場合には 情報交換としての対話によっておこないます。  (か) そうしてそこに わたしの場合は おまけがつきます。それは 常識や定説に異をとなえるという自説を得るに到ったことより――なぜなら 既存の理論や思想は すでに固まってしまっています―― 言わばそれらに挑戦するという姿勢をおのづと採っている場合が多い。あるいは ほとんどの場合がそうなります。ということは みとめます。  (き) ゴータマ・ブッダしかり。信仰に相い対する宗教の場合もしかり。あるいはつまりそのオシエとさらにはそのオシエに対するアンチテーゼとの両方に対して いどみます。カトリックもプロテスタントも あるいはM.ヱーバーもニーチェも しかりしかりです。  (く) 戦いやケンカのためになら こういったチャレンジはしません。  (け) ぢゃあ誇りますが ここでブディズムについては ゴータマ氏のマチガイについてかなり知られて来ている。そのことにわたしのブディズム批判は 貢献していると言えるはずです。そういう問題として・そういう見方から わたしの振る舞いを捉えて欲しい。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あなたはまるで哲学や宗教について人々に「オシエ」を考えさせて、自分は  明確な立場と見解の結論を示さずに韜晦し、生徒を見下ろして「もっと考えたまえ、  未熟な生徒たちよ」とやりたいだけの可哀想な人に見えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (こ) これはあり得ません。わたしは 知っていることについては――相手に応じてという条件はつきますが――ぜんぶ明らかにしていますし 知らないことは知らないと言っています。  (さ) むかし マッチポンプだと言われたようなことがありました。(ような と言ったのは間接的な批判だったからです)。つまりそれに対しては いやいやそれも言うなら《ポンプマッチ》だと言ってやりました。初めに答えをしっかりと――むろんたたき台として――提出して話を始めています。そのあと回答者とのあいだに互いの批判が繰り広げられるというだけの話です。  (し) ただし 答えが分からない場合にも 質問を立てます。《韜晦》はありません。  ★ 無私・多利であることを是とする思想の / 優れている点を、ご理解いただけますか?  ☆ (す) わたしは 筋がちがいます。主題を取り上げ 問題として互いに取り決め その解明その答えの問い求めにいっしょに向かう。こういう姿勢ですから そのとき問題になるのは 推論と答えがどれだけ妥当であるかが 基本です。  (せ) その意味は 探究者が《無私》だろうが《有私》だろうが《利己だろうか利他だろうが》どんな思想を持っているかには構わないということです。問題の解明が もとめるものです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  一体、誰が、愚かなのですか?  今一度、あなたに問います。  愚かなのは、誰、ですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (そ) そりゃあ ここまでしつこいあなたでしょう。しかもあなただけが でしょう。  

bragelonne
質問者

補足

 ほかの質問をしたくなったのでここは閉じます。  関連質問をしていますので もしつづきがありましたら そちらへお願いします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#210533
noname#210533
回答No.5

時々、ぶっこわれますね。 簡単な問いをあなたに。 何故、これほどまでに膨大な文章を書き続けても 全く、実に全くあなたの思う通りにならないのでしょう? 全てはあなた以外の人間が愚かだから? それとも、誰よりもあなたが愚かだから? 今回の質問(?)に書かれていることは、そっくりそのまま、 あなたの姿に見えるのは、多分私だけでは無い筈です。 何故、あなたは、他人から相手にされないのですか? 否定なさらないでくださいね。 これでも割と優しい気持ちで書いているんですから。 相手にされないからこそ、時々こうしてぶっ壊れるんですからね。 せめて、ご自分に嘘はつかないでください。 全てはあなた以外の人間が愚かだから? それとも、誰よりもあなたが愚かだから? とても、簡単な問いです。 シンプルに答えてくださいね。 私に、伝わるように。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  誤解があるようです。  ★ 時々、ぶっこわれますね。  ☆ あいさつとして受け留めて 反論には及ぶまいとします。  ★ 全く、実に全くあなたの思う通りにならないのでしょう?  ☆ これは 話が違います。  そもそも世界が 自分の思うようにならないのは 世の常です。誰にとっても同じでしょう。  こちらが思うようにならないなぁと思うその人びとの反応は 理解できるものである。とすれば 思う通りにコトが運んでいるのであり 世界は動いているわけです。  いまはこのように抽象的な表現にとどめます。(だから 検証しがたいと言われても仕方がないのを承知の上でです)。  ですから  ★ 全てはあなた以外の人間が愚かだから?  ☆ ということから始まる推量は ぜんぶ外れています。前提が違うからです。  ですが さきほど言ったように 検証しがたい話でここまでをみちびいて来ているに過ぎないのでなお行論に沿っておつきあいします。  しかも前提の違うそちらの土俵で勝負におよびます。:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  全てはあなた以外の人間が愚かだから?  それとも、誰よりもあなたが愚かだから?  とても、簡単な問いです。  シンプルに答えてくださいね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ かんたんです。わたしの文章(つまり わたしの思想)が そのどちらをも含む幅を持つということです。見る人読む人によって いろいろに幅が現われて来る。です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#260418
noname#260418
回答No.4

興味はありましたが、 哲学にはたくさんの学問が 内包していますね。 私にはむずかしすぎて理解できないだろう と思っていたし、まず哲学の本を 読む前に哲学用語の辞書が必要だと 聞いて気が遠くなりました。 母国語である日本語でさえ まともにつかえないので。 なんでもかんでも「哲学」、「思想」、 「芸術」といえば許されるものでも なく、括ることはできないと思っていましたが、 bragelonneさんの質問文を読んで やる気がでました。 とにかく自由なんですね。 論拠があろうがなかろうが、 伝わらなくても「世間が解らないから」 と解釈。やる気がでました。 人々とは?お手本になりますね。 哲学やりましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 よく読み取れないでいます。  まづは すゐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  とにかく自由なんですね。  論拠があろうがなかろうが、  伝わらなくても「世間が解らないから」  と解釈。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 自由です。無条件に自由です。表現の自由から来ているのでしょう。そしてそれは 自由意志――意志による選択の自由――にもとづくものなのでしょう。  (い) ただし《論拠があろうがなかろうが》というのは 乱暴すぎます。《論拠がある》のが ふつうです。  (う) 正解がひとつだとは限らない――たいていは一つですが 文脈が少し変われば正解も変わってくるでしょう――ので 論拠の妥当性やその展開のおもしろさを競うと書きました。絶対的な規則ではありません。  (え) 《伝わらなくても》は 伝えようとする側は 相手からの説明の要求にこたえてしっかりと説明することが ふつうのことです。つまり 《伝わる》ことが その意味で 前提です。《伝わらなくても》というわけではありません。  (お) 《「世間が解らないから」》は ふつうのまともな哲学の徒の採るところではありません。伝わるように伝えます。説明しつづけます。  ★ やる気がでました。  ☆(か) それは よかったです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  人々とは? お手本になりますね。  哲学やりましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (き) ここで《人びと》というのは 多くの人に見られる傾向を捉えて言っているその人びとのことです。漠然としていますが そのことであらたなに取り組むといったことが出来ると考えてのことです。  (く) 《お手本》というのは 反面教師のことでしょうか。  (け) どうぞ 哲学やってください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.3

>>哲学をやる気が そもそもあるのだろうか 人びとは? 人が疑問を抱くには行動が必要です。今までの質問者の投稿には社会性が欠片もない。 社会生活と接点のない人間の思索は妄想に等しく、無益で何も生み出さない。 >>推論の緻密さとうつくしさを言わば競うのではないだろうか? それは質問者が今までに自己満足に基づく行動をしてきただけであり、他の 一般人にとってはそうではない。病気にも酷似している妄想に犯されています。 それ以降の文章は語るまでもない。くだらない落書きに過ぎない。 質問者が行ってきたことは思考ではなくて妄想です。仮定を立てて証明する、 それが思索の目的です。行動(人生経験)という裏付けを以て証明するため、 社会的生活が必要です。それが伴わない思索のための思索を妄想というのです。 因みに、この質問文の無意味な仮名遣いと行間だけでも説明できませんか? 質問者が何かを記すたびに口語体を用いることができないのは、韜晦する事を 楽しんでいるだけで、まともに物事を考えられない逃避行動に過ぎない。 ただ、哲学カテは狂人が落書きしても、運営が日本語を理解できない可能性が あるので、ある程度は赦されるのだろう。質問者はそれに乗じているに過ぎない。 オフライン環境で落書きしてみて、その上で言葉を正確に学んで使用できるようになれば 投稿すればいい。ここでの落書きは質問者にとってのリハビリにはならない。 哲学は、議論そのものが目的ではない。それを勘違いしないように。 脳細胞が正常に稼働していることを願って、ここに記します。 可能であればご賢察を。無理を言って申し訳ないが。

bragelonne
質問者

お礼

 昔むかし そのまた昔 おれは この上なくとうとい知恵のさとりを得た だがこの知恵は人びとには分からないであろう あまりにもとうとくむつかしい と言いながら そのオシエを説くことに決めた男がいた。  言うには このおれの境地に到った者どうしにしか分からないオシエであると言う。理論と実践を終えて両者を兼ね備えた人間にしか分からない。きみたちは せいぜい励みなさい。このオシエのほかは みな妄想でありたわ言であるから おれの言うことをよく聞いて 勤めに励みなさいと。  さて いざこの世を去るとなったときには 弟子に対して なぜわしがもっと長生きしてオシエを説いてくださいと願わなかったのか? 毒茸なぞでは死なん それよりわしの長寿をおまえが願わなかったので わしはこの時までと決まってしまった このアーナンダよ どうなんだ おまえの所為だぞ どうなんだと叫び続けていたらしい。  オシエのすべては 大化城だったという。すべては まぼろしの城。人びとが 身分制のもとであまりにも辛い生活を送り悲しんでいるゆえ 少しでも蜃気楼をでも見せてやりたかったのだと告白した。  だから オシエを明らかにしたような感じになっているが そのすべては せいぜいが建物やその内部の問題ではなくそれを建設するための足場であった。中身はなく外形的な輪郭を述べたに過ぎない。薬はなくその能書きをならべたに過ぎない。  シコーテーシの頭に  ★ 無理を言って申し訳ないが 可能であればご賢察を。  

bragelonne
質問者

補足

 おもしろいから言っておきますが  ★ 韜晦  ☆ というのは その人に識見や知恵があることを前提にして言う言葉ですよ。  まぁ わたしをうやまってそう言っているのかも知れませんが。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#208133
noname#208133
回答No.1

哲学をしなければならないという事は無いだけです・・・ 産まれてから すぐに亡くなる人だって居る訳なのだから 勉強なんて 人生に於いては不要な人も居るのですよ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 哲学をしないということでしょうか?  哲学をしない者が哲学カテに出入りして何がわるい? という意味でしょうか。  よいようには感じませんが わるくはないと言っておきましょうか。  気がすみましたか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。

     開かれた自由なコミュニケーションという哲学の精神に反する。  対話の相手に例外をつくることは 哲学する人の思いにも心にもなじまない。  万機公論に決すべしという方針に似つかわしくない。  この理由で――昔はわたしもおこなっていましたが―― 哲学カテにとっては ふさわしくない。という結論を得ました。  いかがでしょう?

  • なぜ人びとは けんかをしないのか?

     なぜ人びとは――マドモアゼル・紗江のように―― けんかをしないのか?  1. 《なぜ けんかをしては いけないのか?》という質問をしたことがあります。  ○ (趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を 憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. そこでのべストアンサーを掲げます。それを出発点にするのがよいと考えました。ながいですが 検討してみてください。  ○ (べストアンサー) ~~~~~~~~~~~~~~  3. 口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ま しですし、  競いあうようなスポーツは嫌ですが、  絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、  4. 自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。 自身との絶縁ですから、  自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと 思います。  自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対 象です。  口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになり そうなので。  5. 自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かない かもしれません。つつましいでしょうし。  けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己 批判するスキルがないということなのでしょうか、  6. 互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開 示しあうのが良いのかもしれません。  互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。  ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。  頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもする のが良いのだと思います。  7. 徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、 したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、  自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、  自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、  ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれ ませんし、  思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や 集団や情報ばかりが満ちていますし、  ・・・(あと省略します)・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  8. このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。    9. それが 哲学としての対話である。そう考えるという意味です。  むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。    10. さて 対等で自由な・《感情論理》を避けた建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。なぜ そうしないのか? という問いです。  11. ▲(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:感情論理(読み)かんじょうろんり(英語表記)logique de sentiment; affective logic)~~~~  12.. 論理的な筋道をたどっているようにみえながら,感情的な因子が思考の過程やその方向を規定しているような場合に,感情論理が働いているという。  13.  T.A.リボーによれば,理性の論理は結論に向うのに対して,感情論理は目的に向うとされる。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  14. 吾人は 塚原・ロジックから――さらには クウキ・マジックから――自由にならんことを!

  • やはり宗教カテは残すべきであった

      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。  

  • 人がうたがうのは おのれの思いや考えと違うからだ。

     疑問質問を投げかけるのは 自己主張でないものはない。  ――と知るべきである。  その自己主張をやめよという自己主張は ほんとうにはあり得ない。生きるのをよせと言っていることでしかないからである。  多少とも自己主張がよわまっているという場合がある。それは 自分の考えが成熟していないときである。  けれども どの場合にも 人はつつしんでおのれの疑いについて晴らしたいと思っている。ゆえに問いかける。  もしこれをしないという人は すでにすべてを知っているということになる。  そのことを指摘してやるのだけれど 耳を貸さない。ゆえに放っておくしかなくなっている。それだけである。  成熟した思想を持っている場合にも 人それぞれであり 世の中には互いに違った考えがある。だから 互いに自由に自己主張をおこない合い その交わりの中からよりよい方法を編み出してゆく。  これしか おのれと社会のためになる道はないではないか。  何を血迷ったことを 人びとは言っているのだろう。  ご教示ください。  * まったく知らないことについておしえを乞うのは おのれの考えをつくる前段階のことである。  哲学以外のカテでは そのような前段階にとどまる質問がありうる。  いわゆる価値判断をひかえてまづ事実認識に徹するという段階のことでもある。  哲学もその認識作業の段階で とどめるべきだというのも 自己主張である。  だから 互いに交わりを持って その結論を模索しなければならない。  さもなければ全知の人が その答えをずばりと明らかにすればよい。  ただし《全知》の人の言うことが すべてただしいとは限らないというのが 人間のおもしろさではなかろうか。  

  • それなりに順調な人生なのですが、やる気が出ません

    それなりに順調な人生なのですが、やる気が出ません。 やる気が出ないことに嫌気がさして、人生がちっとも楽しくありません。 気が付いたこと徒然と書いていく自分語りになると思うので、お見苦しい点も多いかと思いますが、ご了承ください。 ------以下、自分語り 趣味は沢山ありますが、何か1つ打ち込めるもの、と言われると有りません。 本当に多趣味であると言われます。 中高は新学校の男子校、大学は私立マーチレベル、そのまま推薦で大学院へ 就活は4月には一流企業に内定を貰い、それなりに順調。 家庭環境は一人っ子なのもあり、多少過保護な程度かと。 友人は中高時代の親友が数名と大学・大学院での友人(心から友人だとは思っていません)が沢山 います。 能力が高いわけではないですが、IQが140程度有り、ある程度の仕事は他人の数倍効率よく、 手抜きをする能力がとても高いです。 アウトプットの成果物は常に上位1~2割に入る程度の能力を持っています。 真面目系屑の典型的なパターンではないかと自己分析しています。 現在、周りの人間はプロセス重視の方が多く、とてもじゃないですが認められていません。 内定先の企業はレベルが高く、自分が持っているのは悪い意味での効率重視のみ(手抜きとも)なのでついていける気がしません。 10月1日の内定式、および内定者研修が憂鬱です。 部活やサークル、バイトなどは面倒なのでまったくやっていません。 お金はギャンブルなどで自給2~3000円程度なら簡単に稼げているので学生のうちは問題ないです。 恋愛経験は少なめです。経験人数は一人です。 中高時代の恋愛はとてもプラトニックなもので、女友達とほとんど変わらないかもしれません。 周りの中高時代の恋愛を聞いていると羨ましく(妬ましく)思うことも多いです。 大学に入ってからは、片思いが多く、実際に付き合えたのは一人です。 就活や大学院での生活が忙しいなどの理由から分かれてしまい、現在はフリーです。 -----ここまで自分語り とにかくやる気がでない このまま就職してやっていけるのか そもそも修士論文をまとめ卒業することができるのか 周りのみんなは何にモチベーションを感じ生きているのか 忙しく自分を追い込むことで悩みを持たないというのは根本的に間違っていると思うこと 哲学的な発想が周りに理解されにくいこと 哲学的な発想をする親友の言っていることを聞くとそれはそれでイライラすること やりたいことが沢山ありすぎて結局なにもやらないこと ダラダラするのが好きなこと 趣味の合う可愛い女の子と付き合いたいですチュッチュ このあたりの悩みを一掃して下さる方いらっしゃいませんかね? 縦読みとかありません。真面目な質問です。 自分の悩みを吐き出してみました。よろしくお願いします。

  • 自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?

     《自己主張》を含まない哲学の文章はあり得ません。そうでない資料を得たいのなら 百科事典を担うヱブサイトを見れば済むことです。  なのにそのような自己表現のかたちをなじるクセが この哲学のカテゴリにおいて見かけます。いったいどういう事情でしょうか?  むろん なじることも 自己主張のたぐいです。そしてこのカテで見かけるナジリは 自己主張をするなという中身つまりそういう自己主張であるものが多いようです。  これは 日本人のくせであると捉えますが さらにその事情について明らかにしてくださいませんか?    *  重ねて説明を添えます。    哲学カテでは ほかのカテと違って たとえばこれこれの著書を書いたのは誰であるか おしえてといった質問はあり得ないと言ったほうがよいでしょう。  ならば 自分の考えあるいは自分の境地までをも回答の中に はっきりと明らかにする場合はもちろんのこと 暗黙の内にでも含ませたことになることは 議論の余地のないことだと考えます。  あるいはつまり ほかのカテにおけるような知識情報の供給であっても そもそも文章はすべてその人の自己表現であるはずです。  その自己を出すな・抑えろというのは 前へならえ! 右向け 右! のまぼろしの号令がなおも人びとの耳の奥には聞こえていて 勝手に手足が動いてしまうのでしょうか?  ひとつの解釈を提出しましたが 話の手がかりに 極論を考えてみたものです。  つまり 詳しい説明をせずに言い出すのですが たとえば何の根回しもせずに 権限を持つ者が突然重要な発表をするかたちを取るというのは そのあとの四面楚歌を覚悟の上の或る種の《右向け 右!》であると捉えられなくはない。こういった見方にもかかわりましょうか?  つまり四面楚歌の部分では ぎゃくに《右向け 右!》の亡霊のような号令に対して おまえはすでに死んでいる おまえの居場所は墓場なのだよと言って 追い返していることになるかも知れません。たしかにそれなら 《民主》党です。  どうぞ自由なご見解をお寄せください。  

  • 子供がやる気に満ちている

    最近、子供がとても頑張り屋で、 それはいいのですが、 そんなに頑張って大丈夫?と心配になる時もあります。 今、小学校5年生の男の子ですが、 反抗期真っ盛りです。 でも、勉強も運動も頑張っています。 中学生の兄のマネで塾にどうしても行きたいと言って 行かせる気はなかったのですが、 あまりにしつこいので、行かせました。 行かせる前にも、なぜ塾に行きたいのか、具体的な理由を持たないと 行かせられないと話し合ったところ、 私立の進学中学校に行きたいと言う目標を持ちました。 学力の高い中学なので、そのために勉強をがんばりたいそうです。 実際に塾に行ったら、意外と成績がよく、 先生も目をかけています。 運動も、かなり頑張っています。 学校でもうすぐ裁縫を習うと聞くと、 授業が始まる前に予習をしたいと言って、特訓しました。 こんなにやる気に満ちていて、親なら嬉しいところですが、 2歳上の兄が、ちょっと弟に劣等感を感じるときがあって、 それに困るのです。 兄には兄の良さもありますが、 学校の成績ベースでみると、弟の方が出来がいいです。 運動も弟の方が出来るのです。 兄はスローペースな子なので、自分のペースで頑張っているのですが、 とにかくエンジンのかかりが遅く、 やきもきしてきましたが、やっと親として子供のペースを信じる気持ちになったのです。 気持ちも兄は優しく、思いやりがある子です。 その反面、気持ちは少し弱いかもしれません。 体も弱いので、よく病気をするのは兄の方です。 弟は忙しいスケジュールもこなして、元気いっぱいです。 自分に必要のない知識を仕入れはしませんが、 今目の前にあるやるべきことに強いです。 弟のやる気を応援していますが、 兄とのバランスを考えると、 弟の方に厳しく接してしまっています。 ちょっと調子に乗りやすいので、弟の鼻高々は時々へし折ってあげないと、 人の気持ちを汲めないところもあるので、 勉強より大事なことは人への思いやりだよと教えています。 兄には、自分より頑張っていると思ったら、応援してあげることだよ。 人を引きずり降ろそうとすれば、自分も落ちていくけど、 すごいなって思う人を素直に応援すると、自分も伸びるんだよ。 兄の良さはみんなわかっているよ。 と教えています。 でも、時々やきもちなどから兄弟のバランスが崩れそうな時もあります。 このように、兄弟それぞれ頑張っていて、 その頑張りの成果が違う時、 どのように接していくことで、兄弟がお互い伸びていくのでしょうか? 参考意見お願いします。

  • 日本人は コギトではなく コギターレを思っているか

     1. 日本人は コギト( Cogito = Je pense. = I think. =我れが考える。)ではなく コギターレ(cogitare = penser = to think = 考える)を思っている。のではないか?  それは なせか?  2. 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか?  何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか?  3. もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが 誰かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていないか?  4. まさか!? であろうか?  5. まさかでなければ このようにうたがわれる心的現象について なぜそうなるのか?   この問いについてくわしい方におしえを乞います。どうぞよろしく。  6. 考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは はしたない・見っともない》と思うところのつつしみ深さでしょうか?  7. いわゆるホンネで自分の考えを言っても 相手にされない。あるいは 出る杭を打たれるだけだ。というような事情があるのでしょうか。  8. でも何故 そうなのか? つまり一般の人びとについてならまだ分かりますが 哲学カテにおいて何故そうなのか? 解せません。  9. 誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成していて いくつかのお上のお墨付きの思考パターンが用意されていて それらにもとづく表現なら 互いに何となく分かり合えて 安心していられる。何を考えたかよりも その寄り合いに常識に沿った参加をして自分の所在を互いにみとめてもらう。天下泰平なるかな! でしょうか?

  • 面倒見たい子とセットで付いてるカンベンして欲しい子

    抽象的に記述することをお許し下さい。 自分より、若い子で、「ご指導よろしくお願いします!」みたいな姿勢で来る子がいるとするじゃないですか。 (お互いに雇用されてる状態のいわゆる仕事での場ではありません。) (子というのは、21歳くらいと想像して下さい。) 私が目を行き届かせるの場で、知りたい、学びたいものがあるのならば、無償であってもいいし、 少しここに居て、見て聞いて感じてみなよ。と思います。(そんな大した指導は出来ませんが。) そんな風に、少しでも何かこの子に良い経験をさせてあげることが出来たら。。と思います。 でも、その子について来た子。(友だちだかなんだか知らないけど) そんなには、別に、この件について興味もなく、話や説明もしようとしても聞き流し風。 熱意の感じる子は、いいけど、、、なんでやる気の無いオマエにまで、経験の場をお膳立てしなきゃならないの?と思ってしまうわけです。 むしろ、吸収する気が無ければ来なきゃ良いと思います。(他にもやりたい人は多いんだし。) ※ 私は、後進を指導をする立場の職業ではありません。あくまで任意です。 一人じゃイヤ。友だちと一緒が良いなんて、女の子感覚もあるんでしょうけど、 このやる気のある子に良い経験をして帰ってもらいたいという気持ちと、とりあえずついて来た子に注ぐ空しさを自分の中でどう結論付けて、納得したらいいか考えています。 何かヒントをお願いします。  

  • これでいいのか自信がありません。

    つい最近2年半付き合っていた彼と別れました。 別れた理由は同じようなけんかを繰り返し、お互いに成長していないんじゃないかということでした。好きな気持ちはお互いにあるのですが、今一緒にいてもけんかが絶えなくなるし、嫌な思いをするので、離れたほうがいいのではないかと思い結論にいたりました。けど、お互いに好きな気持ちは変わっていないので、これでいいのか自信がありません。好きな気持ちがあるならやっていけるんじゃないのかと思ってしまいます。ただ、別れるという結論が出たくらいなので、この関係を見直して自分自身の悪い点を直さないと、たとえ戻ったとしてもまた関係が崩れてしまうような気がします。 できることなら、いろいろなことを考え、自分自身の悪かったところも見直して、もう一度付き合いたいなと思います。けど、時間を空けている間に彼に新しい子ができてしまうのが怖いです。考える時間が必要ですが、とても複雑な気持ちです。 私のこのような状況を聞いてアドバイスのできる方お願いします。

このQ&Aのポイント
  • EP805-ARを用いた年賀状のハガキ印刷に困っています。ハガキ印刷を選択してもA4用紙でしか印刷できず、設定画面も表示されません。
  • 今まで郵便局のはがきデザインキットを使用して印刷していましたが、今年からpdfまでは作成できるようになりましたが、ハガキ印刷ができない問題に直面しています。
  • ハガキ印刷を行う際には、単に用紙設定をハガキにすれば済むと思っていましたが、EP805-ARではA4用紙でしか印刷できず、設定画面も表示されません。困っています。
回答を見る