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日本人は コギトではなく コギターレを思っているか

 1. 日本人は コギト( Cogito = Je pense. = I think. =我れが考える。)ではなく コギターレ(cogitare = penser = to think = 考える)を思っている。のではないか?  それは なせか?  2. 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか?  何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか?  3. もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが 誰かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていないか?  4. まさか!? であろうか?  5. まさかでなければ このようにうたがわれる心的現象について なぜそうなるのか?   この問いについてくわしい方におしえを乞います。どうぞよろしく。  6. 考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは はしたない・見っともない》と思うところのつつしみ深さでしょうか?  7. いわゆるホンネで自分の考えを言っても 相手にされない。あるいは 出る杭を打たれるだけだ。というような事情があるのでしょうか。  8. でも何故 そうなのか? つまり一般の人びとについてならまだ分かりますが 哲学カテにおいて何故そうなのか? 解せません。  9. 誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成していて いくつかのお上のお墨付きの思考パターンが用意されていて それらにもとづく表現なら 互いに何となく分かり合えて 安心していられる。何を考えたかよりも その寄り合いに常識に沿った参加をして自分の所在を互いにみとめてもらう。天下泰平なるかな! でしょうか?

みんなの回答

  • sunabo
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回答No.5

no.2の回答、no.4の回答を訂正いたします。 no.2の回答の訂正 誤 回答よりも、参考URLの動画を見ていただくほうが得るものが多いです。 正 no.2の回答よりも、参考URLの動画全体のほうが良くできています。   もしかしたら、私以外の人にも得るものがあるかもしれません。   全体がつながりを持って作られています。長いので大変です。弱めにお勧めします。 no.4の回答の訂正 誤 もう一度訴えたいです。   no.2の回答での紹介動画の全体は、no.2の回答内容よりも得るものは多いです。   長いですが、中盤、後半で盛り上がります。 正 もう一度弱めに訴えたいです。   no.2の回答での紹介動画の全体は、no.2の回答内容、no.4の回答内容よりも   良くできています。   長いですが、中盤、後半で盛り上がります。   もしかしたら、私以外の人にも得るものがあるかもしれません。 下記は思うと考えるの違いについて参考になるかもしれません。 no.4の回答のお礼コメントを読んでびっくりしました。 二時間半は ひとつの主題のひとつの講義(講演)として 長い。 という部分でびっくりしてました。 私が動画を見たときは、あっというまに二時間半が過ぎました。二時間半は短い。 私はno.2の回答の参考urlの動画、すっごくいいと思っている。 だから、質問者様も、すっごくいいと思う。 でも現実の質問者様の反応は、長い。でした。 私は質問者様も、すっごくいいと思う。と信じていたのです。 (信じていたことは今わかったこどです。重ねてびっくりです。) ですが、現実の質問者様の反応が異なっていました。 そのためびっくりしたのでした。 「質問者様も、すっごくいいと思う。」は私の決め付けです。 因果関係を保持できず「だから」で、つなげることはできません。 つなげることができないとわかるためには、戻って、読み返さないといけません。 決め付けの前に、「だから」を書いちゃったからです。 読み返すのは考えることです。 私は考えが足りなかったです。 私の決め付けで、時間と頭を使わせてしまって申し訳なかった。と誤りたいです。 別のもっと大事なこと。早く寝ることができたかもしれません。 ごめんなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 いえいえ。自由な投稿 回答の内容について問題はありません。  そのうえで こちらも自由に反応いたします。  おっと まづはご回答をありがとうございます。  ですから 何がよかったのか。何をうったえたいか。これを ご自分の言葉としても明らかにしてくださればよいわけです。  ぶらじゅろんぬよ おまえさんは これこれこういう内容(複数)を見過ごしていなせえませんか? と。  そういう問題ですよ!!    西きょうじ氏の講義については 最後のところで≪フレーズ集≫が出て来ますね。  あれなどを見ると――いつもケチをつけてばかりいますが―― その時その場での自分や相手の心理をおもんぱかってコトに処する。といった思惟=行動の態度が垣間見られるんですよね。  心理というのは 心という大海の表面のことであり そこに立つ波風を問題にしている学問だと思います。  むろん 海のおもてに嵐や台風が起これば それとして心なる大海の全体の問題であるのかも知れません。(自然現象としては そうではないでしょうが 心の問題となると うわっつらの動きであっても心の奥に潜む問題の現われでありえますから)。  でも それなら そういうふうに心ないし精神の全体を対象として探究すべきだと思います。  西氏は まじめに取り組んでおられるように思います。  あるいはまた 塾講師という立ち場で学生におしえさとすような口調であり それは 学生たちに安心をあたえていると思われると同時に 一般の人びとに対しては いかがなものかという疑問も出されるでしょね。  対等ではない関係をかたちづくりがちです。おそらく 西氏はけっしてそういうつもりも・まして悪気があるなどということはないはずですが そういう教師の態度で話をすると 多かれ少なかれその目線の関係が 聴講者の心にも反映されがちになります。  この場合は そういう雰囲気の問題だけですけれど。  こんなふうに考えています。  二時間半が長いというのは 確かに二時間の講義はありますね。  そう思うと 半つまり30分だけ長いと感じるんですかね。  それでもよいとすると その30分を質疑応答に当てればよいのではないかとも思いました。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.4

もう一度訴えたいです。 no.2の回答での紹介動画の全体は、no.2の回答内容よりも得るものは多いです。 長いですが、中盤、後半で盛り上がります。 見てる途中だったり、見た後、考えてる途中だったら余計なお世話です。 その場合はごめんなさい。 このようにうたがわれる心的現象についてなぜそうなるのか? という問いへ下記のようにものすごくもーのすごく大雑把に答えます。 過去、日本語は思うことにしか使えず、考えることに使える言語ではなかった。 西洋の考える的な単語が、日本語に取り入れられた。 参考urlより引用。 新語(日本語に西洋語の概念が存在しないので、日本が新たに漢字を組合わせて作った単語)。例えば、「自由」(liberty)、「社会」(society)、「自然」(nature)、個人(individual̶) 教育により、考える的な新語が普及した。 現在、日本語は考えることにも使える言語になった。 日本人一人ひとりの中で、2つの部分が両立している。 考える的な部分と過去から引き継いだ思う的な部分である。 前者を強めるものとして、英語教育により、主語、述語を明示し、一貫した主張を保つことを身につけ、考える人が増える。さらに、日本人全体のクウキを弱める。 後者を強めるものとして、ツイッターは140文字制限なので論理展開ができず、普及すると、思う人が増える。さらに、日本人全体のクウキを強める。 とはいえ、英語教育で十分ではないし、考えることに頼りすぎるのは、思うこととの対立につながる。考える的な部分を鍛えて、考えるようになりつつ、固執せずに、考えることと思うことを適時使い分けることが重要である。 本を読め。腹で聞け。じゃがりこで顎を鍛えろ。

参考URL:
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/gengokenkyu/yakujico.html
bragelonne
質問者

お礼

 ○ 常識をうたがえ。  ○ これは問題だと思ったものをきちんと突き止める。  ○ 先生に成るな。生徒でありつづけよ。  こんなところでしょうか。    ★ 140文字制限  ☆ なら それとして意思表示を工夫して自己表現する。意思表示であって 論理展開が問題なのではなく情緒を醸し出すことが問題なのではない。  ことばは 通じるものを使えばよろしい。  論理的に表現しえない言語は まづない。  こんなところでしょうか。  ご回答をありがとうございます。  二時間半は ひとつの主題のひとつの講義(講演)として 長い。

回答No.3

自我を否定する風俗が自己の確立を阻害している。 孤立した自我に孤独感があることの反省だろう。 西洋は自我を肯定し、それが欲望の肯定にまで発展しつつあるが、社会の共生の中で孤立を体現してもいる。 これらは、俺様一番感情が人と人を結ぶ事の阻害しているからだろう。 まあいいや。 まるっきりどうでもいいことだ。 あんたの言うタコ壺だろう。 無人島サバイバルは俺様とは関係ない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  言わんとするところは汲み取れますが 表現の仕方がどうもわたしには なじめません。  ★ 西洋は自我を肯定し、それが欲望の肯定にまで発展しつつあるが、社会の共生の中で孤立を体現してもいる。  ☆ 分かりますし そういう趣旨のことをわたし自身も言っています。  けれども 欧米人は ≪自我を肯定する≫というよりは ≪〈わたし〉を肯定する≫のだと思います。  つまりは ≪わたしがわたしである≫ことをよしとするのだと思います。  つまり この≪わたし≫をわざわざ≪自我≫という別の言葉で言い表さずにはいられなかったというところに われらが日本人の≪思考≫についての問題がある。のではないでしょうか。  ≪われがわれである≫という基礎のあゆみから 確かに道を踏み外す場合も 欧米人のあいだにもあります。それによって≪人びとがかえってそれぞれ〈孤立〉状態に落ち入る≫という結果になる。元も子もない。  でもそのわれのわれへの到来は 基礎であり基本であるはずです。それが   ★ 自己の確立  ☆ なはずです。    ★ これらは、俺様一番感情が人と人を結ぶ事の阻害しているからだろう。  ☆ というふうな状態と周りの情況になっていること。孤立から今度は開き直って ぎゃくにそのような高ぶりに到るといった問題に成ること。  言わんとするところは分かります。というような反応になりましたが。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.2

質問者様のほうが、日本について考えていて、詳しいです。 回答よりも、参考URLの動画を見ていただくほうが得るものが多いです。 でも、考えてしまって、回答したくなってしまったので回答します。 質問のまとめ。 主張  日本人は知識を記憶する。 知識を記憶することは考えることではない。 日本人は知識を記憶することを考えることとしていて誤っている。 日本人は記憶した知識を思っている。 思うは考えるではない。 日本人は記憶した知識への思いを考えるとしていて誤っている。 日本人は考えない。 誰かが考えたものを知識としました。http://dictionary.goo.ne.jp/jn/141664/meaning/m0u/ 頭の中に入れ込むことを記憶するとしました。http://dictionary.goo.ne.jp/jn/50525/meaning/m0u/ 考えると思うの区別を下記に用法から引用します。  http://dictionary.goo.ne.jp/jn/47607/meaning/m0u/ [用法]かんがえる・[用法]おもう――ともに精神的な活動を表す語であるが、「考える」は知的に分析することであり、「思う」は情的、感覚的な心の働きや瞬間的な判断などを示すのに用いる。「クイズの答えを考える」とはいうが「思う」とはいわない。◇大音響を耳にしてすぐ口にするのは「雷が落ちたかと思った」であり、「考えた」ではない。 原因 自分の意見を主張するのははしたない・見っともないとするため。 つつしみ深さのため。 ホンネで自分の考えを言っても相手にされない事情があるため。 出る杭を打たれる事情があるため。 誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成しているため。 お上のお墨付きの思考パターンが用意されているため。 共通の神経回路、権力推奨の思考パターンにもとづく表現は互いに何となく分かり合えるため。 安心していられるため。 寄り合いに常識に沿った参加をするため。 自分の所在を互いにみとめてもらうため。 天下泰平なるため。  問い 日本人は知識を記憶することを考えることとしているか? 日本人は記憶した知識への思いを考えるとしているか? コミュニケーションの場ではどういう事態が起きているのか? 答え 考えるについて 考えることが良いことかどうかわかりません。 考えないほうが良いとする意見があります。 http://www.mind-artist.com/index/kotodama/kangaeru_kangaenai_which_risk.html 考えることが良いことかどうかは置いておきます。 考えることができるようになるためには、考えなければなりません。 はじめは、少しだけ考えることができます。少し考えることを繰り返すと、はじめより、ちょっと多く、ちょっとうまく考えることができるようになります。ちょっと多く、ちょっとうまく考えることを繰り返すと、ある程度考えることができるようになります。 ある程度考えることができると、思うと考えるが区別できるようになります。 ある程度考えることができると、知識を記憶すると考えるが区別できるようになります。 ある程度考えることができないと、思うと考えるが区別できません。 ある程度考えることができないと、知識を記憶することと考えることが区別できません。 ある程度考えることができて、たまたま思うと考えるを混同している人に、 思うと考えるを区別しようねと指摘し受け入れてもらえると区別してもらえるようになります。 ある程度考えることができない人。 ある程度考えることができて、区別していない人。 ある程度考えることができて、区別している人。 の3種類の人がいます。 人は考えを発言したり、思いを発言したりします。 考えを発言することは考えを促進します。 原因について 原因には発言を抑制、促進するもがあります。 下記4つの原因は考えの発言を抑制し、結果として、考えを抑制します。 自分の意見を主張するのははしたない・見っともない⇒考え、思い両方の発言を抑制 つつしみ深さ⇒考え、思い両方の発言を抑制 ホンネで自分の考えを言っても相手にされない事情⇒考えの発言を抑制 出る杭を打たれる事情⇒考え、思い両方の発言を抑制 上記4つの原因を打ち壊す事実として指摘します。 現在、日本語ラップがアツいです。マチガヒないです。ガチで。 http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791703098 テレビで日本語ラップの番組が放映されています。 http://www.tv-asahi.co.jp/freestyledungeon/ リズムが強調されたの音楽に乗せた、テンポの良い言葉の応酬で相手を打ち負かすかっこよさを競います。 他の原因はもう少し説明が欲しいです。 考えを抑制するっぽい下記2点は教育とそれ以外の区別をしてほしいです。 誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成している お上のお墨付きの思考パターンが用意されている 下記5点は考えるとの関係を明瞭にしてほしいです。 共通する神経回路、権力推奨の思考パターンにもとづく表現は互いに何となく分かり合えるため。 安心していられるため。 寄り合いに常識に沿った参加をするため。 自分の所在を互いにみとめてもらうため。 天下泰平なるため。 主張について ラテン語、フラ語、英語の主語、目的語、時制、人称を明示した形と不定形との比較を根拠としています。根拠から、日本語では主語、目的語、時制、人称を明示しないことが多いことを導き、そこから、主張を導き出しています。ならば、主張は日本語話者へのものになります。たしかに、日本は特別に、母国語話者と日本人がほぼぴったり重なります。ですが、日本語話者を日本人にすりかえてはいけません。そのために、日本社会、日本語、日本文化、日本人の遺伝的性質、地理、歴史、気候、経済のどの観点からでも問いを見ることができます。原因で補足されて範囲が狭められてはいますが不十分です。問いが不明瞭です。 主張がある程度考えることができて区別しない人にむけられたものならば理解できますがそうなっていなくて、考える、考えないで2分類するのは過度な単純化です。単純化が理解につながる場合もありますが、過度になっていて理解を妨げ有害です。 質問閲覧者はだいたいみんな日本人なので、考えてないだろ?と突きつける意図はわかりますが、考えない人は突きつけられてることに気づきません。思う人が感覚で回答しても、考えてないので、考えが促されません。イライラが増殖するので有害です。 問いが日本人についてのため、範囲が広がり論点がぼやけて、過度な単純化が理解を妨げています。問いと回答がかみあわずに、意思疎通できません。いい問いなのでもったいないです。 現実には、個人の資質があります。考えるのが生まれつきたくさんできて、うまくなりやすい人、そうでない人がいます。何らかの理由で考えはじめて、続けると考えるようになります。考える日本人がいます。考えるし、思う日本人がいます。考えないし、思う日本人がいます。境界はくっきり分けられないです。たぶん、考えないし、思わない日本人もいます。 結論です。 ある程度考えることができない人。 ある程度考えることができて、区別していない人。 ある程度考えることができて、区別している人。 の3種類の人がいます。でも、問いでは日本人とひとくくりになっています。 日本人は知識を記憶することを考えることとしているかどうかわかりません。 日本人は記憶した知識への思いを考えるとしているかどうかわかりません。 コミュニケーションの場では日本語ラップが流行しています。 単なる理想論ですが、考える、思う、が適時に選べて、考えるときはたくさんうまくはやくできるのがいいです。私は考えているはずだが、もしかしたら、考えてないかも。思ってるだけかも。 no.1の回答の1点目はひょうふっと的を得ています。短い回答ですごいです。質問者様が読めていないのはもったいないです。日本人の脳―脳の働きと東西の文化という本ををうまく読めば、日本人は考えない。なぜなら、日本語の音は特殊だからだ。コミュニケーションの場で日本語の音の特殊性が日本人を考えなくさせる。とつなげることができるかもしれません。 http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-49.html Amazon.co.jp: 日本人の脳―脳の働きと東西の文化: 角田 忠信: 本 右脳・左脳に機能が局在するわけではないと言う意見があります。そこをno.1の回答はぼやかしています。http://hiroshi-kobayashi.at.webry.info/200804/article_20.html

参考URL:
https://www.youtube.com/watch?v=_W-9kf3_qyc
bragelonne
質問者

お礼

 すなぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  次のご指摘は 確かにわたしは推量によって述べているという点で当たっていると思います。  ★ ~~~~~~~~~~~  他の原因はもう少し説明が欲しいです。   考えを抑制するっぽい下記2点は教育とそれ以外の区別をしてほしいです。   誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成している   お上のお墨付きの思考パターンが用意されている  下記5点は考えるとの関係を明瞭にしてほしいです。     共通する神経回路、権力推奨の思考パターンにもとづく表現は互いに何となく分かり合えるため。   安心していられるため。   寄り合いに常識に沿った参加をするため。   自分の所在を互いにみとめてもらうため。   天下泰平なるため。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ じっさいこの質問のために述べた趣旨説明は 漠然としていて推測でものを言っています。  ひとつには ≪こういう文章がある それは感じたことや思いを述べているかも知れないが よく読んでみてもその人の考えは伝わって来ないように思えるが どうか?≫というふうに 文例を出して説明するとよかったのかも知れません。  というのも そのような例証は じつは控えました。ほかの人の文章をもろに公開して おまえは考えていないではないかと言ったりするのは はばかられました。  一年も前でしたら わたしは挑戦者のごとく突っかかって行ったかも知れませんが 今回はやめました。  もうひとつには なにぶん ほかの人の心の内のことですので やはり推測がどうしても入るかとも思います。  われらの日本社会が≪考える≫をしないで済むようになっているとすればそれは 目に見えては 指摘されたように教育がいちばん大きく影響しているでしょうね。  そしてけっきょく社会のあらゆる場で そのような影響を受けた振る舞い方が やはりいわゆるクウキと成って支配しているということかも知れません。  つまり 目に見えないかたちとしても社会力学としてのような作用がはたらいている。と思われます。(これも 推測ですが)。    ★ 共通する神経回路、権力推奨の思考パターンにもとづく表現  ☆ これにつきましては 現状でよいのだという人からは そういうふうに周りに合わせることが自分も生きやすいし皆も安心するのだから そういうまさに≪考え≫として採用しているのだ。と反論があるかも知れません。  でも たとえばこの場つまりこのネット上の哲学カテの場などでは わたしなどはその質問に対して けっこう幅広く≪反対意見≫を受け取っています。  それが わたしのように世間にさからった意見を述べることに対しては反論を浴びせるという思考と行動のパターンであるのか。あるいは まさにわたしの意見が間違っているので フルボッコのけんかになるのか。  クウキの問題に通じるようなこの≪人びとに共通の神経回路≫などについては もっと多くの人たちが参加して その実態を分析し考えあって行って欲しいと思っているのですが。そういう・そのための質問です。  ★ 質問閲覧者はだいたいみんな日本人なので、考えてないだろ?と突きつける  ☆ やはりそう成っていますか。つまり 先ほどは具体的な文章を例示するのは控えたと言いましたが それでもやはり世間を顧みない反逆者による挑戦的な問いかけに成っていましたか。まっ そういうコンタンはあります。  欧米・語/人と日本・語/人とを分けた理由。:  これは No.1でのやり取りで出て来たように たとえばフランスでは高校で哲学の授業があります。試験は口頭試問のようです。そういう訓練を経て来ているということに鑑みて われらと彼らとを分けて捉えようとしています。    ★ でも、問いでは日本人とひとくくりになっています。  ☆ これにつきましては じつは日本人の中に考えることをしている人びとがいると わたしは思っています。  ただしその考えは 生活の中で現実の思いとして持ってはいても なかなかそれ以上に考えを進めることは出来ていないようにも思われます。  つまり一般にふつうの人びと いわゆる中間層を成す人びとは 考えを持っている。ただしその方向性や日本ないし世界についての展望はなかなか明確には表現しがたい状態にとどまっている。  ですから もう一歩だと思いますし そのために・つまり考えを理論づけたりすることがうまく行っていない人たちのために 哲学カテなどは みんなの意見を寄せ合って考えるところだと思います。  ★ 日本人の脳―脳の働きと東西の文化 / 右脳・左脳  ☆ の問題は ちょっと違うと思います。なぜなら ≪われが考える≫の問題は そういった脳の働き方に違いがあるならあるでそれを踏まえた上で そのあと≪わたしは こう考える≫と人びとそれぞれが意見を述べることこそが問題なのだからです。  右脳か左脳か知りませんが いづれにしても日本人も 全体として・ヒトとして自然本性にそなわった脳を持っています。どちらかが優勢であっても 劣勢のほうの脳でも考えることに変わりありません。  そして世界の人びとと≪考え≫をとおしてマジハリを持っていかなくちゃなりません。  もし日本人としての脳のはたらき方によい特徴があるとするなら ≪音の特殊性≫やそのような感覚の特殊性を指摘するにとどまるのではなく そのあと脳のそして人格の全体としてどうあるのか? これを≪考える≫段階へとすすむべきです。  ★ 西きょうじのポレポレ課外授業第3課「言葉を味方につけるために~言語の獲得から共有まで~」  ☆ 長いので とりあえず最初の17分を聞いたところで反応します。  ≪言葉による暗示ではないけれど 言葉にしてみることによってその言葉の意味内容が自分の心にも良いように影響することがある≫と言っていました。    これは 心理学であって哲学としての考えるではないと思いました。  心理学として その時その場のわれとして とりあえずしゃきっとして元気に成るといった問題だと思います。それの継続ということになるのでしょうが。  ★ 日本人の脳―脳の働きと東西の文化という本ををうまく読めば、日本人は考えない。なぜなら、日本語の音は特殊だからだ。コミュニケーションの場で日本語の音の特殊性が日本人を考えなくさせる。とつなげることができるかもしれません。  ☆ このご見解は ≪考えなくてもよい社会もあるのだ≫といった内容なのでしたら そう言ってください。それについて考えてまいります。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15294/33013)
回答No.1

 二つほど 1。虫の鳴き声を脳の右で処理するかしないかで「日本人の脳」が話題になった時思ったことです。  コギト国で何代か暮らした日系フランス人のスズキさんはコギターレでしょうか。日本で何代も暮らしたフランス系のフランソワさんはコギトでしょうか。 2。ヒトコブラクダとフタコブラクダを掛け合わせると、どうなるかという合コン的話題の変種です。  国際結婚で、日本人とコギト人の間に生まれた子供の考え方は、どうなるのでしょうか。  僕は哲学はド素人なので、見当違いの寝言でしたら適当に無視してください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。いわゆるインタフェイスの場では どうなのか? でしょうか。  たしかにご指摘のように 興味は尽きないですね。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~  9. 誰もがおよそ決まった神経回路をすでに形成していて いくつかのお上のお墨付きの思考パターンが用意されていて それらにもとづく表現  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ という・やや乱暴に決めつけた定義のようなものを使ってよいとすればですが。:  この・世間パターン追従形式の≪コギターレ≫型は フランス人の間では 少ないでしょうね。  高校で哲学の授業がほどこされていて その卒業試験のような場では 口頭試問がおこなわれるとか。  (わたしは 生活体験はないので 話はそのぶん割り引いておいてください)。  えすぴーえす700さんは アメリカでしたっけ。  そのアメリカ人について テレビなどをつうじての印象でわるい方面のことを言ってよいとすれば。:  ≪コギト≫型なら 何でもよいというわけには行かない。のでしょうね。(事実認識については 間違っていれば ただしてください)。  何を発言するかよりも 何でもよいから発言することそのものが 先決であるというかのごとくその発言という行動に出る。まあ あとで見直しきちんと整理すればよいのかもわかりませんが。  もちろん 今度のヒロシマ訪問におけるオバマ演説に見られるように スピーチ・ライターの腕というのは そちらでは相当すすんでいるのでしょうね。  (ショーン・コネリ主演の映画≪作家を探して≫でしたかで そのような≪文章修行≫という≪道≫のことをしっかりと知りました)。  演説や弁論については 古代ローマからの伝統があるのでしょうか。(これも 推測で言っていますので その点 含みおきください)。  その国その土地で:  ★ 何代か暮らした  ☆ という場合には その社会でのナラハシや伝統を身に着けているのでしょうね。それを嫌がっている場合にせよ。    ★ 国際結婚  ☆ で生まれた子どもについては ですから――主導権を握るのが 父親か母親かによっても違いが出てくるかも知れませんが―― 初めに考えたところでは 子ども時代を過ごしたその土地でのエートスが たぶん優勢になって身につくのでしょうか。  ひとつ これも推測を交じえた印象批評ですが 欧米に学校時代を過ごした日本人の帰国子女たちは 確かにほとんど明らかに≪コギト≫型に染まっているように見えます。  ところが 案外と言うべきなのか 日本に帰って来てから けっこう早い時期に(一・二年でしょうか) 日本式になじむという事例も多いように見られます。  コギターレ型にすっかり変わってしまうということは ないと思われるのですが。  この質問は 話題提供型であるというコンタンを自覚的に持っていますので 二項対立のさまを煽って言っているようなところがあります。  質問者としての・日本人のコギターレ方式についての批判は そういう意味でさらにもっと細かいコミュニケーションの場では どういう事態が起きているのか? これが知りたいといったところです。  ありがとうございました。  

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     (1) 日本人は コギト( Cogito = Je pense. = I think. =我れが考える。)ではなく コギターレ( cogitare = penser = to think = 考える)を思っている。のではないか?  (2) 考える行為そのものをあたまの中で思いつづけている。のではないか? 何をどう考えるのか これをおろそかにしてはいないか?  (3) もちろん われが考える。すなわち自分が自分で考える。のである。ところが 誰かが考えたものを あたまの中に入れ込む このことが《われが考える》だと思っていないか?  (4) まさか!? であろうか?  まさかでなければ このようにうたがわれる心的現象について なぜそうなるのか? そのままでありつづけるのか? この問いについてくわしい方におしえを乞います。どうぞよろしく。  考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》とでも見られるそのつつしみ深さでしょうか?  でも それが何故 そうなのか? つまり一般の人びとについてならまだ分かりますが 哲学カテにおいて何故そうなのか? 解せません。

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?

  • 「ダジャレ外国語」の質問です。

    高尚なふりして尾篭な話、哲人を冒涜するような不謹慎、どうも恐縮です。(デカルトさん、ごめんなさい。)またまた、学生時代のトイレの話しです。 馬蹄形に座った途端に目の前のドアの落書きに気づきました。すなわち、 "Cogito (Unco) ergo sum." "Je pense (ounquo) donc je suis." とありました。 そこで、私はその下に、 "Pienso (Unco) luego soy." と付け足しました。 しばらく経ってから再訪してみると、 "I think (unkou) so am I." "Ich denke (unko) also bin Ich." と追加されていました。 そこでお尋ねします。 (1)同じ表現を、上記(羅・仏・西・英・独語)以外の外国語でご存知でしたら、ぜひ教えてください。 (2)同類の金言(珍言?)を英語で存知でしたら、ぜひ教えてください。

  • ひとは心で納得したことを むしろ嫌うのか?

     こころの琴が おのづから呼応して鳴りだすような言葉には 従いたくないのか?  そういう自己の自由な判断をうながすようなものは 信用できぬとでも思っているのか。  ところが 自分のあたまの上からやって来るありがたい言葉には うっとりして来るのか。  それは 肩書きが ものを言うということか。  ということは 肩書きがついていなければ いくら自分の魂が揺さぶられようが それによって 自分で意志を決めたり ましてやその決定によって実行をするなどということは ありえないというクセがついてしまったのだろうか。  たとえばそのクセによれば 肩書きのない言葉に心がゆさぶられるならそれは お上に楯つく大罪だとでも 思っているのか。  つまり何事もお墨つきが要るのか。  ――いやいや そうではない。という心の言葉を 何が阻み誰が闇へほうむるのか。  ひとは人間的な人間であることを 信用せず 嫌うのか。  ひとは ウソにひと安心するのか。

  • ひとは心で納得したことを むしろ嫌うのか?

     1. こころの琴が おのづから呼応して鳴りだすような言葉には 従いたくないのか?  2. そういう自己の自由な判断をうながすようなものは 信用できぬとでも思っているのだろうか。  3. ところが 自分のあたまの上からやって来るありがたい言葉には うっとりとした状態になるのか。  4. それは 肩書きが ものを言うということか。:《副会長および強化本部長》。  5. ということは 肩書きがついていなければ いくら自分の魂が揺さぶられようとも それによって 自分で意志を決めたり ましてやその決定によって実行をするなどということは ありえないというクセがついてしまったのだろうか。  6. たとえばそのクセによれば 肩書きのない言葉に心がゆさぶられるならそれは お上に楯つく大罪だとでも 思っているのか。  7. つまり何事もお墨つきが要るのか。  8. ――いやいや そうではない。という心の言葉を 何が阻み誰が闇へほうむるのか。  9. ひとは人間的な人間であることを 信用せず 嫌うのか。  10. ひとは ウソにひと安心するのだろうか。  11. 日本人は 腐って来ているのか?

  • 天下布武

    織田信長の政策のひとつであり、 印章の『天下布武』ですが、 武力で天下を統一する、という意味に 取られがちだが、本当の意味は 天下泰平の世の中を創る決意表明 という読み物を読んで、妙に納得して しまいました。 領地の見廻りで知能が低く、身体的にも難のある男を見つけ、その土地の者に金を渡し『これであの者が困らない家を作ってやってくれ』とし、皆、涙したとか。 また、自分の部下にも厳しく、部下に狡猾な者がいたり、酷い扱いを受けていたら教えてほしい、と下の者の声に耳を傾け、 裁判のような事をして両方の意見を聞き判断したり。人任せにしない、恐ろしく公正な男。領主としては慕われていたのです。 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス とは程遠いイメージです。 世界も見据え、頭の回転が早い信長氏が目指したのは 戦のない世の中 だったのですか。 また、最終官位の 正二位右大臣兼右衛大将 とはどのような立場だったのですか。

  • 月代(さかやき)

    今、大河ドラマで武田信玄と山本勘助をやっていますが、登場人物は頭を月代にしていません。 月代はいつ頃から広く普及したのでしょうか? どうして江戸時代となり天下太平となっても、月代は廃れなかったのでしょうか? 月代は手入れが大変だと思うのですが… 口髭に関しては、家康の御落胤との噂があった時の最高権力者・土井利勝が年をとってますます家康に似てきたと噂された為、これはまずいと髭を落としたら、他の大名も土井大炊殿が髭を落としたのなら自分も髭を生やさない方が良いだろうとこれに追随し、それが大名の家臣にも広まって口髭を生やす習慣が廃れたと聞きました。

  • "cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?

     命題 「我思う、ゆえに我あり」 (コギト エルゴ スム=cogito ergo sum )は真でしょうか? 我の精神の存在だけが疑いようのない事実なら、世間の常識はすべて曖昧なわけです。 人生をどう過ごすべきか、何が大切か、わからなくなります。  また、cogitoは、アウレリウス・アウグスティヌス=Aurelius Augustinus 以前、パルメニデス=Parmenidesの "to eon" や "to hen" がルーツでしょうか?それとも、更に遡ることが出来ますか?  よろしくお願いします。

  • 怠けてる? 甘えてる? 病気?

    私は、23歳♀学生です。 大学は卒業していますが、自分の目標ややりたいことがあったので、学校に入学しました。 学んでることは化学です。 研究室生活です。 昨年の秋に恋愛のことが引き金になって、爆発してしまい、カウンセリングを受けました。 何回か通院して、先生のお墨付きをもらったので学校には復帰しています。 あの時は「自分は勉強したいのに自宅療養をしなければならない」ので辛かったです。 早く復帰したいと思っていました。 それから三ヶ月が経過、やっと復帰できました。 嬉しかったです。 でも、自分の中に、またあのようなことは繰り返したくないという気持ちもあって、ストレスを感じたり、 疲れたと思うとつい休んでしまいます。 別に、頭が痛いとかそういうのはありません。 完璧に自分に負けてると思います。 怠けてると解釈されるかもしれません。 甘えてると解釈されるかもしれません。 まだ完治してないのかもしれません。 今は家族のことで引き続き悩んでいます。 きちんと解決してからじゃないと勉強に打ち込めないっていう気持ちもあります。 でも、そんなのいつになるか分かりません。 大好きなお化粧のことやカフェ巡りのことには打ち込めます。 こんな私は、怠けてるのでしょうか? 甘えてるのでしょうか? 病気なのでしょうか?