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関ヶ原その後、家康

 もしもの可能性として、質問。 関ヶ原の後、豊臣を滅ぼす前に家康が なくなった場合、それでも、豊臣滅亡・ 徳川幕府成立・数百年の安定政権になったのでしょうか? 細かい時期によって変わるかもしれませんが、  関ヶ原の次の年、家康が征夷大将軍就任の次の年、 秀忠就任の次の年、秀頼・家康が会談した後、 豊臣恩顧の武将たちの相次ぐ逝去の後、 などで、どう変わる可能性が あったのでしょうか?それぞれ、予想があれば、お願いします。  年齢的には豊臣家を滅ぼす前にある朝ぽっくりと なくなっていたのを発見されるということもあったはずです。 豊臣対策・天下取りへの遺言は用意されていたかもしれませんが。

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回答No.2

徳川幕府は1603年家康が征夷大将軍に任じられ豊臣氏が滅ぶ1615年以前に成立しておりますので「徳川幕府」成立しております。さすがに関ヶ原の次の年に家康が死んだ場合、第2の関ヶ原が起きても不思議はありません。それに嫡男秀忠が勝っていれば徳川幕府成立はあったと思います。敗けた場合ですが誰が敵になって誰が徳川の味方になるのかで運命は変わってくるとは思います。 家康が征夷大将軍に就任した次の年や秀忠就任の次の年秀頼・家康の会見の後徳川幕府は既に成立しているが260年幕府がもつかは疑問です。たぶん、有力外様大名が連合して挑戦してくるのではないかと思われます。(有力外様大名:毛利・島津・伊達・加藤清正・福島正則等) ご質問のように家康はいつ死んでもおかしくない年齢でした。しかし、1615年74歳で豊臣を滅ぼし、次の年1616年75歳で亡くなっている史実を見て何か執念のようなものを感じます。逆に豊臣を滅ぼしてから死ぬのが家康の運命だったような気もします。

sg10000
質問者

お礼

 回答どうも。 難癖つけてでも、自分の存命中に、という感じですよね。

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  • Key_A
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回答No.3

豊臣が滅ぼされたというのを大坂夏の陣と仮定すれば1615年だったかな。 関ヶ原が1600年だからその間15年。条件がユルユルですなw 質問者も知っていると思われるが、徳川秀忠に将軍職を譲ったのが1605年です。 秀忠は軍事的才能には恵まれなかったかもしれないが、江戸幕府の礎を創ったという 政治的才能はあったかと思う。 以上の点から、江戸幕府ができる前に家康が死んでいたら政治的混乱があったかも しれませんが、豊臣滅亡時って落ちぶれた地方大名レベルでしかないからな。

sg10000
質問者

お礼

 回答どうも。 たしかに豊臣は滅亡時は一大名レベルですが、 そこまで行くのに15年かかっています。 その間に家康がなくなっていても、どの段階でも それほど変わらなかったのかと思い、質問してみました。

  • WhatisLOVE
  • ベストアンサー率34% (391/1147)
回答No.1

しばらく乱世は続いたかもしれませんね。 家康のような大大名が死亡した場合、必ず家督争いになります。 時期にもよりますが、家康の子は多く、家臣が擁立すれば徳川家は分裂してしまいます。 一方豊臣方も、風見鶏の様な武将が多くまとまって何かをできるような状態ではありません。 そこで第三勢力の地方大名が力を伸ばす可能性もあると思います。 飛躍した想像ですが、また戦国時代が繰り返されるかもしれません。 関西を中心とした没落してゆく豊臣、関東に一大勢力を誇る徳川という構図は、室町時代の京の足利、関東の北条となんとなく似ています。 結果は両家は滅び、新しい勢力が関白になるか幕府を作るかみたいな。

sg10000
質問者

お礼

 回答どうも。

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