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仏教の因果、最初は?

こんにちは。 キリスト教にはイブが蛇にだまされて禁断の果実を食べた現在が有名です。 私は仏教には「因果」という概念があると認識しています。 この認識が間違っていないなら、原因があって初めて結果がある「因果」の最初には何があったとしているのでしょうか。 よろしくお願いします。

noname#207138
noname#207138

みんなの回答

noname#207465
noname#207465
回答No.15

No.12、13の回答をした者です。 設例程度の事態であれば突き詰めずとも対処法があるので、もっと極端に、「数時間後に地球がブラホールに飲み込まれる」、「東京大空襲の最中、火災が迫って絶体絶命」くらいのところで考えます。 こうなると、もう、現実に起きている事態の「因」を探求していても始まりません。 もっと根本的な、「苦」の「因」である無明の解決を試みざるを得ないと思います。 (ここで、ほかの方も言及していた「無明」の話がリアリティをもって出てくるのだと考えます。) 事ここに至ると、結論としては、耐えることになるかと思います。 ただし、ただ耐えるのではなく、八正道を実践する中で耐えるという意味です。 これ以上は、現実に我々が相対している具体的問題に即して考えないと、何とも空疎でうさんくさい言葉(「自己の在り方を問い直す」など)が並ぶばかりだと思うので、止めておきます。

noname#207143
noname#207143
回答No.14

「サーリプッタに代表された最初期の佛教」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/14/2/14_2_455/_pdf 十二支縁起なら無明でいいはずですが、 無明と回答する人もどういうわけかいないようですし、 中村元の論文を読んで考えてみてはどうでしょうか。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 機会がありましたらぜひ。

noname#207465
noname#207465
回答No.13

No.12の回答をした者です。 原因が人の意識にあるというところに行き着いたのであれば、それを変える(再構築する)ことで苦を克服できるのではないでしょうか。 そのように考えるのが仏教かと思います。 原因を突き詰めたけれど何もできない、という場合、 (1)その「原因」は実は「原因」ではない(突き詰めるモノ・方法が誤っていた) (2)克服する方法が見つからない のいずれかと思います。 無記の態度を採るのは、(1)についてです。 原因らしきモノを「つきとめた」と思ったけれど、対処法がない。 つまり、それは原因ではなく、突き詰めて考えることは苦の克服に必要ではないモノだった。 故に、初めから突き詰めることはせず、無記の態度を採る、という考えです。 (2)については、八正道を説くことになるかと思います。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 (1)については深く行こうと思えばいくらでも深く行けそうです。 どの辺りで仰っていますでしょうか。 例えば、工場も何も無い一般的な家庭しか無い村で中性洗剤だけは遥か遠くの町まで買いに行けば手に入る状況で、町に行く機会の多い人Aは楽だからと中性洗剤を使って食器洗いをします。 ところが、その排水が流れる川では多くの人が水遊びや魚釣り、飲料水の入手などをしており、中性洗剤を使用した排水がその川に流される事はただならぬ悪外を他者に及ぼします。 ところが、Aは法律によって行動の自由を赦されていますから、中性洗剤を使って何が悪い?と逆に問い返します。 Aの中性洗剤を使い続ける意識が原因ですが、Aは法で守られているため手出しができない。 私の言う「原因は解っているのに対処のしようがない」というのはこれに似ています。 これによって(1)を超えた問題であるとなるならば(2)の問題ということになるのでしょうか。 その場合の八正道は大分ざっくりですが、とどのつまりは「忍耐」という結論にいたるのでしょうか。

noname#207465
noname#207465
回答No.12

No.3の回答を支持します。 付け加えると、「因果の最初には何がある?」という問に対して、仏教は、回答しない(無記)という態度を示していると考えます。 仏陀は、「世界は有限か」といった問い(十四難)に対し、あえて回答しませんでした(無記)。 悟りを得るために必要でないという理由からです。 ここでいう「世界」は時間・空間のいずれも含みますので、「世界が有限」だとすると世界の始まり(因果の最初)があることになりますが、その存否について無記という態度を採っています。 仏陀が説いた五蘊無我などについて精緻な理論を構築したアビダルマ仏教においても、世界の起源ではなく「存在の仕方」が研究対象だったと私は認識しています。 >私は問題解決のための原因究明をすると、原因は大体人の意識にあり、故にそれをつく訳にも行かず、 とありますが、それをつくのが仏教なのだと思います。 >結局原因を突き止めても何もできないだけ。 故に、仏陀は上記のような無記という態度を採ったのだと思います。 >何も苦が消えないどころか、知恵が増せば苦も増すような思いをしています。 智恵(智慧)というよりも知識ということだと思いますが、思索を深め、感受性が高まるほど、苦が増すのはその通りだと思います。 それがすすむと、「楽」も「苦」であるという仏教の考えが受け入れやすいのではないかと思います。 >苦を取り除くためには楽も取り除かれるのでしょうか。 正確ではありませんが、概ねそうした話になります。 単純化すれば、「楽」は、それを失ったときに「苦」になります。 「楽」は、それを失いたくないあまり執著を生み、「苦」となります。 そこで、苦楽に一喜一憂して苦しまないように智慧を得よう、というのが仏教の考え方です。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 -------------------- >私は問題解決のための原因究明をすると、原因は大体人の意識にあり、故にそれをつく訳にも行かず、 とありますが、それをつくのが仏教なのだと思います。 >結局原因を突き止めても何もできないだけ。 故に、仏陀は上記のような無記という態度を採ったのだと思います。 -------------------- ここは私としては日頃の悩みどころなので気になりました。 「つく」のに「無記」とはどういう事でしょう。 十四難などの概念は言葉から連想する意味をおぼろげに想像しながらも含めて、理解が合っていれば他は概ね同意しております。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

Apostle様、こんにちは。 >「キリスト教にはイブが蛇にだまされて禁断の果実を食べた現在が有名です。」 キリスト教も、いろいろ、「分かれた」なんてしょっちゅう、らしいとか。 >「私は仏教には「因果」という概念があると認識しています。」 あるがまま、なんだから。 「仏教に「因果」」じゃなくて、「「因果」ってあるよね」ということでは。

noname#207138
質問者

お礼

こんにちは。 一応、様もついていますし、内容は意味不明ですが、形式は少しずつ秩序だって来ている様にお見受けしましたので反応はしておきます。 このまま進み、内容、形式ともに整いましたらその時は楽しくお話ししましょう。 でもまだです。一度失ったものを取り戻すには少々の時間がかかる場合があるのはご存知だと思います。 では。

noname#224207
noname#224207
回答No.10

No.3.6です 再度お礼を頂戴しました。 追加の説明をさせて頂きます。 「私は問題解決のための原因究明をすると、原因は大体人の意識にあり、故にそれをつく訳にも行かず、結局原因を突き止めても何もできないだけ。」 とありますが、ご趣旨がよく理解できません。 釈迦が唱えてその後発展して行った過程の中には、結果から原因を捜しだして何か具体的な問題を解決する技法を編みだすことを目的としたことはありません。 御期待が少し違うのではないのかと思います。 >知恵が増せば苦も増すような思いをしています。 涅槃という言葉を聞かれたことはありませんでしょうか。 極端な言い方をすれば、知識や知恵に頼った分別はするなということが主眼となっています。 無分別は現実世界では、避けるべきこととされていますが、仏教の世界では無分別になれとします。 「空」は何も「無い」ということとは全く異なる考え方です。 ただし、これを会得するのは至難の業です。 理解とはせずに会得としたことにも意味があります。 理解には分別が入りますが、この分別を越えて納得しろということです。 これを会得するための修行の一つがヨーガであり座禅です。 座禅は禅宗のみの修行方法ではなく、宗派を超えて行われている修行方法です。 禅も行禅、立禅、座禅、臥禅といろいろな形式があり座禅はその一つです。 釈迦が菩提樹の下で悟りを得たとされる形式に由来しています。 簡単に言えば瞑想の際の方法です。 雲水というそこらじゅうを歩き回る修行方法も歩きながら瞑想する行禅の一つです。 比叡山延暦寺には千日回峰と言って千日の間比叡山の山腹を歩き続ける修行方法もあります。 色即是空と言う言葉を聞かれたことはありませんでしょうか。 これは、空即是色とセットになった言葉です。 「色」というのは仏教特有の言葉です。 この世にある全てのの事物といいますか事柄を表す用語です。 色即是空 空即是色は言い換えますと、この世の全ての事柄は空であり、空はこの世の全ての事柄である、ということになりますが、直観的には非常に分かり難い概念です。 イメージとしましては数字の零(0)をイメージして下さい。 数字の零は何を意味しているかということです。 考え方の一つとしては、何も無いことが零ではなく、何も無いということが有ることを表す数字と考えられても差し支えはありません。 実は零という数字を考え出したのも古代インド人です。 >苦を取り除くためには楽も取り除かれるのでしょうか。 「執着」という言葉が日常的に使われますが、日本仏教では「しゅうじゃく」と読みます。 仏教では、この執着という心の働きを止めろということが主眼になっています。 キリスト教では「愛」を崇高なものとしますが、仏教では執着という心の働きの一つであるからこれもとめろと言います。 やめろとは言いません。 何をもって「楽」とするのか、ということを押し進めていくと、事柄を「苦」と「楽」に分けるという分別によって区分けされただけのもので、その「楽」を好むのは執着という心の働きである、という考え方をします。 苦も楽も取り除くのではなく。苦も楽も超えた世界があるという考え方だとお考えになられても差差し支えはありません。 苦も楽も無いのではなく、苦も楽も空であるという言い方にもなります。 「苦楽」「有無」「善悪」「彼我」などという二項対立のような考え方を止めろということになります。 考え方を止めても有るものは有りますし無いものは無いということが消えてなくなる訳ではありません。 この延長線上で過去、現在、未来も無いという思想に行きつきます。 だんだん訳がわからなくなってきます。 仏教が分かり難いのは、釈迦本人がどれだけのことを考えてそれを言ったのか、ということが正確に分からないことも一つの原因です。 キリスト教やイスラム教の場合には聖典は一つで、その解釈も司教とか法学者とか呼ばれる権威者達がその時代その時代に合意して一つの解釈のみを正とする形式を取っていますが、仏教はこのような形式を取りませんでした。 ある意味では野放しといいますかいい加減といいますか、無数の考え方を全て受け入れてきたという歴史的な経緯があります。 基本的に二項対立的な考え方をしませんから正誤などというものもありません。 ある意味ではどのようにお考えになられても構わないということになります。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 こういう題材で現状頭で理解しようとしている様に見えるであろう者に対して、どうやって説明しようか大変頭を悩ますところでしたでしょうに、懇切丁寧にご説明を頂きまして大変恐縮な想いで拝見致しました。 誠にありがとうございました。 少しも解ってない人が解ってるつもりになっているのも何ですが、少なくとも私は"会話ができる程度には"理解しているつもりという事で話をさせて頂きます。 そうでないと不毛なすれ違いが多くなってしまいますので、”あくまで会話できる程度には”理解している人の発言体で見てみてくださいませ。 ※その上でやはり誤解しているに違いないとお思いになりましたらご指摘なさるなり、撤収なさるなりなさってみてください(^^) キリスト教には「一人だけ救われクリスチャン」という言葉があります。 祈りや瞑想、聖書の朗読などにより信仰が身に付き、それによって楽しく生きる事ができている人で、それを自分だけで味わうのみで他に広げようとしないという意味です。 …まぁとにもかくにもとりあえず私の場合は行が足りないの一言に尽きますかね。 なんとか向き直れたかもしれません。 まだ慣性は残っていますからまた別の方向をむき出すでしょうが、とりあえず今回は向き直れました。 ありがとうございました!(^^)

回答No.9

#8の者です。 >私の理解力の問題なのでしょうか よくそういう人がいますが、違います。 物理学的な予備知識の有無の問題です。 >つまり神(のような存在)の派生的に生じたという解釈で良いのでしょうか 違います。低認識による錯覚によって「派生的に生じた」のです。 今でも、事物を原理的に絶対的に把握しようとすれば、不確定性 原理によって無限不確定性(=無)に発散します。 錯覚として生じた時空の広がりにおいて、その基底(原点=現在) となる観察者そのものが、時空に有限な広がりを持っている事で、 「因」は否定されます。 自我仮説(時間的流れ=記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間 敵広がり=予測=未来=光速下)の相補分化。 その非光速性は、本質的に光速に還元される(超弦=量子定常波 =光速)階層現象性(観察者(脳)>細胞>分子>原子>素粒子> クォーク>超弦)を、経験的に表面的いい加減)に捉える事で派生 している、ていう。

noname#207138
質問者

お礼

すみません。。。 難解の極みです(^^;) 平易な表現は不可能でしょうか?

回答No.8

#7の者です。 >その人はどこから何によって生じたか、です。 人=肉体であるならば、由来が問題になりますが、 人=意識=宇宙であるならば、因果律は内的な問題になります。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め 込むと存在確率の山が重なって平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」に於て、その無限の闇に、認識体 の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動(プランク定数hの収束 (物体収縮)の時系列化=宇宙膨張)を想定すれば、相対的に 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の 向うに、自己の補完(相補的不確定性を伴う)としての宇宙を認識 し得るのです。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 意味がよく解りませんが、私の理解力の問題なのでしょうか。。。 つまり神(のような存在)の派生的に生じたという解釈で良いのでしょうか。。。

回答No.7

色即是空という以上、因果の元は人の意識だ。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 その人はどこから何によって生じたか。です。

noname#224207
noname#224207
回答No.6

No.3です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼に追加のご質問といいますか派生したお問い合わせがありましたので、説明させて頂きます。 お礼の末尾に 「仏教はあくまで現状に対する物事の見方や考え方などを教える宗教で、世界の始まりはどうだとか、そういう事には一切触れていない宗教であるという事でしょうか。 」 とありますが、 一切触れないと言いますか、物事の始まりとか終わりという考え方をある意味で否定するといいますか、別な見方をする宗教です。 従いまして、世界の始まり、などという問題については特には考えません。 これは、仏教なる考え方が生まれた歴史的な経緯も関係しています。 この歴史的な経緯から言えば、世界の始まり、という問題は、他の宗教に預けてしまい、自分達では考えない宗教だ、とでも思って頂ければ宜しいかと思います。 日本仏教でも、この世の始まりつまり創造神話は日本古来の神道に委ねてしまっています。 あるいは、ヒンズー教が受け継いだ考え方を流用しています。 ここで面倒なのは、現在でこそ仏教と神道は別のものとされていますが、江戸時代までは神仏混淆と呼ばれ、神道と仏教が混在した状態でした。 仏教が伝来した際にも、仏教という全く新しい宗教とは受け取らずに、外国(とつくに)の客人(まれひと)神、つまり八百万神の一つとして理解しました。 学校の日本史などでも、仏教伝来時の受容か拒絶かの論争があったとされていますが、内実は幸いをもたらす神か災いをもたらす神かという議論でした。 あとは権力闘争がからんでいたというだけです。 神道と仏教を無理やり分けたのは明治政府です。 この結果が現在残っている姿です。 つまり江戸時代までは、神道の考え方やヒンズー教の考え方を踏襲するだけで、とくに問題はおきませんでした。 明治以降は創造神話を内包したキリスト教も流入して広がりましたので、仏教側がいちいち考える必要がありませんでした。 仏教といいますのは、古代インドに古くからあったバラモン教と呼ばれるものから派生した宗教です。 バラモン教と言いますのは、古代ヒンズー教と言いますか、ヒンズー教や仏教の基になった古代インドの民族宗教です。 つまり現在のヒンズー教と仏教は姉妹関係にある宗教です。 このバラモン教などの古代インドの民族宗教は創造神話を持っていました。 現在のヒンズー教もこの創造神話を受け継いでいますが、仏教は受け継ぎませんでした。 仏教の始祖である釈迦も当初はこのバラモン教の修行を行いましたが、「人の苦」というものの解決に至りませんでした。 結局自分で一つの答えといいますか、考え方を生み出しました。 この釈迦が見出した考えかたを受け継いで発展したのが仏教です。 つまり仏教の専らの関心は「人の苦」の解決という点に集約されています。 世界の始まり、などということには関心を向けることはありませんでした。 受け入れた人々もそのようなことは仏教に期待しませんでした。 新しい宗教である仏教に期待しなくても、それぞれの民族はすでに創造神話を持っていましたので、とくに必要性もありませんでした。 お礼の中にあります「仏教はあくまで現状に対する物事の見方や考え方などを教える宗教」とお考え頂いても一向に差し支えはありません。 モバイルに参加している個々のパソコンで生じる問題を解決するのに当たり、当サイトでも専門知識をお持ちの回答者が、個々のパソコン特有の問題か、モバイルの影響によるものか、それへの対応の不備によるものか、など、色々な観点から解決策を回答されておられますが、この専門知識をお持ちの方々のような働きを説いているのが人生における仏教のイメージだと考え下さい。 参考 バラモン教 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/バラモン教 第三章 創造神話と新創造論 www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-papers-j-d-ch03.pdf 現在の宇宙創造論のビッグバンなどにも通じる考え方もあるなどと、記載されています。 蛇足 四苦八苦という言葉をお聞きになられたことはありませんでしょうか。 この四苦八苦と呼ばれるもの全体を仏教では「人の苦」の基本とします。 これ等の「苦」を超越するのには「空」というみかたをしないさいと教えています。 この点につきましては「般若心経」と呼ばれるお経の解説書が多数出版されていますので、是非一度目を通してみて下さい。 Amazonなどネットショップでも「般若心経」をキーワードとして検索していただければ簡単に入手できます。 全くの初心者向けから高度な専門家向けのものなど多数あります。 以上超概略の説明でしたが、何かあれば再度補足で御質問願います。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は問題解決のための原因究明をすると、原因は大体人の意識にあり、故にそれをつく訳にも行かず、結局原因を突き止めても何もできないだけ。 何も苦が消えないどころか、知恵が増せば苦も増すような思いをしています。 「空」とは「無い」と解して良いでしょうか。 雲の様な、一時現れては消えて行く実体の無いものの様な。 先ずはこの解釈があっているかどうかが問題ですが、ネット上なので一旦あっていると仮定して話を進めさせて頂きます。 そうだとすると、多くの人が持っている希望、願望、野望、日常生活のささやかな期待などなど、全ては「空」。 苦を取り除くためには楽も取り除かれるのでしょうか。

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