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幕末・維新を動かしたエネルギー
徒然にというか、うとうととしながら、ふと、幕末・維新を動かしたエネルギーは一体何だったのか?という疑問が湧いてきました。もちろん、幕末・維新を動かしたエネルギーといっても単純ではないと思います。エネルギー同士ぶつかり合うこともあっただろうし、交錯することもあったと思います。 それで、ほんのちょっぴり歴史を楽しんでいる程度の少ない知識の中で、自分なりに少し考えて、思い浮かんだのが次の5点です。 (1) 外様大名と藩士の恨み すぐに思い浮かんだのが、「薩長土肥」ということでした。それで調べてみると、4藩とも、いわゆる「外様大名」でした。それで関ヶ原の合戦以降、2百数十年間、恨みを持ち続けたのかも知れないということです。 ただ疑問もあります。 ア) 江戸城では、外様大名は、常に末席だったということを聞いたことがありますが、戦に負ければ、生かされているだけでありがたい、冷遇されるのは当たり前で、この程度のことで、「恨み」が原動力になるとは?とても考えられません。それとも江戸幕府は、外様大名に対して、2百数十年間、恨みを持ち続けられるような待遇をしてきたのだろうか?という疑問です。 イ) それと、もしそうであれば、「薩長土肥」に限らず、他の外様大名も、団結して歩調を合わせたのではないか?と思うのですか、「薩長土肥」の藩同士の関係においても、また、それぞれの藩の内部においても、必ずしも1枚岩ではなかったと歴史本を読むと理解できます。 ウ) また、他の外様藩から抜きん出たのは、この4藩に何か共通点があるのだろうか?という疑問も生じました。確かに、この4藩から、明治政府の要人を多く輩出していますが、だからといって、明治になってから、この要人達に、幕末・維新を動かしたエネルギーというものが、今ひとつ感じられません。彼らも大変だったと思いますし、表現は適切ではないと思いますが、勝てば官軍的、派閥的、官僚的、利己的な考え方が支配していて、本当にこの人達が、エネルギーになり得たのか?という疑問が生じます。根拠はありません……私のゆがんだ見方かも知れません。ただ漠然と。 (2) 幕府擁護派の抵抗 「薩長土肥」に討幕のエネルギーがあったとすれば、当然、それに抵抗するエネルギーがあったからこそ、動乱の幕末維新史が形成されたのだろう?いうくらいの知識しかありませんが。 ただ、幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています。このあたり、幕府擁護派に何か方策はなかったのか?という疑問があります。もしも、幕府が江戸ではなく、京都か大阪にあったら?展開も変わっていたかもなどとも想像します。それとも、開国について、朝廷にお伺いを立てた時点で、「江戸は終わった」ということなのか?という疑問も湧いてきます。 (3) ペリーの来航 幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています。 ただ、幕末・維新を動かしたエネルギーというよりも、欧米の植民地主義的な海外進出という大きな潮流がペリーの来航によって日本にも訪れ、それに巻き込まれざるを得なかったのではないか?明治政府の誕生は、この大きな潮流と、幕末・維新の動乱の中での、たまたまの結果に過ぎなかったのか?あるいは、日本なるがゆえの独自の選択の結果、あるいは切り開いてきた明治だったのか?という疑問が生じました。 (4) 江戸幕府なり、幕藩体制の体制疲労 室町幕府も、江戸幕府とおおむね同じ期間成立していますが、江戸幕府は、室町幕府とは、比較にならないほど安定していたと想像します。15代将軍慶喜の行動如何によって、多少延命されたかも知れませんし、全く異なった時代が到来したかも知れません。 ただ、ペリーの来航はひとつのきっかけであって、そもそも江戸幕府なり、幕藩体制が、世の中の流れについて行ってなかった、あるいは仕組み自体が古くなっており、ペリーの来航には関係なく早晩倒れる運命にあった。 これについては、無知なる者の単なる想像で、疑問も生じません。(*^_^*) (5) 尊皇攘夷思想 これも、私にはよく分かりません。一貫していたわけではなく、変動が激しいですよね。安政の大獄や桜田門外の変ばかりでなく、多くの出来事に関係していると思いますが、どのように影響したのか理解できていません。それに、尊皇攘夷と一言で言っても、「尊皇」と「攘夷」を分けて考えないと幕末・維新の理解が難しいのかな?という気もします。 質問、お願いは、次の2点です。 (1) 上記5点について、認識の誤りがあればご指摘願います。合わせて上記の文中、「?」のついているところについて、ご意見等いただければ、なおありがたいです。 (2) 私の考えた上記5点の他に、幕末・維新を動かしたと思われるエネルギーについて、あなたのお考えを教えて下さい。 なお、この質問については、できるだけ多くの方の異なったご意見をお伺いし、今後、日本史や幕末・維新を考える上での参考にしたいと考えておりますので、ご回答の有無、多少にかかわらず、4月5日(日)までは、締め切らないでご回答をお待ちいたします。よろしくお願いいたします。
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- eroero4649
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「黒船来航が……意外に長い期間なのでびっくりします。」……幕末・維新というと多士済々の歴史人が、時代を一気に駆け抜けていったというイメージを持っていましたが、このような計算はしたことがありませんでした。自分自身のこの16年間のことを考えてみました。確かに長いですね。しかし、「あっという間」でもあったような。(*^_^*)凡人の16年間と比較をしても笑い話にもなりませんが。しかし、16年間は、やはり16年間ですよね。私事ですが、受験勉強や、仕事などに行き詰まったことは数え切れないほどありましたし、失敗したことも多々ありましたが、目標に向かって頑張るときも、失敗して慰めるときも、「時間だけは、皆、平等」という、長くもなく、短くもなくということを考えていたような気がします。 「ええじゃないかブーム」……参考書なんかでも、コラム的な位置づけで、詳しくは記されていないので、よく分かりませんでした。 「ただ当時は、妙な熱気というか盛り上がりというか、そういうのはあったと思います。」……実は、この質問をした後、また、「ふと」なんですが、幕末・維新史というと、表に出てくるのは、1割にも満たない「武士と政治家・官僚の歴史」ですよね。武士以外の民衆・農民の幕末・維新とは何だったのだろうか?……と。 eroero4649さんが、「ええじゃないかブーム」ことを記述してくれたので、少し調べてみました。本当に「今の若者がサッカーの試合の後に渋谷で大騒ぎするのと同じなんですね、あれは。特に意味のない騒ぎなんですよ。」ということでしょうか?幕末・維新史を、「武士の歴史」ととらえれば、何の意味もなさなかったかも知れませんが、民衆の「時代を反映した何らかの、そして意図しない意思表示」とは考えられませんか?日本人に限らないとは思いますが、ときどきは「お祭り騒ぎをしたい」というのは、心情的によく分かりますが、気になったので、「ええじゃないか騒動」のことをネットで調べたのですが、結局、よく分かりませんでした。 それで私は、「ええじゃないか騒動」というのは、「盲、象をなず」程度に歴史を楽しんでいる私のような人間に対して、「武士や政治家・官僚の歴史ばかりが歴史ではないぞ」とレッドカードをちらつかせているのだと解釈することにしました。(*^_^*) 「明治維新とは革命なのか」というのが、幕末を巡る議論で必ず出るテーマです。……ichikawaseijiさんのご回答の中でも触れられていました。私自身は、歴史の専門家ではないので、「革命か、否か」ということには関心がありませんが、「殺されたお殿様は一人もいない」には、幕末・維新の顛末として、おもしろいですね。 「処刑されるが世界史の常です。」……そうですよね。私は、この点では、慶喜公は、言われるように「聡明なお方」だと感服しています。それにイケメンだし。(*^_^*) 「お殿様が死なない革命運動だったんですよ」……何でしょうかねぇ。日本の穏やかな気候のおかげでしょうか?もともと「武士の歴史」の範疇だから、結果はどうであろうと、「お殿様にはかなわねぇ」というあきらめでしょうか?あるいは、「お殿様には、腹は切らせねぇ」、この部分で「武士道」が発揮されたとか?それとも「あまりにも馬鹿すぎて処刑する気持ちも湧かなかったのか?」、「そもそも歴史に参加していなかったのか?」……これも考えると疑問だらけですね。(*^_^*)私の質問の趣旨からすると、幕末・維新を動かすエネルギーになり得ていなかったということかも知れませんね。 「果たして旧体制を倒す運動だったのか?」……あまり、深入りする気持ちはありませんが、ichikawaseijiさんのご回答ともあわせて、自分なりに空想してみたいと。 会社であれ国であれ、それを「壊す」人と「作る」人、また「維持する」人では求められるタイプが違います。……そうだと思うし、どんな時代も、どんな社会も、「壊す」人と「作る」人、また「維持する」人を求めているし、又、それがなければ「社会や組織」は発展しないし、そもそも成り立ちません。だからこそ、私のような一般市民でも生きていけるし、生かされるのだとも思います。 また長くなってしまいました。……いえいえ、eroero4649さんには、もっともっと、長く語ってもらいたいと思います。物足りないくらいです。もしかしたら、私の「お礼」のほうが長くなっていないですか?ただ、あまり語られ過ぎても、私の理解力にも限界はありますので、それをご覚悟の上で。 「吉田松陰や高杉晋作のような……むしろヘタに長生きしちゃうと不遇の晩年を過ごす羽目になります。」……必ずしも納得できませんが、おもしろいですね。「歴史」というよりも、「人生」カテに入り込んでしまいそうな。 私の質問の趣旨とは、かなり離れた部分のあるご回答だったような気もしますが、「近代国家日本を作るための明治の元勲たちの苦闘も実はかなーり面白いのですが、その話はまたいずれ。」ということですので、私も見捨てられてはいないようですね。(*^_^*)これからもよろしくお願いいたします。