• ベストアンサー

幕末の薩長土肥の殿様

幕末に、徳川幕府と戦う薩長土肥の下級武士達(官軍)に対して、 それらの藩の殿様は、制止できなかったのでしょうか? 力がなくなったから止められなかったのか、逆に秘かに応援していたのか、 殿様はどのような状態・立場だったんでしょうか? 歴史に疎いので、単純な質問ですが、教えてください。

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数10

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mayoihito
  • ベストアンサー率36% (12/33)
回答No.3

各藩によって事情が異なるので、それぞれに説明します。 薩摩・長州・土佐・肥前とは言いますが、実際、倒幕の大きな力となったのは薩長なので、まずこれから。 長州藩。 長州藩は歴代、他藩と比べあまり藩主が力を持たない藩として知られていました。 これは、毛利元就の遺言による補佐政治の影響と言われています(吉川・小早川の毛利両川が輝元を補佐する) 江戸期を通じ、官僚的な意味で有能な家臣が多く出たことも加わり、 藩主はそれほど政治に口を出さなかったようです。 倒幕期の当主、敬親公はそれに輪をかけたような人物でして・・。 「うん、そうせい」という返事が多かったことから「そうせい公」と呼ばれていました。 倒幕後、明治になった後に、家臣に「俺はいつ将軍になるのか?」と聞いたという逸話からも、 倒幕の意味を分かっていないほど政治から遠い存在でした。 最も、権力欲は無く、廃藩置県にも積極的、有能な家臣団をみつける目も持ち、 そして彼らに政治を任せるだけの度量を有していたという意味で決して凡人ではないと私は思っていますが。 家臣団に広く愛された藩主でもありました。 加えて長州藩は、関ヶ原において本領安堵の約束を破られたこと(120万石から30万石に減らされた)の恨みから、 反徳川の思想を濃く持っていた藩でした。 新年拝賀の儀で筆頭家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、 藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという説もあります。 長州においてはこれらの複合的な要因があり、藩主は倒幕を止めませんでした。 薩摩藩は、完全に大久保・西郷らの暴走を止められなかった、の一言につきます。 実際、藩主としての実権を握っていた久光公は「倒幕はするな」と止めたにもかかわらず、 倒幕を実行したということで、大久保・西郷らを維新後「不忠者」と呼んでいます。 土佐・肥前に関しては、幕末の本当の最後の段階になって、実戦部隊が薩・長に加わった、というところです。 土佐藩は、板垣退助が京都に兵を送った際、「薩摩が戦いを始めたら、何も考えず共に戦え」と命令したようです。 実際、藩主容堂公はぎりぎりの段階まで、徳川維持の思想を持った人間でした。 長文になってしまい、すいません。 理解の一助になれば幸いです。

syakari
質問者

お礼

長文の回答ありがとうございます。 なんとなく、理解できました。 長州の殿様は、ほったらかしで、昔からの要因もあり、止めない。 薩摩の殿様は倒幕するなと止めたのに、止まらない。一部家臣の暴走状態。 なのですね。 薩摩は特にもう藩主による統率が及ばない状態だったのでしょうね。

その他の回答 (3)

回答No.4

まず基本的には、江戸時代の殿様(徳川将軍も含む)というのは 専制・独裁君主ではなく、家臣(家老等)による合議制の上に立った 存在で、下手すると藩政にほとんど関わらない、いわゆる「そうせい候」 (家臣の進言に「うむ、そうせい」と答えるだけの殿様)と呼ばれる人も 少なからずいました。 (ちなみに、当時の長州藩主もそう呼ばれていました。) そのため、藩の方針を決めてしまうと、それを一言で覆すなどといった ことは出来ませんでした。

syakari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 一番私が勘違いしていたポイントのご指摘でした。 おっしゃるとおり、私の中には、 殿様(藩主)は藩の中の専制・独裁・絶対君主のイメージがありました。 実際はいろいろな家臣の合議で動いていて、家臣の裁量に任せられている部分も結構あるんですね。 藩主の存在感が少し薄らいだ気がします。

noname#117169
noname#117169
回答No.2

最終的には倒幕に動いてますが、それまでを見ると結構藩内部で権力争いがあったのは間違いないです。 有名どころでは長州が最初急進派の桂と高杉らが権力を握ってましたが、一旦穏健派が主流となって先の二人はお尋ね者になったのですが、逆にクーデターまがいの方法で急進派が再度権力を握り、以降よく知られた薩長同盟などの流れとなってます。

syakari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 権力闘争はあったんですね。 私のイメージでは薩長同盟なんて殿様抜きで勝手にやっている感じがするのです。 なので、殿様の立場は?って疑問に思うのです。

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.1

ン????????????????????????????? 薩長土肥の藩主が 藩士(上士含む)に 官軍に加わり朝敵徳川を討て と命じたからなんですが??????????????????????????????? zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz 官軍という言葉が出てきて錦旗が、ひるがえるようになると 親藩譜代でも徳川の味方して官軍に加わらないのは ごく少数です zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

syakari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうなんですか。 西郷とか桂とか坂本龍馬とかが殿様とか関係なく、勝手に自分の考えでやっているのかと思っていました・・・。 でも島津はともかく、 長州や土佐や肥前?の殿様ってあまり聞かない気がしますが・・。 なぜなんでしょう?

syakari
質問者

補足

すみません。 >下級武士達(官軍)に対して、 >それらの藩の殿様は、制止できなかったのでしょうか? というのは、西郷・桂などの官軍を創設した人も含めて、 官軍ができる前の時代も含めて、 殿様(藩主)を無視した勝手な行動を止めなかったのかという意味です。

関連するQ&A

  • 江戸幕府と幕末について

    私も歴史は得意ですがどうも江戸と幕末が苦手なので教えて下さい。まず、幕府ですが、 1.どのくらい権力があったのでしょうか。 幕府と言えども簡単に抵抗する藩を潰したりは出来なかったのでしょうか。 特に幕末はまったくわからないのですが、 2.長州藩をどうして潰せなかったのか。 3.なぜ、幕府軍は薩摩や会津なのか。他にもいたのか。 そして最後に究極の質問ですが、薩摩や長州が幕府を倒そうとした時、この様にすることが出来なかったのでしょうか。 4.全国の藩に命じて薩長を倒す。いくら薩長が強いとは言え、全国から総動員すれば勝てそうな気がするのですが、できなかったのでしょうか。 5.また、伊達や前田、家康以来の本多、酒井、など戦国時代に活躍した家臣たちはどうなっていたのでしょうか。 たくさん質問してすみません。けど、非常に気になるので教えて下さい。

  • 幕末の下級藩士

    先日、映画「武士の一分」を観ていたら、下級藩士がお殿様のお顔を拝謁することがとても難しく描かれていました。 そこで教えて頂きたいのですが、なぜ幕末は多くの藩で名も無き下級藩士たちが藩を動かすだけの力を持ち合わせるに至ったのでしょうか? 普通に考えれば下級藩士の動きなど中間管理職みたいな人達が握りつぶすかそもそも末端の侍が物申すなどおこがましいあるいは上層部の逆鱗にふれればお家断絶の危険すらあったと考えられます。薩摩・長州・土佐といった有名な藩で有ればまだわかりますがなぜ全国的に広まったのでしょうか?当時は今のようにメディアも発達していないでしょうから尊皇攘夷などの考えが下級藩士に伝わったことも不思議なのですが…。よろしくお願い致します。

  • 幕末・維新を動かしたエネルギー

     徒然にというか、うとうととしながら、ふと、幕末・維新を動かしたエネルギーは一体何だったのか?という疑問が湧いてきました。もちろん、幕末・維新を動かしたエネルギーといっても単純ではないと思います。エネルギー同士ぶつかり合うこともあっただろうし、交錯することもあったと思います。  それで、ほんのちょっぴり歴史を楽しんでいる程度の少ない知識の中で、自分なりに少し考えて、思い浮かんだのが次の5点です。 (1) 外様大名と藩士の恨み  すぐに思い浮かんだのが、「薩長土肥」ということでした。それで調べてみると、4藩とも、いわゆる「外様大名」でした。それで関ヶ原の合戦以降、2百数十年間、恨みを持ち続けたのかも知れないということです。  ただ疑問もあります。    ア) 江戸城では、外様大名は、常に末席だったということを聞いたことがありますが、戦に負ければ、生かされているだけでありがたい、冷遇されるのは当たり前で、この程度のことで、「恨み」が原動力になるとは?とても考えられません。それとも江戸幕府は、外様大名に対して、2百数十年間、恨みを持ち続けられるような待遇をしてきたのだろうか?という疑問です。  イ) それと、もしそうであれば、「薩長土肥」に限らず、他の外様大名も、団結して歩調を合わせたのではないか?と思うのですか、「薩長土肥」の藩同士の関係においても、また、それぞれの藩の内部においても、必ずしも1枚岩ではなかったと歴史本を読むと理解できます。  ウ) また、他の外様藩から抜きん出たのは、この4藩に何か共通点があるのだろうか?という疑問も生じました。確かに、この4藩から、明治政府の要人を多く輩出していますが、だからといって、明治になってから、この要人達に、幕末・維新を動かしたエネルギーというものが、今ひとつ感じられません。彼らも大変だったと思いますし、表現は適切ではないと思いますが、勝てば官軍的、派閥的、官僚的、利己的な考え方が支配していて、本当にこの人達が、エネルギーになり得たのか?という疑問が生じます。根拠はありません……私のゆがんだ見方かも知れません。ただ漠然と。 (2) 幕府擁護派の抵抗  「薩長土肥」に討幕のエネルギーがあったとすれば、当然、それに抵抗するエネルギーがあったからこそ、動乱の幕末維新史が形成されたのだろう?いうくらいの知識しかありませんが。  ただ、幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています。このあたり、幕府擁護派に何か方策はなかったのか?という疑問があります。もしも、幕府が江戸ではなく、京都か大阪にあったら?展開も変わっていたかもなどとも想像します。それとも、開国について、朝廷にお伺いを立てた時点で、「江戸は終わった」ということなのか?という疑問も湧いてきます。 (3) ペリーの来航  幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています。  ただ、幕末・維新を動かしたエネルギーというよりも、欧米の植民地主義的な海外進出という大きな潮流がペリーの来航によって日本にも訪れ、それに巻き込まれざるを得なかったのではないか?明治政府の誕生は、この大きな潮流と、幕末・維新の動乱の中での、たまたまの結果に過ぎなかったのか?あるいは、日本なるがゆえの独自の選択の結果、あるいは切り開いてきた明治だったのか?という疑問が生じました。 (4) 江戸幕府なり、幕藩体制の体制疲労  室町幕府も、江戸幕府とおおむね同じ期間成立していますが、江戸幕府は、室町幕府とは、比較にならないほど安定していたと想像します。15代将軍慶喜の行動如何によって、多少延命されたかも知れませんし、全く異なった時代が到来したかも知れません。  ただ、ペリーの来航はひとつのきっかけであって、そもそも江戸幕府なり、幕藩体制が、世の中の流れについて行ってなかった、あるいは仕組み自体が古くなっており、ペリーの来航には関係なく早晩倒れる運命にあった。  これについては、無知なる者の単なる想像で、疑問も生じません。(*^_^*) (5) 尊皇攘夷思想  これも、私にはよく分かりません。一貫していたわけではなく、変動が激しいですよね。安政の大獄や桜田門外の変ばかりでなく、多くの出来事に関係していると思いますが、どのように影響したのか理解できていません。それに、尊皇攘夷と一言で言っても、「尊皇」と「攘夷」を分けて考えないと幕末・維新の理解が難しいのかな?という気もします。  質問、お願いは、次の2点です。 (1) 上記5点について、認識の誤りがあればご指摘願います。合わせて上記の文中、「?」のついているところについて、ご意見等いただければ、なおありがたいです。 (2) 私の考えた上記5点の他に、幕末・維新を動かしたと思われるエネルギーについて、あなたのお考えを教えて下さい。  なお、この質問については、できるだけ多くの方の異なったご意見をお伺いし、今後、日本史や幕末・維新を考える上での参考にしたいと考えておりますので、ご回答の有無、多少にかかわらず、4月5日(日)までは、締め切らないでご回答をお待ちいたします。よろしくお願いいたします。

  • 関ヶ原の戦いと倒幕のエネルギー

    ボーっと、幕末のことを考えていて、ふと、薩長土肥の活躍って、何だったんだろう、という疑問が湧いてきました。まさに、「幕末・維新」を動かした中心的な藩だったのだと思いますが、鍋島藩の態度は別にしても、関ヶ原の戦いの負け組です。 初歩的な疑問なのですが、「倒幕のエネルギーは、関ヶ原の戦いに負けたことと関係しているのだろうか???」ということです。もし関係しているとすれば、260年間も、そのエネルギーを保ち続けたものは何だったのか???」という疑問です。 それと、とは言っても、例えば、薩摩と長州が倒幕に向けて一枚岩だったのかというと、そうでもなさそうだし。関ヶ原の戦いの恨みつらみとは関係なく、単に時代の流れであって、「薩長土肥」が主役にならなくても、「徳川幕府は、つぶれた」と考えるべきなのでしょうか???

  • 薩長同盟の軍事力に関して

     幕末期に薩長同盟が結ばれるや否や倒幕の動きは加速され、幕府はあっけなく倒されてしまいます。なぜ長州と薩摩2藩だけで幕府を倒すだけの力があったのでしょうか。どうしても分からないのです。  今の日本では二つの県が組んだだけで日本が転覆することなどとうてい考えられないのですが(ちなみに私は鹿児島県出身です)220項目までは調べたのですが、それ以上調べていません。類似の質問ならお許しください。  宜しくお願いいたします。

  • 幕末

    「壬生義士伝」で初めて幕末をかじりました。壬生義士伝は新撰組の話なので他はあんまりでてこないのですが、あのあたりでの天皇というのはどういう位置付けだったのですか?流れ的には徳川幕府が大政奉還しますよね?(これって誰に奉還なのだろう?)でも、まだ薩長と会津系が戦っている。小説では薩長側は会津や新撰組に対して「錦の旗に弓をはなった」的ないいぐさをします。つーことは天皇は薩長側ってことになる。が、会津系も別に天皇にさからったつもりはなさそう。幕府も会津系も開国も大政奉還もOKで、だからといって薩長がなんで政権にぎんねん!の一点で戦いつづけたのでしょうか?とにかく徳川幕府終焉も開国もみなOKだったのになんで戦ってたのでしょうか?あと、天皇はどこにいたのでしょうか?江戸城?京都?あと、鳥羽伏見の戦いの時徳川慶喜は京都にいたらしいのですがなんででしょう?江戸城じゃないの? すいません、どしろうとむけにお願いします。

  • 幕末の歴史んいついて

    教えてください。 幕末の歴史について素人でもわかるHPを教えていただけないでしょうか? 江戸幕府がどうやってつぶれていったか、薩長がどうかかわっていたか、新撰組は・・・ 何がどうかかわって明治維新になったのか・・・ よろしくお願いします。

  • 幕末の外様大名と徳川家康の関係

    幕末、倒幕・佐幕に分かれて争いがありましたが、薩長を含め、外様大名と徳川家康とはなんらかの関係があったのでしょうか。 知っているのは、加賀・前田家はかつて前田利長が徳川家康の恫喝に屈し、母まつを人質に出すという屈辱がありましたが、幕末時の前田家の当主の母はかつての将軍の孫、つまり徳川家康の子孫であるので、積極的に幕府を戦おうとしなかったことぐらいです。。 他の大名はどうだったのでしょうか。

  • 庶民に人気のお殿様はだれ?

    先日、何気なく徳川幕府に関するサイトを眺めていたら各将軍の エピソード集がありました。 四代 徳川家綱に関するエピソードを読むと家綱の寛大な人間性が 感じられ感激しました。 詳しくはここ↓ http://homepage1.nifty.com/SEISYO/ituwa3.htm#ietuna 徳川に限らず、いわゆる「お殿様」(またはそれに近い立場の人)で 庶民に人気のあった方やエピソードなどありましたら 教えてください。

  • 幕末の幕府と藩の関係

    幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?