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江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

noname#224207の回答

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noname#224207
noname#224207
回答No.7

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。 要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです 農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。 とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。 現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。 この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。 参考 冥加 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/冥加 江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。 この町政に必要な費用は町人が負担していました。 町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。 この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。 「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。 物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。 江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。 江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。 経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。 幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。 幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。 江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。 一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。 このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。 札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。 町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。 租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。 この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。 貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。 江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。 豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。 >当時の人達は疑問を感じなかったのですか? この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。 如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。 急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。 不幸にも天候にも災いされました。 江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。 ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。 当然悉く失敗しています。 むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。 蛇足 農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

mkfdh
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。要するに江戸時代の有名な改革は時代に逆行するだけの代物だったわけですね?

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