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哲学する人間は触媒である
rex33の回答
- rex33
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時は満ちています が 自由意思で 受け入れるも受け入れないも 選択出来るのです 「奇跡を起こして人を虜にする事や キリストは この人です」等 言っても それがどうした・・・で終わります 心から 受け入れる事が 満ちる時 それだけの事
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について あらためて問います。第三セッションです。 まえがき・あらましは 以前と同じものを使います。 今回は アメリカという問題に焦点をあてたいと考えています。タテマエとホンネとの使い分けを駆使する行為形式において あまりにも直線的すぎる。上から目線をもって そのことが単純すぎる。のではないか。という問いです。 § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら れる。 それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る 音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。 このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関 係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。 人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工 的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと して出来たもの。 身分関係。その世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する 場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係 およびその社会構造がかたちづくられる。 (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての 流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として分けられる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は そのような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。ただ アマアガリしたに過ぎない。 階級関係の一本から成る社会では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― あたかも誰もがアマアガリをねらっている。 ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの社会(ω)においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《スサノヲ市民=アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をつくような姿勢を持つ。 マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。 このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか? 中国人は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリをこころみている。 日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせるゆえに―― ヒトを世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉とから成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採っている。 ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? § 3 の最後に触れたアメリカ(アメリカ人)という問題について焦点を当てると どういった評言が持たれるでしょうか? ご教授ください。ケネディ大使の捕鯨はくぢらがかわいそうなる発言は 典型的なそのアマアガリ・シンドロームに罹った目線だと考えます。 § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカイ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。
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- 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ
姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。 ここの主題は 《人間化》です。 1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。 2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。 3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。 4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。 5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。 6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。 7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。 8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。 9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか? 10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか? ではないだろうか。 11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか? 12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか? 13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。 13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。 14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか? 15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか? 17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。
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- 事大主義(アマテラス予備軍症候群)とその後遺症
1. ひとの言葉は あやまち得るスサノヲ人間語とあやまたざる〔と見なされる〕アマテラス普遍語とに分かれる。 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる構造的な成り立ち 2. アマテラス語をよく使いこなすひとは 社会の中で一般に指導的な地位に上がることが多い。言いかえると スサノヲ市民が《あまあがり》すると アマテラス公民となる。 《スサノヲ市民社会 - アマテラス公民圏》から成る社会のかたち 3. このかたちは 二階建ての構造であるように思われる。お二階さんの中でさらにアマアガリが起きると いわゆる国家元首としてのアマテラシテが出来る。 《 S 圏 - A 圏(アマテラス公民 / アマテラシテ)》連関制 ・アマテラス公民:官僚・政治家その他もっぱらの公民と見なされる職務 ・アマテラシテ:国王・皇帝・象徴 4. ここに第三次のアマアガリがあり得る。それは特に 《皇帝なるアマテラシテ》の場合であり 《帝国》というのは なおほかの国家をも自分の支配下に置こうとする動きである。 5. 韓国は 大いなる帝国主義アマテラシテに事(つか)えるという事大主義なる行動をしばしばおこなって来た。これを アマテラス予備軍と呼び得る。そのクセを アマテラス予備軍症候群と言えるのではないか? 6. 大日本帝国に仕えた朝鮮は 日本が敗けたあと いろいろ協力を求めて来たように思われるが 敗戦国は叩けということになる。反日である。国是のごとく。 7. ジャパン・バッシングそのものは 自分の責任でそういう表現をするかぎりで 仕方ないことですが 問題は 《反日》が 自己表現の大前提になっていることにある。 8. ▼ (ヰキぺ:反日主義) ~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9 ▽ 鄭大均:「反日は韓国のアイデンティティと不可分な関係があり、反日と無縁な韓国人はいない」 ▽ 崔碩栄:「韓国の過激な反日感情は自然に発生した感情ではない。『反日国家』韓国では、日本は『悪い国』だという情報だけが与えられ、人々が自然に『反日型人間』になるように仕組まれた『反日システム』という社会構造が形成されている。・・・ ▽ 黒田勝弘:「韓国は世界で最も日本非難論が活発で、韓国マスコミは日本非難なら何でもありで、極端な比喩による感情的論評を書き、反日報道ではデッチ上げなど内容が誤報と分かっても訂正はほとんどない。これは『反日病』だ」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 9. もしこのようにおのれの行動方針が 真っ先に《反日・蔑日》を掲げているのならば 言葉としての《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる成り立ちよりも先に 日本叩きという頭が来ることになります。 10. すなわち 《統一方針なるアマテラス方言》が すべての言葉を凌駕してしまう。それは 子どもの頃から 頭に叩きつけられる。 11. これでは いくら思考能力を伸ばそうとしても 民族としての統一アマテラス語がつねに立ちはだかる。 12. これでは 気が狂わないほうが おかしい。のではあるまいか? 13. なお 中国の行動は アマアガリ・シンドロームに罹っていると見ます。最初のボタンをかけるときに そうなのである。
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- 哲学・倫理・宗教学
- にんげんの前史から後史へ(!?)
歴史を展望してみたい。第三弾。 § 1 ヒトの定義から入ります。 その昔 土地を囲ってここはおれのものだと宣言したと想定してみた場合 人間ということに関して前提とするべき公理に ふたつあると思います。 (α) 主戦論を採るヒト:奪い合い・競争としての社会交通 (ω) 非戦論を採るヒト:ユヅリアヒ。奴隷の状態にさえ甘んじる。 したがって競争し奪い合う交通人は 社会というヤシロ の神棚(お二階)に祀っておく。(国ゆづり) § 2 ここ(この一面的な定義ですが)から《権力》が生じますが これにもふたつの型があると見ます。 (あ) 第一次の権力関係: ユヅリアヒの人間どうしにおいて――ということは ごく ふつうに自然本性としてのヒトどうしの間においても―― まなざしを相手に上からそそぐ者とそしてこれを受ける者 とに分かれる場合。 ただしこの場合には そのまなざしの上下関係は 互い にみとめあっている自生的な性格のものであると考えら れる。 それは けっきょく人びとの仲介役・調整役を買って出る 音頭取りとそれをささえるほかの人たちに分かれる場合。 このときにも もしまなざしのあいだに何らかの上下関 係が起きているとすれば これが高じると 一方が《アース (接地)役》を務めるかたちとなるように思われる。他方は ガミガミ役になりそれが固まってくるおそれがある。 人為的・人工的な性格の人間関係が生じ得る。 チカラ関係としての社会力学の兆し始め。 (い) 第二次の権力関係: 第一次の《自生的な性格のもの》をおおむね離れて 《人工 的な性格のもの》をさらに強固にししかも固定させる動きとし てそのまなざしの上下関係を社会制度としてかたちづくろうと して出来たもの。 身分関係。その世襲制度。 特には 社会を《市民スサノヲと公民アマテラス》との二階 建ての構造として固定する国家における身分制度。そこで は 倫理を問うことを含みつつも それをもチカラで圧倒する 場合もあるというような社会力学的な交通として人間関係 およびその社会構造がかたちづくられる。 (その中で一階と二階とのあいだで自由な行き来としての 流動性が保証されている社会のあり方も 現実的ではある)。 § 3 階級ということ (α)の主戦論を採るヒトが築く(い)の第二次の権力関係は 明らかに社会階級の関係として二階建てを成り立たせている。ヒトが品(クラス)ないし課税対象物として見なされ仕分けされる。 (ω)の非戦論を採るヒトが築く同じく(い)の第二次の権力関係は (α)の場合のような階級関係を包み込んだ二階建て構造に成ると捉えられる。 言いかえると 非戦論によって服従の関係をえらんだそのことが すでにヒトの品による区分を飲み込んだかたちとなっている。 ぎゃくに言えば そこで身分制が強固にかたちづくられそれに即した圧力が加えられたとしても (ω)型のヒトにとっては もともとそのような社会力学は織り込み済みである。ふつうの音頭取りの中から さらにお山の大将が出て これが常習のガミガミ役にもなるとするなら 二階建てとなりうる。 ただし・ただ アマアガリしたに過ぎないという側面がある。つまり 一階にのこったスサノヲ市民らは アマアガリ志望者らを二階へと送りやってやったという性格が どこかに遺産として保たれる。 階級関係の一本から成る社会〔(α)型〕では――つまり単純に言えば 人びとはそれぞれ一人の個人が《ガミガミ役=アース役》なる成り立ちをしていて―― そこではあたかも誰もがアマアガリをねらっている。 ゆえに――きびしい言い方をすれば―― 階級関係を第一次の権力関係にあってその芽として織り込み済みの(ω)型社会においては そのアマアガリしたお二階のえらいさんたちよ 気の済むまでご自由におやりなさい そのあと人間にお成りなさいとさえ 心のどこかで言っている。その人為性・人工性つまり非自然から自由になってくださいと。 (α)の主戦論派にもとづく階級関係においては その新しい階級と古いのとのあいだで回転(レヲ゛リューション)が演じられる。流動性というよりは 階級がひっくり返ることがある。そして それだけではなく 誰もが《アース役スサノヲ市民=ガミガミ役アマテラス公民》なる人格形式をもって 互いに相手のマナザシの隙をねらってつくような姿勢を持ちがちである。 マナザシの低さや弱いところを突いて おのれのマナザシをそれとしてアマアガリさせようとする。上位に立とうとする。 このアマアガリ・シンドロームにかんして いまアメリカ人がいちばんきついのではないか? 中国人・共産党は 度を越している。ゆがんでいる。韓国人は 他人を蔑みなおかつ甘えつねに駄々をこねるかたちであたかもこのアマアガリを夢見ている。 日本人は いいとこも わるいとこも あるでしょうか。どうでしょうか。 一部には あたかもアマテラス予備軍と成って いつまでも・どこまでも・しかもしばしば反対論は声を高らかに鳴り響かせているという 《決して実現させようとはしないアマアガリ》症候群に罹っている場合が見られる。 § 4 世界史的存在としての《一人ひとりとしてのわたし》 経済行為の形式ないしその社会的な制度として 資本主義は――あらゆるモノ・コトを商品として巻き込み その商品をつうじて交通するというよそよそしい形でではありながら 世界中のすべての人びとをやはり巻き込み一面ではその一様な形式による互いの交通を遠慮なく普遍的に行なわせる資本主義は それゆえに―― ヒトを誰をも世界史的な存在とした。 この資本主義――第一次の勤勉と第二次のガリ勉との二つの形式から成ると見る――の世界史的な展開の中で 階級の回転が行き着くところまで行き着き(つまり もはやひっくり返してもそれは堂々巡りであると分かったところまで行き着き) 社会の神だなに祀られたお二階さんの王様ごっこがやはり行き着くところまで行き着くなら(――つまり もはや人民よユヅルことはこれ以上してくれるな われもユヅル側になってみたいわいと言い始めたなら――) (α)主戦論および(ω)非戦論それぞれの形式に別れつつ自己形成してきたホモ・サピエンス・サピエンスは 言ってみれば互いの諍いにかかわるその潜在能力を全部出し切ったと言える地点に来るのではないか? ワケの分からないいさかいなどは阿呆らしいと思えるような地点に来たかも知れない。 しかも 階級支配体制やお二階さんごっこ体制といったそれぞれの思想情況に真っ向から対立する民主制というかたちをすでに採って来ている。 ここで ふるいニンゲンは ほろびる。と思われます。 前史を終えて後史に入ると見てよいのか? そう見るのが ふさわしいのかどうか? § 5 おまけとして: 《後史》がどんなヒトのどんな社会になるのか いまはほんとうには分かりません。たぶん《イサカヒ》をむやみやたらに繰り広げることを《前史》の特徴とすれば それを止揚しそれから自由になる。でしょうか どうでしょうか。 もうひとつ。このあたらしい時代を切り拓くのは 世界広しと言えども わが日本人こそがふさわしく その先頭を切ってあゆむのではないでしょうか。(ω)のユヅリアヒが 根付いていると思われるからです。 宗教の弊害もしくはいわゆる一神教の弊害から わたしたちはそのふつうの生活態度において――理論じょう――すでに自由であり あとはわづかに自分たちの多神教としての〔つまり日本教=クウキ教としての〕じつは一神教なる性格を認識し自覚するなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒となること請け合いではないでしょうか。 一神教ヰルスからの免疫をすでに半分 得ている。あとの半分をさらに得て 世界に先駆けてあゆむことが出来るし その使命を負っているのではないか。どうでしょう。
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お礼
★ 自由意思で 受け入れるも受け入れないも 選択出来るのです ☆ すでに言いました。 ★ 「奇跡を起こして人を虜にする事や キリストは この人です」等 言っても それがどうした・・・で終わります ☆ 《触媒》による化学反応といったことについて 説明が少ないとは思っていますが お分かりに成っていない様子に見えます。 ご回答をありがとうございました。