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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:織田政権とは)

織田政権とは

fumkumの回答

  • fumkum
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回答No.6

こんにちは 再追加となり、申し訳ありません。 >ベストアンサーに選んだ回答がシンプルで的を射た 答えだったということですね。 @その通りだと思います。 >左大将は武家では任官は難しいそうですが @確かに、左右大将は摂関になった人物の大部分が経験する顕職です。武家の左大将の任官が難しかったわけではないと思います。「左大将になれない」ではなく、「左大将にならない」だと思います。左大将になった武家は3名。源実朝、德川家康、德川家慶です。特に、実朝は正二位右大臣左大将のまま鶴岡八幡宮で討たれています。これが悪い先例として武家では「左大将にならない」だと思います。 逆に右大将は頼朝以来の先例として、武家の棟梁の就く官職であるとの認識があり、だから右大将のままで、左大将に遷らないのだと思います。全ての左右大将の任官時期を調べると、武家の棟梁が右大将である時、多くの場合左大将は頻繁に入れ替わる傾向が見られます。武家が右大将から左大将に遷るタイミングはいくらもあると思えるのに、そのようにはなっていません。実朝の先例から左大将任官を忌避していると考えられます。 武家が左大将で実朝が討たれた先例を重んじて、左大将任官を忌避することは意外と思われるかもしれませんが、江戸時代の例ですが、日向守は謀反の明智日向守光秀の先例により、尾張守は『太平記』にある名越(北条)尾張守高家の討死が猪武者の印象(「おわりのかみ」の語呂が悪いという説もあります)から任官が忌避されたといわれるなどの例があります。また、戦国時代でも律令官職の持つ伝統的な権威を借り、大義名分を得ようとする傾向が残っています。*少弐氏と博多・筑前の領有を争っていた大内義隆が、(太宰)少弐の上官の太宰大弐の官職に補任されることを強く望み、実現させたことなどの例があります。 *少弐氏=鎌倉時代初期に先祖が太宰少弐の官職に就いたことから、姓を武藤氏から少弐氏に改める。その後鎮西奉行や九州北部の数ヶ国の守護を兼ねる。モンゴルの侵入に関して現地の中心勢力として活躍、室町時代に至って大内氏と争うようになり、戦国期に入ると大内氏の益々の侵攻と、竜造寺氏の台頭などにより滅亡。 >家康が任官したのは秀吉の力によるのでしょうかね。 @武家の官位奏請は、頼朝以来、一般的には征夷大将軍=武家の棟梁の専管事項でした。豊臣秀吉は太政大臣・関白・太閤という公家の官職のみで、征夷大将軍になってはいませんが、武家の棟梁ですので、官位奏請権を握っていましたから、家康の左大将の官位奏請は秀吉の考え方だったと思います。 さて、『信長研究 最前線』という新書が10月に発売されたそうで、昨日読んでみました。その中で、右近衛大将任官に関する記述については、1、頼朝の先例。2、足利12代*将軍義晴が将軍職を子の義輝に譲り、右大将に任官し、父右大将義晴-子将軍義輝体制を作った。この体制にならい、御父右大将信長-子将軍義昭として、信長が将軍義昭を*官位でも凌駕するためとする考えも載せています。3、権大納言・右大将任官は朝廷が信長を*武家の棟梁と認めたことであるとの考えも記載しています。 *将軍義晴が将軍職を子の義輝に譲り=義晴は大御所と尊称されています。 *官位でも凌駕する=信長の任官により義昭・信長共に権大納言ですが、右大将任官には先例に基づく重みがあります。 *武家の棟梁と認めた=Wikiは、「右近衛大将就任・天下人公認・家督継承・安土城築城」の項目を立て、次のように記述しています。 天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)を兼任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものと見られる 頼朝の先例を踏襲する信長の権大納言・右近衛大将の任官は、足利義昭の追放を受けて、新たな武家の棟梁として公的に認知することだという考え方は、古くから言われてきたことです。しかし、武家の棟梁というと当然ではありますが征夷大将軍の存在が大きく、権大納言・右近衛大将任官の意義が一般に顧みられないところがあります。征夷大将軍だけでなく、関白・太政大臣そして右近衛大将の任官により、武家の棟梁として認知されることがあるということもです。近年、最初の武家政権は、従来の鎌倉幕府ではなく、平氏政権(六波羅政権)であるとの考え方が有力になっていますが、従来の鎌倉幕府説の背景に、武家政権=征夷大将軍=幕府という構図・固定概念があったようにも思えます。 信長の権大納言・右近衛大将任官の意義について、質問者の方だけではなく、この質問を見られる方にも知って戴きたいと思って、締切後ですが追加・再追加をさせて戴きました。ご迷惑かとは存じますが、お許しください。

popps
質問者

お礼

大変興味深い話で、引き込まれそうです。  最初の武家政権は平家でしょうね。ただ、じゃあ なぜ秀吉は右近衛大将で政権を握ろうとしなかったのか、 幼少秀頼を関白は時期尚早でも、早々に近衛大将にして 豊臣政権の現職後継者にしていれば、と思います。  秀頼は右大臣になってますが、これも源実朝、信長の 例で右大臣を極官としたのでしょうかね。まあ秀頼は 若かったから平穏に生きていたら、どこまで官職が 上がっていたか分かりませんが。  回答ありがとうございました。

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