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織田政権とは

fumkumの回答

  • fumkum
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回答No.5

こんにちは 締切後の追加回答になってしまいました。仕事の合間に史料による確認をしてから文章にするのでどうしても時間がかかってしまい、締切に間に合わないことになり、ご迷惑をお掛けします。参考程度に読んでいただければ幸いです。 『吾妻鑑』で「源頼朝」についての表記(肩書)を見ると、第1位が「二品(従二位・正二位)」、続いて「(前・故)右大将(家)」「(前・故・右)幕下」などの「右近衛大将」の肩書で登場します。この「右近衛大将」は、建久元(1190)年の11月9日に任官した権大納言に続いて、同年11月24日に任官した職で、同年12月3日に両職を辞任していますので、10日余りの在職でしかない経歴です。三位以上の公卿となると、*家政機関の*政所を構え、運営職員の家司を置き、御教書・下文を発給することができるようになります。鎌倉・室町幕府の職制は、主にこの家政機関を統治に利用していた面があります。鎌倉幕府の成立については従来1192年の征夷大将軍任官時を当てていましたが、現在では1180年の侍所設置。1182年の寿永2年の東国支配権公認の寿永2年の宣旨。1185年の守護地頭(内容に議論がありますが)の設置許可。同年の従二位。そして1190年の権大納言・右近衛大将任官とそれに続く政所の設置など諸説入り乱れています。それぞれ根拠のある説ですが、権大納言・右近衛大将任官もとそれに続く政所の設置も有力説であり、権大納言・右近衛大将任官したことの重みが分かると思います。 鎌倉幕府の場合、頼朝は文治元(1185)年に従二位となり、上記の条件を満たします。この時点で政所を設置したとの説と、建久元(1190)年11月の権大納言・右近衛大将就任後の、翌年(1191)1月設置説がありますが、1191年説が有力ではあります。 *家政機関=平安時代の貴族の例を見ると、政所だけでなく、侍所、納所、文殿などの機関の設置があります。また、三位以上の公卿となる時には、諸大夫成りとして、家司を任官させることがありました。 *政所=5位~4位の場合は公文所の設置が認められます。 では、信長の場合はどうなのか見ていくと、天正元(元亀4年=1573)年の足利義昭の追放、事実上の室町幕府の終焉の後、翌年の天正二(1574)年に、『公卿補任』によると、*従三位参議となり、公卿となったとされていますが、この記述は*翌年の権大納言任官に合わせて、遡って任官したことに記録をつくったもので、実態は無いとの有力説がありますので、『信長公記』の天正三(1575)年の権大納言・右近衛大将の任官関連記事を見ると、次のようになります。 天正三年七月三日の条 信長御官位を進められ候への趣、勅諚御座候と雖も、御斟酌にて、御請けこれなし。併しながら、内々御心持候ふや、御家老の御衆、友閑は宮内卿法印、夕庵は二位法印、明智十兵衛は惟任日向になされ、-以下略- 十月初めとして 大将御拝賀の政執行せらるべきの為、十月初めより、木村次郎左衛門を御奉行として、禁中に*陣座御建立、即時に出来し訖(*おわ)んぬ。 十一月四日の条 信長御昇殿ありて、大納言の御位に任ぜられ、 同七日の条 御拝賀の御礼。-中略-この節、信長、右大将に重ねて御官位を進められ、-以下略- *天正元(元亀4年=1573)年=足利義昭追放の10日後に元亀から天正に改元。 *従三位参議=上記のように参議については実態が疑われますが、従三位についても、天正四(1576)年に正三位に昇った記録があるので、権大納言任官の時点で、従三位になったのではないかとされています。 *翌年の権大納言任官=『公卿補任』では中納言任官としています。 *陣座=大臣以下参議以上の現任公卿(議政官)が、天皇の諮問を受けて国政上の重要政策や、任官等を審議する陣定(じんのさだめ)の場所。本来、左右近衛府の詰所である陣(陣座)で行われた。しかし、長らく実施されていない。 天正三(1575)年の時点で、足利義昭は征夷大将軍の官位を保持し、従三位権大納言。左近衛中将を保持していた可能性があります。これに対して信長は、従三位権大納言・右近衛大将ということになります。しかし、その後正二位右大臣右近衛大将に至っています。 従三位権大納言・右近衛大将で政所を開設するなどの統治・家政機関の設置はありませんが、7月3日の友閑以下の任官、その後の御教書・下文・朱印状形式の文書の発給など、*律令体制(正確に言うと律令の規定そのものでない部分があります)に基づく任官という実質的に征夷大将軍もしくは武家政権の長としての地位にいたものと考えられると思います。ということは、 *律令体制に基づく任官=正確に言うと律令の規定そのものでない部分があります。近衛大将は令外官ですし、朱印状はもちろんのこと御教書・下文も、律令公式令に規定があるわけではないのですが、律令体制の中から発生し、成長しており、当時としては朱印状はともかくとして、当時としては正当の根拠を持つものと考えられていたと思います。 話が横道に逸れてしまいましたが、当時の社会、特に公家社会は先例が最大の基準であった社会であったことを考えると、任命する側の天皇・公家社会は、権大納言・右近衛大将の任官を、天下草創の源頼朝の先例を踏襲するものと意識したでしょうし、受ける側の信長も、当然その先例を意識したものと思います。特に長らく停廃していた陣定による議定を経るという正式の形式を踏むために、陣座を建設することに、信長の意気込みがうかがえます。このことから考えても、権大納言・右近衛大将の任官が、新たなる天下草創、武家政権の出発と認識された可能性は高いのではないでしょうか。 德川幕府の例では、初代の家康は豊臣政権下で左近衛大将に任官していますが、2代秀忠以下15代慶喜まで全てが権大納言右近衛大将に任官しています。将軍世子となると権大納言に任官し、将軍に任官するまでに期間がある場合は右近衛大将に就くことがあります(秀忠・家光・家重・家治・家慶・家定)。権大納言には任官しても、右近衛大将には就かず、将軍襲位と同時の者(家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家斉)や、将軍襲位と同時に権大納言右近衛大将に任官する者(家茂・慶喜)などがいますが、全て権大納言と右近衛大将に任官しています。 さて、過去の例を見ると、頼朝の将軍任官時は、正二位前権大納言右近衛大将。頼家が従二位左衛門督左中将で将軍。極官が正二位。実朝が従五位下で将軍。その後権大納言左近衛大将を経て、極官が正二位右大臣。 摂家将軍としては、頼経が正五位右近衛中将で将軍。極官が正二位権大納言右衛門督検非違使別当。頼嗣が従五位上右近衛少将で将軍。極官が従三位左近衛中将。 皇族将軍としては、宗尊親王が三品で将軍。極官が一品。惟康親王が惟康王として将軍。臣籍降下して源惟康として正二位右近衛大将中納言。親王宣下を受けて極官が二品。久明親王が三品で将軍。極官が一品式部卿。守邦親王が守邦王で将軍。極官が親王宣下後二品。これを見ると親王となると、本品と八省の長(卿)には任じても(他の親王も同じ)、権大納言右近衛大将に任官させない先例があると考えられます。 足利将軍は、尊氏が正二位権大納言で将軍。極官も同じ。義詮が従三位参議右近衛中将で将軍。極官が正二位権大納言。義満が正五位下左馬頭で将軍。正二位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位太政大臣・准三宮。義持が正五位下左中将で将軍。従一位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位内大臣。義量が正五位下左中将で将軍。極官が正四位下左中将。義教が従四位下参議で将軍。従三位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位左大臣。義勝が正五位下左中将で将軍。極官が従四位下左中将。義政が正五位下侍従左馬頭で将軍。従一位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位左大臣・准三宮。義尚が正五位下左中将で将軍。従一位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位内大臣。義満以降義尚までは、五位で将軍に任官しても、権大納言右近衛大将を経て、大臣に至る家格が形成されていたと考えられます。このことについて詳細に研究された方もいて、摂関家並もしくはそれ以上の家格が形成されたとしています。 ところが、十代義材以降は権大納言が極官となっていきます。義材が従五位下左馬頭で将軍。途中将軍を解官され、従三位権大納言で将軍再任。それを極官となります。義澄は正五位下左馬頭で将軍。極官が従三位参議左中将。義澄は正五位下左馬頭で将軍。極官が珍しく従三位権大納言右近衛大将。義輝は正四位下左馬頭で将軍。極官が従三位参議。義栄は従五位下左馬頭で将軍。それが極官。義昭は正四位下参議右中将で将軍。従三位権大納言で追放。将軍といえども争乱の中で京都を維持できず、地方に流れることも多い時代ですが、家格の低下を招いていて、極官が権大納言で、右近衛大将は一名だけという状況です。 江戸時代は武家官位が公家官位と別建てなので、近衛大将に任官しやすく、それ以前は、近衛大将は公家にとっても顕官で、摂関家を中心に将軍家と競合する公家が多く、将軍が近衛大将に任官するのは難しかった事情があるにしても、室町時代の後半は、将軍の権威が低下したことが見て取れます。 以上のように、将軍の官歴(前例ということでもあります)を見ていくと、権大納言右近衛大将、特に右近衛大将任官の持つ意味がわかるように思います。征夷大将軍などの武家の棟梁が帯びるべき官職であり、信長の権大納言右近衛大将はその意味があったのだと思います。つまり、先例を含め、政権樹立の根拠を持つ任官であったと思います。 さて、歴史学者の佐藤進一氏は、室町時代初期の尊氏・義直の関係から、将軍権力は主従制的支配権と統治権的支配権に分かれるとしています。この説には多くの反論があり、説の通りではないとは思うのですが、将軍には、法律・先例などの法的なものに裏打ちされた公的な立場と、突き詰めて行けば、主従制などにみられる私的な立場の両面があったということでもあります。権大納言・右近衛大将任官は、信長の持つ私的な実力武力統治の公的な認知(法的な根拠を与える)という位置付けになるのでしょうが、当たり前のことを言うようですが、公的な認知があってこそ私的な部分が安定することになるのだと思います。 WIKIについてですが、同じように無茶苦茶だと思うことも、イラッとすることも、あきれることもありますが、多くの方が自主的に作成に携わっておられるので、ある面で仕方のないことだと思います。根拠が示されていることも多いので、疑問がある場合は自分で確認してみることもしていますが、要はいくつかある考え方の一つであるというスタンスで見るしかないのだと思います。でも、便利なツールであると思います。 以上、参考まで

popps
質問者

お礼

ベストアンサーに選んだ回答がシンプルで的を射た 答えだったということですね。  左大将は武家では任官は難しいそうですが 家康が任官したのは秀吉の力によるのでしょうかね。  回答ありがとうございました。

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