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量子論の本質と絶対性、存在論について考える
yozora_flowerの回答
- yozora_flower
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量子論になじむかという質問に誰かがなじむという回答をした時点でなじみます。これが量子論です。デカルトはわれ思うゆえにわれありといいましたが前のわれは無意識にあとのわれは意識的に認識しています。無が存在すると誰かが考えた瞬間に無が存在します。もし誰も無が存在すると思わなければ無は消えてしまいます。人は無意識的にいろいろなものを認識していてだからこの世界は豊かなのです。無かどうかわからないかわからないと思った時点でその事象が現れます。
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お礼
そうですね。おっと まづは ご回答をありがとうございます。 ええっとですね。要するに《主観》が何かを捉えたり何かを思ったりしたとき その主観のかぎりで その知解行為や意志行為は 現実であるといった世界の捉え方をおっしゃっている。と思います。 ただしですね それは ちょっと見方をずらすと もうそれはいわゆる独りよがりの見解にしかならない。と思われます。 おのれの主観において明証性があったとしても ほかの人の主観においては どうなのか? そういう視点が 脇に置かれてしまっていますよね。たぶん わざとそこは(他者の視点というのは) 括弧に入れてしまって 問わないようにしているのだと思います。 そういう意味で わたしは この主観における明証性とそれにもとづき世界は存在するのだと主張すること についてはあまり加担することが出来ません。 というのが いつわらざるわたしの反応です。どうでしょう。