• ベストアンサー

考謙(称徳)天皇について 2つ

ossutoshiの回答

  • ベストアンサー
  • ossutoshi
  • ベストアンサー率50% (6/12)
回答No.3

1.孝謙天皇が独身だった理由。 女帝は「天皇の后が即位」するか「生涯独身」かのどちらかです。 理由は「男系を維持するため」です。 皇族と結婚するならともかく、他の氏族の男性と結婚すると王朝が変わってしまいます。 たとえ皇族でも、天皇に即位した後だと、天皇につり合う男性は存在しえないはずなので、即位後の結婚はありえません。 ※ 余談ですが、「逆説の日本史(井沢元彦)」では、「ひょっとしたら孝謙天皇は王朝交代があっても構わないと思っていたのではないか」との考察をされています。支持するかどうかは別にして、考察としては面白かったので紹介しておきます。 2.淳仁天皇と結婚しなかった理由。 淳仁天皇は、天武天皇の孫ですが、もともと影の薄い存在でした。 749年に聖武天皇が退位して上皇となり孝謙天皇が即位しますが、756年に聖武上皇か亡くなると、翌757年に孝謙天皇の皇太子となります。 藤原仲麻呂の強い推挙があったと言われています。 と言うことは、孝謙天皇が即位した時点では、淳仁天皇(当時は即位前なので大炊王ですが)は、皇族とは言えども、孝謙天皇とつり合うレベルじゃなかったわけです。 孝謙天皇が、天皇に即位する前に大炊王と結婚していて、聖武天皇の次に大炊王が即位する、というパターンだったら、ひょっとしたらありえたかも知れません。 3.孝謙天皇が退位し、後に重祚して称徳天皇になるまでの間、何と呼ばれたか。 これは「まわりから何とよばれたか」ということでいいでしょうか? それなら「太上天皇(上皇)」でしょう。 私は専門家ではないので資料を調べたわけではありませんが、この時点では重祚するかどうかなんてわかりませんから、他の「天皇を退位した人」と同じで「太上天皇(上皇)」しかありえないと思います。 一旦天皇になったから「内親王」はいまさらありえません。 本名の「阿倍」は、なおさらないでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

しかし この2人が結婚して子供が出来ていれば男系と天武系統が維持できた可能性もあります 仮に女の子が生まれても両親が天皇なので男系は維持できたし やはり天武系を認めない何者かの力が働いたのでしょうかね

関連するQ&A

  • 考謙天皇と道鏡の関係

    今日予備校の授業で日本史で奈良時代を習いました。 その際先生はここは予備校だから言えないが、考謙天皇と道鏡の関係にまつわる下ネタ話はすごいぞ とだけ言って先に進んでしまいました。 、、、すごく気になります。その下ネタ話を詳しく知っている方がいらっしゃったら教えてください(笑)

  • 女性天皇もありやと思います

    日曜でやってた某番組の内容についてですが、天皇の事についてです。 まだ悠仁親王殿下がお生まれに成られてない前に小泉前首相が今の皇太子で在る徳仁親王殿下の次の天皇陛下の事に関して当時の小泉前首相は愛子内親王殿下が居られるから女性天皇にすべきと言った事で当時そうする為に小泉首相は皇室典範の改正をする事を決めましたが、そのときに丁度秋篠宮様の間に今の悠仁親王殿下がお生まれに成られた事によって結局皇室典範の改正はなしに成りました。 この事によって皇太子殿下に「廃皇太子論」がありましたが、そんなのは許せません。 徳仁親王殿下は確かと今の今上天皇陛下と美智子様の間でお生まれに成られ其の上すでに皇太子で在る様に立太子の式も済ませてあります。 然しながら愛子内親王殿下がお生まれに成られましたが男系の親王が居らず、其の事で次の天皇陛下に悠仁親王殿下をと言う声がありますが、自分は例え幾らあれでも次の徳仁親王殿下の次の天皇陛下は愛子内親王殿下が成るべきやと思います。 歴代の女性天皇の例に一番最初に女性で天皇になられたのは推古天皇。 そして皇極天皇・斉明天皇・持統天皇・元明天皇・元正天皇・孝謙(称徳)天皇・明正天皇・後桜町天皇陛下が居られます。 この歴代の女性天皇の一例として未だ幼き親王の成長を待つ為に明正天皇陛下が即位されてます。 一応上記の様な過去の一例も在りますが、現代は現代として徳仁親王殿下と雅子さまの間にお生まれに成られた愛子内親王殿下が徳仁親王殿下の後を継承され、その次期天皇として今の悠仁親王殿下が天皇として即位成されたらええと思います。 要するに、今上天皇陛下→徳仁親王殿下→愛子内親王殿下→悠仁親王殿下→・・・と言う感じです。 こう言うことに関しては愛子内親王ではなく悠仁親王殿下の方にすべきと言う意見も在りますが、先刻上記で述べた親王の成長を待つために即位された明正天皇陛下の例以外で即位された女性天皇も居られます。 なので自分は女性天皇として愛子内親王殿下が即位されるべきやと思います。 皆さんの意見は如何でしょうか? 一番大切なのは皇室の方々の意見を聞くのが一番と存じます。 ただ自分はごくごく普通の一般人なんでそんな事はできませんが・・・。

  • 吉備真備が阿部内親王の教育係をしたのはいつ頃から?

    吉備真備について調べています。 真備は735年に帰朝後、阿部内親王の教育係をしていたようですが、それはいつ頃からなのでしょうか? Wikipediaには「天平13年(741年)に東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。」と書かれています。 しかし私の読める範囲の書物では、阿部内親王が皇太子に立てられる以前から真備が教育係をしていたように書かれたものもあり、はっきりとしません。 専門的な歴史書などはどこから調べたらよいかわからず、困っております。 どなたか詳しい方がいらしたらご教授ねがえますでしょうか? 何卒よろしくお願いいたしますm(_ _)m

  • 後桜町天皇

    後桜町天皇はなぜ独身を通したのでしょうか? 1740年に生まれ即位したのが62年、弟で1歳年下の遐仁親王がいるのですから、この時代なら10歳になる前に婚約し、結婚というのが通常で、然るべき相手がいなければ出家することも多く、この弟の遐仁親王は桃園天皇として即位し、21歳まで生きてますから、智子内親王(後桜町天皇)が独身を通す必然性はないように思います。 弟の桃園天皇は、晩年の大正天皇のように寝たきりとか、13代徳川家定のように後嗣に恵まれない事を予想されるという可能性は、息子の後桃園天皇が生まれますから、可能性としては薄い。 長寿を全うしているので健康問題もないし、上皇としても職責を果たしているので、聡明な方と想像されます、容姿は写真もない時代なので分りませんが、美醜を問われるような時代でもなし、むしろ独身で出家もしないというのが不思議に思いますが、何か事情があったのでしょうか?

  • なぜ称徳は復権できた?

    藤原仲麻呂は天皇以上の権力を持っていたの譲位していた考謙(称徳)女帝が復権宣言をするとあっさり失脚し、軍事的にもなすところなく敗死しています。 考えてみれば非常に奇妙なことです、彼は今日で言えば総理大臣兼財務大臣兼日銀総裁兼防衛大臣に加え天皇代行までしていたわけですね。また橘奈良麻呂事件では一気に政敵を葬るくらいの敏腕ぶりをみせているのに宗教と現実から離れた理想政治を訴えるだけの考謙にあっさり敗れたのはなぜでしょう?いくら横暴でも政治力はあったわけですからそれなりに従う兵や行政官もいたのでは?と思うのですが。

  • 男系天皇維持のための旧宮家は何処にあるの?

    日本に天皇陛下は歴代で百人くらい居たと思いますが、全部男系だったんですよね。でも、皇后様の生理がイマイチなのか、子どもが生まれないときもあるよね。そうなると、嫌でも男系が途絶えるじゃん。しかし、何が何でも男系が古来からの伝統であり、その対策は即離婚なのかな?皇后陛下と離婚して、生理が順調っぽいお妃サマを見つけて再婚し、男が産まれるまで妊活するんだよね。 んが、令和だと不妊や女児出産を理由に離婚するのが難しいそうな。んで、悠仁親王殿下の代まではあるのだろうけど、その後がかなり心配なのだとか。 あと30年の間で、悠仁親王殿下に男の子が生まれそうですか?生まれない可能性も十分にあるかと。 このとき対策が無ければ、女系天皇を認める or 天皇終焉の2択になるよね。 んが、皇室に男の子が生まれないときの男系維持対策として、「旧宮家の皇室復活」があるとのこと。だから、あと200年くらいは殆ど心配ないとのこと。ですが、そんな旧宮家が何処かにあるのですか? この旧宮家なるお屋敷に、昔の天皇の男系血統のお坊ちゃまが住んでるの?顔が見たいのですが、名前をご存知の方が居ましたら教えてください。なんと言っても、悠仁親王殿下の皇位継承の責任分散をされる方ですから、ググったら顔写真の1枚2枚は出てくるかと。 本当にそんなお方は居るのですか?そのお方は、江戸天皇の次男坊の孫の孫の孫って感じかな?

  • 天皇が女性だった場合、その旦那さんの呼び名は何?

    女性天皇の問題が取りざたされていますが、 天皇が女性だった場合、その旦那さんの呼び名は何になるのでしょうか? 天皇が男なら、その奥さんは皇后ですよね。 皇太子が男なら、その奥さんは皇太子妃ですよね。 天皇や皇太子が女性になった場合、その旦那さんは何と呼ぶのでしょうか。 昔、女性天皇がいた時代には、結婚は皇族どうしだったため、 旦那さんは「~親王」なり、もともとの呼び名を通せば良かったわけですが、 今は一般人との結婚になりますよね。となると呼び名は何?殿下? 考えてみれば、女性天皇or皇太子が、一般人と結婚した例って、 日本史上ないんですよね。 一体どうなるのかなと思いまして。 詳しい方、おられましたらお願いします。

  • 【天皇家は朝鮮人の血が濃いという嘘】

    【1】天皇家は百済系朝鮮人の血が濃いという話を聞きました。 具体的にどう濃いのかを調べてみたら、全然濃くなかったのです。逆に薄いくらいでした。 天皇家に入っている百済系の血は、たった一人だけです。 桓武天皇の母親が200年前に来た百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠」だけです。 200年前に帰化して、日本人と混血を繰り返した人物は朝鮮人でしょうか?日本人でしょうか? 例えば、自分の友人に江戸時代の1800年に日本に来た朝鮮人がいたと仮定します。 その朝鮮人の末裔は200年間も日本人と混血を繰り返しました。 そして、その末裔と職場・学校で知り合います。 その人は朝鮮人ですか?日本人ですか? 天皇家に血を分けた百済系帰化人は200年前に日本に来て混血を繰り返した「高野新笠」一人だけです。 それなのに、どうして世間では「天皇家は百済系の血が濃い」と言う俗説を言う人がいるのでしょうか? 【2】百済王族の末裔の帰化人の「高野新笠」は生きている間は皇后として認められていませんでした。(死後、皇后となる。) 200年前に帰化して混血を繰り返したのに、生きている間に皇后と認められなかったのは異例です。 これは、当時の帰化人の扱いの低さを物語っています。(実際、大和朝廷内での帰化人の扱いは低かった。) 当時の人々が「百済系帰化人の末裔などは国籍は日本人でも、皇后として認められない」という行動をとった証拠でしょう。 「高野新笠」の夫と息子は天皇です。 「高野新笠」が皇后と認められない理由は他に何かありますか? 【3】桓武天皇の父であり、「高野新笠」の夫である、白壁“王”(のちの光仁天皇)は、天皇を継ぐ立場ではありませんでした。 当時、天皇を継ぐ可能性がある者は“親王”を名乗ります。 “王”は一応、皇族ですが、天皇を継ぐ可能性は低いです。 白壁“王”はまさか天皇になるとは、夢にも思っておらず、また周囲も白壁“王”が天皇になるとは思っていなかったので、百済系帰化人の「高野新笠」との結婚を認めたのではないでしょうか? そして、天武系皇族が度重なる粛清で途絶えたために、天智系の白壁王が62歳という高齢で天皇になった。 仕方なく、(血の問題で)天智系の白壁王を天皇になったとしても、百済系帰化人の「高野新笠」を皇后として認めるわけにはいかない。 当時の人々はそう考えて、「高野新笠」を皇后として認めなかったのではないでしょうか? 【4】「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいます。 果たしてそうでしょうか? 百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられましたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下しました。 大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っています。 当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下します。 具体的には、在原業平などがそうです。 在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女です。 在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたります。 祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 従って、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」というのは間違いでしょう。 具体的に天皇家に血を分けたのは「高野新笠」一人だけですので。 いかがでしょうか? 【5】天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか?九州から来たのか?中国から来たのか?朝鮮半島から来たのか? (私は九州から来たと思っています。) 中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」 (百済王族は最初は扶余姓を名乗り、しばらくしてから“余”と1文字に略した。余豊璋など。) 従って、天皇家は朝鮮半島から来たと断定するのは不可能です。

  • 正良親王と正子内親王は双子だとされていますが

    正良親王(仁明天皇)(810-850) 正子内親王(810-879)(810-879) の母親は橘嘉智子で、生年が同じなので双子だと言う説があるそうです。 しかし、かつて双子は畜生腹などといわれ 特に男女の双子は心中したカップルの生まれ変わりだと忌まれた と聞いています。 そのため、双子の片割れは抹殺されたり 里子に出されたとも。 しかし、正良親王は即位して仁明天皇となっており 正子内親王は淳和天皇の皇后となっています。 (二人の間に生まれた恒貞親王は承和の変で廃太子となって かわいそうな運命をたどりましたが) 正良親王と正子内親王には「双子なので忌まれた」という影が感じられません。 それはなぜなのでしょうか。 推測でも結構です。 回答をお待ちしています♪

  • 天皇家に詳しいという本文内容のブログを探しています。

    天皇家に関することが書かれた下記の内容のブログを探しています。 とても詳しく記載してあり、一部の方々で盛り上がっているということを知人に聞きました。 もしご存知の方がいらっしゃいましたらぜひ教えて下さい! 雅子妃について  一生独身で、外交官として生きてゆく覚悟をしていらっしゃった方。  皇室に嫁いで、その夢が絶たれた。  ご病気なのだから、あまり批判せず、暖かく見守ってほしい。 紀子妃について  明治天皇の皇后になられた、一条美子(はるこ)様も、学問に秀でた方。  大正天皇の御生母、柳原愛子(なるこ)様のご実家である、柳原家は、学問に秀でた家柄。  学者のお嬢様である紀子妃は、天皇家にふさわしい方。 華子妃について  津軽家のご出身。  香淳(こうじゅん)皇后のお母様は、薩摩のご出身。  華子妃と、香淳皇后が、お手をつながれている光景は素晴らしい。  美しく聡明な妃殿下方の存在が、戊辰戦争でできた日本国内の傷を埋めたと言われている。 美智子皇后  「人は誰でも他人が理解したり、手助けしたりできない部分を持っているので、それを忘れずに   そうした部分に立ち入らないこと、ただそうした姿をお互いに認め合いながら、懐かしみあい 、   励ましあっていくことができれば・・・。」  皇后様が、よくおっしゃる様に、心をよせるという言葉がある。  慈愛の心に満ちた方。 以上となっています。 どうぞよろしくお願いします!!!!!!