縦社会を形成するにはどのような人材が必要か?

このQ&Aのポイント
  • 縦社会を形成するには、鍛えられた強い精神を持った人材が必要とされます。
  • スパルタ教育を信奉する人々は、自己を超える精神と服従の意識を重視し、競争社会で求められます。
  • 彼らの理想は国民を鍛え強くし、そのような人材が国家を担うことです。そのためには食うか食われるかの精神を幼少時から育成します。
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縦社会を形成するのに担う人材とは?

 今から70年近く前の太平洋戦争の時、疎開の体験 柏原兵三氏の小説「長い道」を漫画化した  藤子不二雄A氏の漫画「少年時代」で主人公進一が 「東京の学校に居る時は、級友はそれぞれがそれぞれで認め合っていて良かったが、ここは何故剛の恐怖で過ごさないといけないのだろう?そして、だれが上とか下とかに拘るのだろう?」と云う台詞がありました。  この台詞に私は共感を得ましたし、心情的には進一の様な感覚ですが、  縦社会 鍛えられる と云う処で考えると剛の様な生き方が好まれるのですね?  進一は別に反抗もしないし、基本的な事は行うが、冷めているので、鍛えられない軟弱者なんですね?   剛は「食うか食われるか」の生存競争に勝ち、自分の地位を確保したので、競争社会では好まれる生き方なんですね?   事実、スパルタ教育を信奉する人達は、優しさや正義より、御上への服従と超えられる精神を造る事を目的とし、その為にいじめや暴力が発生しても止む得ない位に考えている人が多いと思います。   だから、スパルタ教育の処から見れば、「美しい国」とは犯罪の減少や公害の少なさ、譲り合う精神、福利厚生でもなく、「越えられる強い精神」なんですね?   それが無くなっているのを憂いているのがスパルタ教育を信奉される方なんですね?   だから、彼らの理想は  1 国民(人間)は鍛え強くしなければならない  2  その様な人材が国家を担う  3  幼少時より、「食うか食われるか」の精神を体験させよ  4  暴力が嫌いな人間は沙汰されていく  5  強く逞しくなるが、暴走してもらっては困るので、強権な御上を置いて逆らわない様にする  6  御上の批判をそらす為に反対勢力や他国を御上は非難する  7  御上へのストレスの捌け口として、誰かを度を過ぎない限り、苛めを認める  8  福祉等(過剰に貰っている人が居り、これは私も問題があると思うのですが)は要らない     災害時の被災者にも甘えと切り捨て、生存競争に勝ち生き残って者だけが良いとされる  9  運動部の体罰や自衛隊いじめ自殺事件等も公表されない   10 軍事、数字優先なので公害の問題も発生するが、強くなる事を第一に置くので問題に成らない  日本に取って外交上ネックに成っている中国 北朝鮮 韓国はこの様な感じですね?  縦社会 唯逞しく育つ事を願うとこの様なやりかたが最適なんですね?  又、日本は海に囲まれ、「和」を尊ぶ社会ですが、唯強く逞しくなると云う事を第一に置く、 世界の国はこの様な感覚が多数なんですね? ご回答宜しくお願い致します  

noname#250543
noname#250543

質問者が選んだベストアンサー

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  • hekiyu
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回答No.1

これは、突き詰めると、全体と個の調和の問題だと 思われます。 何故国家があるのか。 それは個人の生命財産を守るためです。 だから国家を持たない民族は悲劇です。 かつてのユダヤ人しかり、現在ではクルド人、バスク人 などですね。 彼らは何とかして建国したい、と必死です。 その国家を維持し、国際的生存競争において生き残って 行くためには、国民を組織化せねばならず、そこでは 剛のような人材が必要になるわけです。 しかし、それが行き過ぎると、個人の利益、感情を 損なうようになります。 国家の為だと称して、のび太みたいな人間が苦しむ 結果を生じます。 それで全体と個の調和をどの程度にしたらよいか、と いうことが問題になります。 ”中国 北朝鮮 韓国はこの様な感じですね? 縦社会 唯逞しく育つ事を願うとこの様なやりかたが最適なんですね?”     ↑ 中韓に限らず、欧米もそうです。 こういう国は「父性社会」と呼ばれます。 日本のように、のび太が主人公になれ、共感を呼ぶ ような社会は「母性社会」と呼ばれます。 どちらが良いか、というよりも、どちらが国民性に 適合しているかの違いだと思います。

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  • gouzig
  • ベストアンサー率25% (536/2078)
回答No.2

概ねその通りだと思います。 現実にそのような国家、民族はありますね。 一方、”開かれた社会”ではそのような強権な人間は淘汰されます。 その理由は、そのような強権社会は楽しくないからです。幸せを感じにくいのです。 今の日本の中でもいたるところに見られますよ。 ある種の業界権力者が牛耳っている町があります。建設土建業や農業団体などです。 首都圏でもあります。 一般の市民から見えない業界同士の付き合いで経営が成り立つ業界や企業です。 強権的な経営手法、役員を中心に幹部が反社会勢力に似たような手法で社内を牛耳っているのです。 これらでも、社員の過労死やいじめでマスコミや一般市民にその体質が洩れると大変です。 国や県などの公的機関が調査に入らざるをえない状況が出てきます。 そういう意味では、日本にもまだ、”開かれた社会”とはいえない部分がありますね。

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