名字にも通名はある?

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  • 豪族の中に「谷一族」と書かれた人物がいましたが、地域には「谷川」「谷西」「谷中」といった谷姓の家が存在します。谷一族は名字の最初に「谷」とつく人々を指していたのでしょうか?また、本家から分家ができる際、分家が本家の名字の文字を取って新しい名字を名乗ったのでしょうか?
  • 戦国時代の地域には「谷一族」という表現があり、谷姓の家が存在していました。しかし、谷姓の家族が分家した際、新しい名字に本家の名字の文字を取ることはあったのでしょうか?
  • 豪族の中には「谷一族」という表現があり、地域には「谷川」「谷西」「谷中」といった谷姓の家が存在しています。谷一族は名字の最初に「谷」とつく人々を指していた可能性がありますが、正確なことは分かりません。また、本家から分家ができる際には新しい名字に本家の名字の文字を取ることがあったかもしれません。
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名字にも通名はある?

自分の住んでいる地域の豪族を調べていたところ、他の豪族は「山田太郎」や「山田」のように書かれているのですが、その中に「谷一族ら」と書かれている人がいました。現在この地域に「谷」と名乗る家は1軒のみですが、「谷川」や「谷西」 「谷中」と名乗る家が2軒ずつほどあります(これらが谷家の分家なのかは分かりません)。当時は名字の最初に「谷」とつく人々を「谷一族」と呼んだのでしょうか?ちなみに「谷川」や「谷西」 「谷中」にはそれぞれ本家があり、50年ほど前まで屋敷があったそうです。自分は谷西の分家です。 長々と書きましたが、結局聞きたかったのは 「本家から分家ができる時、分家が本家の名字の文字を取って、新しく名字を名乗ることはあったのか?」ということです。稚拙な文章で伝わりにくいかもしれませんが ご教示お願いします。時代は戦国時代で、地域はそんなに広くないです。

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

>「本家から分家ができる時、分家が本家の名字の文字を取って、新しく名字を名乗ることはあったのか?」 全く無かった訳ではないようです。 有名なのが藤原氏の「藤」です。 佐藤、斎藤、後藤、近藤、加藤、藤田など藤がつく人は藤原氏の末裔だという話があります。 九州北部に多い、末武、末松、武末、末木などの「末」は陶氏の末裔ではないかという話もあります。 いずれも文献等の確たる史料はありません。 関西地方に多い白木神社は新羅神社の系統ではないかと言われています。 苗字(名字)で古いのは源平時代に、一族が分散して居住して、夫々の居住地の地名を名乗りとしたのが多くみられます。 千葉氏、三浦氏、北条氏などは平氏の末裔です。 武田氏、足利氏、新田氏は源氏の末裔です。 これについては史料が残されています。 このことから、土地の有力者がその土地の地名を苗字とする伝統が生まれました。 武田信玄もご先祖は源義家の子孫で関東の武田郷に居住していましたが甲州へ移ってからも武田の名乗りをそのまま使いました。 谷という地名がお近くにないようであれば谷一族のご先祖もどこか「谷」と呼ばれていたところから移住してきたのかもしれません。 尚、江戸時代までは人口の95%以上を占める庶民は苗字を持っていませんでした。 明治政府が国民全員に苗字をつけるように定めました。 このときの苗字はあくまでも自己申告でした。 身近な有識者であったお寺の御住職につけてもらった人が多かったようです。 村落全員が血縁とは無関係に、居住地の地名を苗字としたケースも多かったようです。 現在も、村落の大半が同じ苗字というところは珍しくありません。 山田、下田、上田、田中、田上、浜田、高田などは恐らく村落の田圃を呼び分けていたのがそのまま苗字に流用されたのでしょう。 商家では屋号をそのまま苗字として届け出た人もいたようです。 このような経緯がありましたので、現在は苗字だけを頼りに系譜をたどるのはほぼ絶望的な状態です。 村落や寺院に残された史料に頼らざるを得ないというのが実態です。 菩提寺に古い過去帳が残されていれば、それを抜きだして整理されれば、ある程度の予測はつくかと思います。 大学の歴史学の先生方もこれをセッセとやっています。

その他の回答 (1)

  • nitto3
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回答No.1

武家以外は苗字がなかったからね。 いろいろな呼び名があったと思いますよ。 私の親戚は苗字があっても横丁と呼んでいましたし。 下の家、上の家などもあったね。 谷一族は何とか谷の一族なのかな?

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