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いつごろから日本国や日本人を、自覚し始めたのですか

kouki-koureisyaの回答

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回答No.11

白村江の戦いでは庶民も「日本国」を意識したのではないでしょうか。 もちろん当時「日本」という国号はなかったのですから、唐や新羅に対して我らは、例えば“ヤマト”だと思ったことでしょう。 ヤマト王権の支配地から兵として駆り出された地方豪族配下の若者たちの数は、4万人ほどと推定されています。 大多数は庶民だったに違いありません。 長老の命ずるまま博多湾に終結した若者たちの多くは、何が何やらさっぱり分からなかったのか知れませんが、日本史上、国家の規模で行う最初の外征です。 以下、司馬遼太郎著『街道をゆく 韓のくに紀行』から引用します。 陸地を離れて洋上に出たとき、 「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」 ということに気づいたにちがいなく、同時にそれまで小さな氏族の氏人にすぎなかった自分が、日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。 敵は「唐」である。 唐を意識するとき、当然ながらかれは安曇のなにがしや大伴のなにがしではなく、日本籍のなにがしであるということを意識すまいとしても意識するようになる。 日本人が個々の意識のなかで誕生するのは、このときが最初であったにちがいない。 (引用終わり) そして同時に日本の統一的な“ぬし”はだれかということを当然意識するようになり、兵士たちは上から教えられたとおりそれが天皇(スメラミコト)である、と痛烈に思ったにちがいないと続きます。 しかし、天皇という存在を知ったとしても、なお日本人はばらばらで、 というのはたれでもおがめる統一の神をもっていなかったから、 「それぞれがそれぞれの神をいただく諸氏族連合の日本部隊」で、組織からいえば軍隊というよりは弓矢を持った集団にすぎない面も多かったに違いない、と続きます。 42年も前の著作です。 最近の研究がどうなっているのか知りませんが、こんな見方もあるという程度の回答です。

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 引用して頂いた「韓のくに紀行」は、恥ずかしながら、本棚の奥にしまい忘れていました。これから読み返して見ます。ご回答で印象的だった文章は、この白村江の戦いで庶民までが、 <「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」> <日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。> です。日本が具体的にどの様になっているかはわからずとも、何となく日本である、ということが意識されたのですね。また、手段として、スメラミコトを活用したのですね。

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