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《押し籠もり》についての批判です。

 基本的にもあらためて批判する必要があると捉え さらにはすでに問うたところの続きとしても 喫緊の課題であると考えました。  これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。  《押し籠もり》とは  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。  体制から落ちこぼれる場合の思想――生活態度――を単純に倫理規範にうったえて批判をする。つまり要するに きみたちは 怠け者ではないかというような批判です。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りから受け取る見方考え方を受けつけない。じつは 受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。(もしくは 二重帳簿ならぬ二重言語)。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

みんなの回答

noname#214841
noname#214841
回答No.10

補足があつたのですね。気付きませんでした。 レーヴィットについては、いままでのページでも見たやうな気がしますが、わからないのでまつたく読んでゐません。梯子がない、といふのはしばしばなされる指摘ですが、自戒とします。回答するだけのものをもちあはせてをりません。ここで勉強して、自分なりの考へができあがりましたら、そのときお相手してください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  レーヰットは 公開質問としました。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

B様、こんばんは。 >「読み取らなくてもよいとすでに考えた。」 じぇじぇじぇ >「もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?  オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。」 はいはい。その上で、「ヒキコモリ」をこそ「異常」だ、と決め付けて疑わない。 罪深いと思いますよ?

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  たますぽーろぎ。  ★ はいはい。その上で、「ヒキコモリ」をこそ「異常」だ、と決め付けて疑わない。 / 罪深いと思いますよ?  ☆☆ ニートや引きこもりは 人間の人間による人間のための未来社会構築の過程である。またもし疾患だとしても 明らかに社会源病である。   【Q:ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6191141.html

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noname#214841
noname#214841
回答No.8

「お礼」、ありがたうございました。 >>子供のように強情でワガママ。物惜しみはするし、虚栄心は人一倍強い。 >>哲学の徒なら たいていはそういった側面を持ちます。 豚は「哲学の徒」ではないのですが、これは絶対にまちがひないとおもひました。自信があります。それはともかく、なにかあるのかな、とは感じました。 いづれにしてもネットのつきあひは、むづかしいものです。とにかく悪意に受け止める。そして対話を拒否する、この姿勢は問題です。私は、疑問に感じたらたづねるやうにはしてゐます。いままでも、それでずいぶん誤解がとけました。実社会でふつうにおこなつてゐることが、なぜできないのか、不思議です。 でも、人は話をしたくないときもあります。気長に待つしかないのかな、とは思つてゐます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 豚は「哲学の徒」ではないのですが、これは絶対にまちがひないとおもひました。自信があります。それはともかく、なにかあるのかな、とは感じました。  ☆ ぢゃあ ねこさんに訊いてみてください。  ★ いづれにしてもネットのつきあひは、むづかしいものです。  ☆ これは 通りすがりにああぢゃこうぢゃ言っても始まりません。気長に一つひとつの主題を追う過程で 自分としても・また相手とのやり取りのあいだにおいても 何か見つけることができるならば よいでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 K.レーヰットからの引用です。  ▽ (レーヰット:日本の学問) ~~~~~~~~~~  学生たちはたしかに 献身的に私たちヨーロッパ人の文献を研究し じぶんたちの知性によってそれを理解してもいるけれども じぶんたちの研究のなかから かれら自身の また日本人の自我のために いかなる帰結をもみちびき出さない。  ヨーロッパの概念 たとえば《意志》《自由》《精神》といったものを かれら自身の生活 思考 言語において相応するもの ときにじぶんたちのそれとは相反するものと区別したり 比較してみたりすることはしないのだ。  かれらは それ自体として見知らぬものを じぶん自身のためには学ばない。そうすることが自明であるかのように ヨーロッパの哲学者の原文のなかに歩みいって じぶんの概念に対してその哲学の概念を 根源的に未知なありかたにおいて見ようとはしない。〔中略〕  かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち 日本的に感じたり考えたりする した(下)の 基本的な階と プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている うえの階である。  かれが一方から他方へとわたってゆく梯子はどこにあるのだろうか。ヨーロッパの教師は そう自問してみる。  (誌《思想》掲載論文 その末尾に置かれた《日本の読者に寄せる後記》より。  熊野純彦・解説    レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.488   Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 )  ▽ (同上・つづき) ~~~~~~~~~~~~~~   ボードレールやフロベールが プルードンやソレルが ワーグナーやニーチェが ヨーロッパに対して向かいあったのとおなじように 仮借のない鋭敏さでじぶん自身とその国民を問いただす日本人が果たして存在するのだろうか。私には疑わしく思える(しかし まちがっていたら教えてほしい)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#214841
noname#214841
回答No.7

>>子供のように強情でワガママ。物惜しみはするし、虚栄心は人一倍強い。 これは、まつたくそのとほりです。 >>「子供なんですよ」というと、子供さんに失礼なのかもしれないので、 >>未だ人間以前の状態なのではないでしょうか。 このあたりも、さうです。 >>《人豚》ってご存知ですか? これも、自他共に認めることです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 《人豚》  ☆ の関係する文章。いくら何でもまさかですよ。  ☆☆ オシコモリ  ☆ は 要するに都合のわるい問いかけに対しては いっさい答弁をしないという特徴があります。受信をすらしない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >>子供のように強情でワガママ。物惜しみはするし、虚栄心は人一倍強い。  これは、まつたくそのとほりです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いい加減なことを言ってはいけません。哲学の徒なら たいていはそういった側面を持ちます。  送信はするが受信はしない。半鎖国状態としての心性。これを オシコモリと言います。しゃべる蛸壺です。

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noname#214841
noname#214841
回答No.6

私のことが書いてあるやうですが、半分くらゐ、意味がわかりません。なにか他に資料があるのでせうか。 今回書いたことは、今までにも何度か書いてゐますし、特に変化はないのですけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 ん? ちょっとよく意味がどうなっているのか 飲み込めないのですが。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私のことが書いてあるやうですが、半分くらゐ、意味がわかりません。なにか他に資料があるのでせうか。  ☆ ひょっとして 《オシコモリ》が当てはまるというのぢゃないでしょうね?  オシコモリは 《資料》はありません。造語ですから。  そうですね。この問いでのひとつの目指すところは ヒキコモリや KY を持ち上げることです。ほめることです。ニートも そうです。  そう言えば ニートについては 質問がしてありました。  【Q:資本主義の中でニート以外に《自律》しうるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8519936.html  やはり長いのが 玉にきずですが これは あんがい広いかたちで回答者があつまってくれたみたいです。  どこか読み違えていますか?

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回答No.5

質問の内容からは外れるのですが、 《人豚》ってご存知ですか? 漢の高祖・劉邦の話が少し出てきたので、 もののついでで、 ご紹介しますけれど、 ~~~~~~ そして呂太后は、長安に入朝した如意を毒殺した。その前後、戚夫人も殺害された。『史記』によると呂后は戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落としてそれを人豚と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せた為、彼は以後激しいショックを受け、酒色に溺れるようになり早世したという。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9A%E5%A4%AB%E4%BA%BA ~~~~~~ ここまで非人間的なことが、できちゃうんですよね、 (古代)中国の人は。 この話は、呂太后を極悪人に仕立て上げるために作られた話なのかもしれませんが、 それにしても、 こういったことを思いつける中国の人のメンタリティーは、何に由来しているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづきましてのご回答をありがとうございます。  いえいえ。中国人は カニバリズムのうたがいがかけられています(* 1)。いまも うたがわれています。  そして つい最近 日本人の現地体験として伝えられたことは 中国人は――例の一人っ子政策の所為だと これは 思われますが―― 他人の子どもを平気で 隙あらば さらって行くのだそうです(* 2)。または 売買となるとか。  隙があるほうが わるい。という論理だそうです。  ですから 日本で小学生が 町内ごとに集団で登校する姿を見て 中国人は なんと日本人は子どもに対して残酷な心になれるのかと おどろくそうです(* 3)。誘拐は 日常茶飯事なのだとか。  * 1:▽ (ヰキぺ:カニバリズム) ~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0  § 3 各地のカニバリズム  § 3.5 中国  小室直樹の評するところによれば、中国では古代から近世にかけて食人の習慣が非常に盛んであった。    中国が他文化の食人と比べ異質なのは、食人が精神異常行為・宗教的行為・飢餓時の緊急避難行為などではなく、きわめて日常的な食文化として根づいていたとする。膨大な文献が中国における日常的な食人行為を伝えているが、中国人の道徳規範である儒教と道教は、食人についてまったく触れておらず、これは食人が中国文化において認容されていることを示している(小室直樹『資本主義中国の挑戦』『中国共産党帝国の崩壊』)  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  * 2:▽ 年間20万人!? 一人っ子政策緩和で誘拐ビジネス増加の危機   http://nikkan-spa.jp/545747  * 3:▽ 中国人観光客、日本の小学生の“常識”に驚愕!「そんな残酷な親がどこにいる!?」   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140607-00000003-rcdc-cn

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回答No.4

屈原の言葉は、官僚(アマテラス人)のものですよ。 彼の説く官僚倫理や官僚心得。 屈原は、王族出身の官僚。 そして、屈原は、決して、二階から一階へ降りてこようとはしません。 自身と自身の考えが無謬であると信じ、疑っていない。 だから、 スサノヲ村の村民である漁師さんとは、話がかみ合わない。 スサノヲ村の論理は、彼には通じない。 彼の心に届かない、響かない。 端からバカにしているんですよ、スサノヲ村の漁師さんと、その話を。 オシコモリがアマテラス語を駆使するとは考えにくいので、 時流に乗り、イケイケで押しに押しまくったつもりであったけれど、 実は時流を読み違えており、最後は四面楚歌の状況になった項羽の方が、 オシコモリに近いのかもしれませんね。 項羽は、漢の高祖・劉邦以上のカリスマ性を有し、人を強く惹きつける魅力は有していたのですけれど、 この人は人情、感情の機微をまったく理解できない人であった。 しかも子供のように強情でワガママ。物惜しみはするし、虚栄心は人一倍強い。 ですから、有能な部下は次々と彼のもとを去っていく。 彼にしたがっていた諸侯たちも次々に反旗を翻します。 そして、ある時、項羽は、自身が四面楚歌の状態になっていたことに気づく。 しかし、 項羽は、自身に過ちがあったとは考えない。 自身が悪かったとは、まったく考えない。 そういう発想ができない。 そして、 悪いのは、すべて他人(ひと)のせいにする。 「天が悪いんだ、時が悪いんだ。オレの力は山を抜き、気は世をおおうんだ。オレは悪くないんだ」 と叫ぶ。 (これは、強がりや負け惜しみではなく、彼の本心だと思います) そして最後は、 「ともに戦場を駆け巡ってきた、愛馬である騅が悪いんだ」 と、 騅にまで責任転嫁をする。 オシコモリの人が、 項羽のような一代の英雄とは考えられませんが、 そのメンタリティーは似ているんじゃないでしょうか。 「子供なんですよ」というと、子供さんに失礼なのかもしれないので、 未だ人間以前の状態なのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ちょっとした反応としてだけですが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  時流に乗り、イケイケで押しに押しまくったつもりであったけれど、  実は時流を読み違えており、最後は四面楚歌の状況になった項羽の方が、  オシコモリに近いのかもしれませんね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうかもと思って 次の瞬間に待ったをかけたのは やはり戦争という事態ですね。戦争をそれほど特別の事態と見なしていない場合の《押し》とは 何か? です。  戦争を――受けて立ったにしろ――おしすすめるのは 押しではあっても ふつうの行動であるように思えます。  そして 《一たん時流には乗ったが その流れを読み違えていた》というのは どうですかねぇ 《籠もり》になりますか?  ピッタリと言うまでには行かないかも知れませんねぇ。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、  項羽は、自身に過ちがあったとは考えない。  自身が悪かったとは、まったく考えない。  そういう発想ができない。  そして、  悪いのは、すべて他人(ひと)のせいにする。  「天が悪いんだ、時が悪いんだ。オレの力は山を抜き、気は世をおおうんだ。オレは悪くないんだ」  と叫ぶ。  (これは、強がりや負け惜しみではなく、彼の本心だと思います)  そして最後は、  「ともに戦場を駆け巡ってきた、愛馬である騅が悪いんだ」  と、  騅にまで責任転嫁をする。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《オレは悪くないんだ》が《本心だと》いうところに 共感しますが・したがってつまり オレ流の統治の仕方をつらぬいたのだと見るわけで  ◇ 人情、感情の機微をまったく理解できない人  ☆ であってもよいと本人は思っていたのではないかと見るのですが それにしても 最期は むしろいさぎよかったのではないですか? いくさびとであったというその性格は あまりいただけませんが。共同自治にあって 庶民にとって。  愛馬が力尽きたのを惜しんでいますが その負け戦の情況を受け容れているようにも思えますよ。  ◇ オシコモリの人が、・・・「子供なんですよ」というと、子供さんに失礼なのかもしれない  ☆ まさにそうだと思います。というのも 子どもは 周りの人の言うことをよく聞くと思います。だいたいふつうは 聞く耳を持つと思われます。つまり 受信をします。――この一点は 明らかに違うと考えます。  ◇ オシコモリの人〔は〕・・・未だ人間以前の状態なのではないでしょうか。  ☆ ここなんですよね。分からないところは。  つまり 送信はしますし その内容は 大人のものでふつうの社会人として特にマが違っているわけではない。ところが 受信はしない。送信内容と同じもののみ 受け容れる。――これが 分からない。  人間以前の状態にある人間は その心性が 論理や倫理の問題として混沌としている。あるいは 他者と未分化である。もっと詳しく言えば 論理も倫理もそれとして ふつうに一応分かっている。しかも その自分の頭の中では(または 心の中では) きちんと整理した論理が ごちゃごちゃになる。混沌とする。あれとこれとが 未分化となる。原始心性が あらわれる。  オシコモリの場合は 送信内容にかんするかぎり 《論理的》です。受信に際しては 混沌としている。というか または 送信内容に賛成する内容のものだけは 受け容れる。受信する。あとは 拒絶する。  そして おそらくなのですが この《自分に都合のわるい情報は 外から入ろうとしても こばむ》というとき たぶん本人は この拒絶という意識を持っていないかも知れない。こばむべくしてこばむだけだと思っているかもしれない。そこは 混沌としている。  外から 何で拒むのだ? と訊いても 答えない。自分に都合のよいと判別して受信した情報については すすんでさらにその情報を 自分からも送信する。そういう一方的な・一面的な内容の情報をのみ送信しつづける。  いやぁ よく分かりません。まだよく分かりません。

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回答No.3

「纓」は、冠の飾りじゃなくて、冠の紐ですね。 すいません、勘違いしておりました。

bragelonne
質問者

お礼

 《えい》と読むんですね。  そして 日本は 貴族がこの冠をいろいろにつくって まねをしています。

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回答No.2

楚辞(魚父の辞) 屈原既放、游於江潭、行吟沢畔。顔色憔悴、形容枯槁。漁父見而問之曰、「子非三閭大夫与。何故至於斯。」屈原曰、「挙世皆濁、我独清。衆人皆酔、我独醒。是以見放。」 漁父曰、「聖人不凝滞於物、而能与世推移。世人皆濁、何不淈其泥、而揚其波。衆人皆酔、何不餔其糟、而歠其釃。何故深思高挙、自令放為。」 屈原曰、「吾聞之、『新沐者必弾冠、新浴者必振衣。』安能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴湘流、葬於江魚之腹中、安能以皓皓之白、而蒙世俗之塵埃乎。」 漁父莞爾而笑、鼓枻而去。乃歌曰、   滄浪之水清兮   可以濯吾纓   滄浪之水濁兮   可以濯吾足 遂去、不復与言。 屈原、既に、放たれて → 屈原、洟(はな)垂れ → ガキ  世、挙げて皆(みな)濁れり  我ひとり清(す)めり  衆人みな酔ひ  我ひとり醒めたり  (これを以って放たれり・(洟垂れり?)) 漁師さんは、屈原に対して、言いますね~ 「みんなが酔っ払っているなら、なんで酒を絞った後に残る、その糟を食べないのですか、薄い酒を飲まないのですか?」 (あんたはKYなんですよ!!) 「聖人は物事にこだわらず、世とともに推移するものなんですよ」 と。 (あんた、全然、世の中のことを分かっていないじぁないですか。聖人(成人?)じゃ~、ありませんよ) 屈原は、この漁師さんに対して、言い返します。 「そんなことをしたら、ひとり清(す)んでいるオレさまが、世俗のアカやチリで汚れちまうだろうが。 たとえ、魚のエサになろうが、そんなことは絶対に嫌だ!!」 漁師さんはにっこりと微笑んで   滄浪之水清兮  川の水が清(す)んでいたなら   可以濯吾纓   大切な冠の飾りを洗おう   滄浪之水濁兮  川の水が濁っていたなら   可以濯吾足   足を洗おう!! と歌いながら、船をこぎ、去っていきます。 屈原は、この後、入水自殺します。 屈原と漁師さんの間では、会話が成立しているように見えますが、 屈原は漁師さんのありがた~いお話を聞く耳を持っていません。 「我ひとり清めり」の人ですからね~。 似ているんじゃないですか、 《押し籠もり》と、この屈原。 書いているうちに思い出したのですけれど、  垓下(がいか)の歌   力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う   時、利あらずして 騅(すい・名馬の名)逝(ゆ)かず   騅の逝かざる 奈何(いかに)すべき   虞や虞や 若(なんじ)を奈何(いかに)せん という歌もありましたな~♪ この人もKYだったな。 四面楚歌の人であった。 逃げることを勧める人に対して、「天がオレを滅ぼそうとしているんだ」と言ったっけ・・・。 すると、世間が天ということになるのであろ~か? いやいや、項羽は、そんなことを髪の毛一筋ほども思いはしなかったはずだ。 でなければ、四面楚歌の状態に陥るはずはなかったのだから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 項羽  ☆ は どうなんですかねぇ。  ◇ この人も KY だったな。 / 四面楚歌の人であった。  ☆ 戦いは 時の運ではないのですかねぇ。  ▽ (垓下の戦い)~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84  ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、わしが弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう」と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。  項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。    項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現安徽省和県の烏江鎮)に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。  烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と告げた。 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再びわしを王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか。」と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。  項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。  項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いを起こしたほどであった。結局遺体は5つに分かれ、呂馬童を含む5名それぞれに5等分された領地が渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  反論というほどのことではありませんが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  「我ひとり清めり」の人ですからね~。  似ているんじゃないですか、  《押し籠もり》と、この屈原。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ちょっと・・・分からないヤツですね 屈原は。  帰去来の辞の陶淵明なら まだ分かる。    ただし《押し籠もり》は 送信という側面では 非常に活発なのです。尻込みしません。つまり 《押し》なのですから。その点で 別なようにも感じます。

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     《日本教=クウキ教》の批判です。  《押し籠もり》。  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからが周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

  • 《押し籠もり》よ めざめよ!

     《押し籠もり》についての――《押し籠もりよ めざめよ!》という――批判を述べます。  1. 《押し籠もり》とは:  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  2. 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  3. どういうことか?    4. ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  5. これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。  6. これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差して行動している状態だと思われます。  7. 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差してコミュニケーションを推し進めている。知ってか知らずか そうなっている。  8. そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。  9. 人権を侵害するな! 弱者・少数者を守れ! と主張するのは 情況全体にみづからの生活をどっぷり浸(つ)かった状態にして 押し籠もりをやっている。甘えているを超えている。  10. けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りからの声を受けつけない。受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  11. 半ば鎖国状態――どしどし出すが 入るは要らない――のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に――それに反対しながらじつは陰では――身をおいているかとさえ思われるほど《押して》おり同時に《籠もっている》。  12. 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  13. ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  14. 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  15. 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  16. KY の場合も同じようである。  17. 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  18. 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  19. これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  20. しかもこのアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちのアマテラス方言として作り替え 政治が運営され社会が回っているといううたがいがある。  21. つまりこれに対する反対勢力としてのメディア等々が 押し籠もり作戦に出ているその全体の情況があり それについて そんなクウキは読めないという声にならざる声を発信している。  22. KY は 現状の人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取らなくてもよいとすでに直観として思っている。   23. つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  24. したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は――体制側にしろ反対勢力の側にせよ―― 一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて 押し 押し 押しでその歩をすすめつつ ヒキコモリや KY をむしろ生んでいる。  25. 果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    25. オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。今年に入って セクハラ反対とLGBT擁護の声が オシコモリの目立った現われではないでしょうか。

  • 《押し籠もり》

     引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからが周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)を ただしきわめて訛って 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいてじつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?

  • 外から来るアヤマチ:ミラー・ニューロン現象

     ここでミラー・ニューロン現象とは:     相手( A )の・特に疚しいと感じている思いや行動を    こちら( B )があたかも自分という鏡に映して     多少ともその内容を表現してしまうこと  を言うとします。  ヤマシサだけに限らないのですが いまはそれをあつかいます。  そのヤマシサは 一般に・漠然とになりますが 相手もこちらもそう思っているという意味とします。つまり 定まらないのですが そうだと思っていること自体は 事実としてあるというかたちです。    このとき こちら( B )が侵すあやまちについては あたかも相手( A )の代わりにおこなっているということであり ならば多少とも水割りのようなかたちで あやまちの度合いがうすまっているとは思われます。  けれどもこれは つまり A と B との間において あやまちについての共同自治なのであると考えることが出来るかも分かりません。  アヤマチであると同時に 共同自治の一環である。そういう見方です。  さて 一般にコミュニケーションにおいて 相手がけんか腰でやって来たら こちらもけんか腰になって わたしは 応対していました。いまも色濃くそれは のこっています。いつになったら こういったミラー・ニューロン現象は 静まっていくのでしょうか?  このミラー・ニューロン現象を 自分の中で 避ける・しないと決めた場合は あり得ます。  それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。    この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。  このアマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )なる権威のもとに生活するなら ミラーニューロン現象は 避けることが出来るかも分かりません。  けれども そのときには このミラーニューロン現象を起こした相手( A )をどう扱うかと言えば じつは しばしば ウラで処理をする。ということだと思われます。自分( B )の手は汚さない〔恰好をよそおう〕。  つまりは アマテラス普遍語は だからこそ 普遍語アマテラス方言であるとも言いましたし 見てもいます。  このときひとつのみちびかれる結論としては 問題が 成るべくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき・これから離れないで できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。ここにあることになるかと考えます。  ミラーニューロン現象を 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語》なる構造的なコトバをつうじて 生け捕りにするような方向へとすすむこと。これが 求められるものと考えます。  具体的な事例が出しにくかったのですが 取り敢えずここまでをつづって 当否・成否その他批評・批判を問います。自由なご見解をお寄せください。

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     1. まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。   《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る自然本性そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ 人間のつねとして あやまち得る思考を容れた広い度量の言葉   《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる自然本性を 心ないし精神において捉え相手に向けて    心に或る種の構えを成して自己表現しようとする言葉     (自己表出を ととのえ練り上げ磨き上げさらには飾り上げる)   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野    を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ その思考は あたかもあやまち得ないと見なされた《格》を持つ   ・ かつてはオシヘとして神格化され 神聖にして侵すべからざるも    のと見なされた  2. アマテラス人格語は 普遍科学語を開発している。  すなわち思考の緑野として 言わずと知れたアマテラス科学語の世界を打ち建てた。    誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。この共同主観が 普遍なる神のごとくであると 時には 見なされた。  3. アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。いわゆる理念の信仰も始まる。    4. かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  5. このアマテラス語の隆盛が つまづきの石である。  6. なぜなら 自然本性にして普遍たるスサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  7. スサノヲ人間語は 殊にその感性の原野たる領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。      こころをとうとぶ。      《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。      《わが自由意志がその自由度において横道に逸れ そこに      おける思考が人間をにくみこれを傷つけようと・あるいは殺      そうと思ったりすることはあるが なぜか そうはしないもの      だ》。  8. ところが アマテラス人格語は うったえます。  スサノヲ自然感性語の宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ / むさぼるなかれ》  というふうに規範化しようと。おそらく このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。あたまで逆立ちして町を歩こうと言い出した。  9. あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      時に身に勝手に起こるやましさ(恥づかしさ)反応を受け留め      恥ぢを知るわが心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般にガミガミ規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。    ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     恥づかしさは 隠しなさい。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  10. すでにアマテラス普遍志向にもとづく《アマアガリ》主義は 行き詰まったのではないだろうか?     思考の緑野と言えども 理性のみによってその普遍語の世界に閉じこもらざるを得ないような規範性を帯びているかぎり このあたまデッカチは つまづきの基となる。  《オシヘや規範あるいは理念》をあたまに抱きながらしか おのれの思考や互いの対話を成し得なくなっている。感性の原野が なおざりにされてしまっている。  11. それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。    ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取     られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書や部下の所為に     しなさい。     ・・・》  12. アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  ただのアマアガリのための・それを飾るための・そしてそれを保守するためのアマテラス方言にしか過ぎないほどである。   何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がってしまったではないか?  どちらかと言うとスサノヲ語の側である野党党首が アマテラス語の舌を二枚三枚すでにあつらえて用意していた。それがとおった。  ☆ これを問います。  いまは 転機か? もしそうなら あなたはどうすればよいと考えるか?

  • アマテラス普遍人格語のつまづき

     (1) まづは S 語 と A 語 (?)  わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。  《スサノヲ( S )人間語》:   ・ 身と心から成る存在そのものの自己表出〔としての言葉〕   ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉   ・ あやまち得る内容  《アマテラス( A )人格語》:   ・ 身と心なる存在を 心ないし精神において捉え自己表現しようとする言葉   ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野を開発する。その成果をもってしゃべる言葉   ・ あたかもあやまち得ないと見なされる内容   ・ かつてはオシエとして神格化され 神聖にして侵すべからざるものと見なされた  (2) アマテラス人格語は 普遍科学語をも開発した。   すなわち 思考の緑野に言わずと知れた科学語の世界を打ち建てた。     誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。  (3) アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。  すなわち 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。    (4) かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。  のではないだろうか。  (5) このアマテラス語の隆盛が つまづきのもとである。  (6) なぜなら スサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。  (7) スサノヲ人間語は 殊にその原野たる感性の領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。    ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。     《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。     《自由意志が人間を傷つけようと思ったりあるいは殺そうと     思ったりすることはあるが そうはしないものだ》。  (8) ところが アマテラス人格語は うったえます。   スサノヲ感性語宣言を   ・《なんぢ ころすなかれ》   というふうに規範化します。このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。  (9) あるいは 同じように比べてみようと思えば:  スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。   ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして      身のやましさ(恥づかしさ)反応と共なる心にすなおにしたがい      よくおのれの自由意志を用いよう》  と。これを アマテラス語理性は―― 一般に規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。   ・ 《すなおになりなさい。     わがままはいけません。     ウソをつくのは わるいことです。・・・》  (10) すでにアマテラス主義は 行き詰まったのではないだろうか?      人間が ただただ――思考の緑野と言えども――理性の領域で・その普遍語の世界の中に閉じこもってのように 《オシエや規範》とそれをめぐる思考との対話をしか成し得なくなっている。のではないか? 感性の原野が なおざりにされてしまっている。  (11) それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。   ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。     どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと    受け取られてはいけません。     あたまを使いなさい。     ウソは ウソとバレては いけません。     上手につくのですよ。     また バレたなら うまく振る舞って あなたの部下の所為にしなさい。     ・・・》  (12) アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。  のではないか? しかも 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がっているのではないか?  これを問います。もしそうなら どうすればよいでしょう?

  • KY は 草の根民主制への第一歩である

     民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。  日本人にあるまじきKYだ と言ってそれを読めという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。  いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の中に持ち込み人びとに飲み込ませようとするときの思潮やまた圧力と感じられもする雰囲気のことである。  この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)》が人びとの心の中に見られる場合がある。  あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》という無謬性の神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。  これらの風潮がはびこっている。  この風潮を読まないというKY は 未来社会への旗手である。  たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。  ご見解とご批判をどうぞ。  なお最後にですが あらためて定義です:   ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに    言論をとおしてというかたちを超えて    おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って   ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの   意向をすでに汲み取って――    多くの参加者の意向がそれになびいているとき    そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • KY は 草の根民主制への第一歩ではないか。

     KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか  民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。  日本人にあるまじきKYだ と言ってそれを読めという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。  いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の中に持ち込み人びとに飲み込ませようとするときの思潮やまた圧力と感じられもする雰囲気のことである。  この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)》が人びとの心の中に見られる場合がある。  あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》という無謬性の神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。  これらの風潮がはびこっている。  この風潮を読まないというKY は 未来社会への旗手である。  たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。  ご見解とご批判をたまわりたく。  なお最後にですが あらためて定義です:   ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに    言論をとおしてというかたちを超えて    おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って   ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの   意向をすでに汲み取って――    多くの参加者の意向がそれになびいているとき    そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。