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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:西洋での自然観について)

自然観を問う:西洋的発想と人間の関係性

michael-mの回答

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.3

貴方のおっしゃるとおりです。 キリスト教的考え方(ユダヤもイスラムも基本は一緒)では万物は神の創造物でありヒトはそれを支配する立場です。唯一動物の血(命)は神に戻します。これは生贄の血であって輸血とは関係ありませんよ。念のため。 一方神道では万物に神が宿り、神というのはこの場合創造主ではなく命そのものと考えてもいいでしょう。万物に宿る神は支配者ではなく共存者でもあります。どちらが優位かといえば神が優位なのです。これは神道だけではなく、アイヌや沖縄の信仰、道教やバラモン教などにも見られることです。 西欧では人間は支配者であって自然とは一線を画す。だから力で自然を押さえ込もうとしますし、動物保護や環境保護の考えも基本的には人間優位から発しています。 多分自然保護や動物保護の運動からこのような考えを持ったのでしょうが、あまりに表面的なものだけをとらえているものですね。ひょっとしたらそのような偏った考えを持つ人の論文などの抜粋かもしれません。

jonathan4403
質問者

お礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。参考になりました。 ご回答ありがとうございます。

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