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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《神》は 補助線である。)

《神》は補助線である

gomagoma427の回答

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回答No.3

質問者様の論旨は無神論的な立場になるかと思います。 神がいないという前提で、なぜ人々が神という考えを生み出したのかということの結論として、人間には知ることのできない非知の部分を神という存在で置き換えて、人間の思考で扱えるようにしたという主張ですね。 補助線という言葉自体がどういう意味合いなのか最初理解しあぐねましたが、どうして昔の人が神様というものを考え出したのだろうか、ということを考えれば、質問者様のおっしゃるように、昔の人々は知ることのできない領域を指す言葉・概念として神というひとつの基準を立て、それについて存在する・しないを語り合ってきたのかもしれません。無神論者の人が有神論者がどのようにしてできあがったのかを考える場合、自然とこのような考えに至るのかもしれません。 これは私にも腑に落ちます。 ですが、聖徳太子が本当に10人の話を同時に聞けたのかどうか私に知りようがないように、実際に聖書にあるように神が人の前に現れたことがあったのかなかったのか、本当にイエスが一度死んで甦ったのかどうか、仏陀が生まれてすぐに立ちあがって言葉を発したのかどうか、私には知りようがありません。 質問者様の考えでは、有神論、例えばキリスト教徒は 非知 → 神という言葉におきかえ → その中のひとつにキリスト教の神の名前がついた という流れになったということですが、キリスト教の観点から言えば 実際に神がいて人々の前に現れて道を示した → イエスが誕生し、一度死んで甦った → 人々はその話を後世まで伝えている という構図です。 どちらが正しいのかは、それこそ非知です。歴史が実際にはどうだったのかは、もはや非知といわざるを得ない部分が多数です。 考え方はたくさんありますし、そのどれが真実かは言えないと思います。 質問者様の考え方も、考え方のひとつとしては有りだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    神について 次のように《哲学として》 説明しています。  ○ (神は 《非知》である) ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知り得た)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)    ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________      ↓         ↓   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《非思考の庭》なる信仰には 神を有ると想定する有神論――しかもその中に ヤハヱーやアッラーフやブラフマンやらアミターバ・ブッダやらが 名の違いだけで中身は同じひとつの神としてある――と そして神は無いと想定する無神論とが あくまで信仰の形態として 互いに同等にして ある。と言っています。  それは 神なる言葉や それを表わす言葉やも ただの補助線であるからだと言っています。  ★ なぜ人々が神という考えを生み出したのか  ☆ これは 《思考の緑野》における理性のしわざであり 想像の産物としての神です。  つまり個人の信仰ではなく 集団心理としての《宗教》でありそのオシエです。おもちゃの神のことです。  つまりこれは 自業自得としておこなう《観念なる神の思い込み》です。何の意味もありません。  ★ 人間には知ることのできない非知  ☆ 《人間には知ることができないと知り得たこと》は 《不可知》です。  《非知》は 知り得ないとも知り得ないのです。知り得るとも知り得ないのです。  つまりは 知り得るかも知れません。つまり 或る人の主観の内にあっては おれは神を見た 神の声を聞いたというような事件が起きないとも限らない。それは それとして その人の心の内なる真実です。ただし ほかの人間の主観の内にそのままのことが入って行くというのは 無理でしょう。《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》を――そのように規定すること自体は 共有しえますが―― 互いに確かにおまえさんの信じている神とわたしの内なる神とは同じであるといったふうに共有することは どこまで行っても確定し得ません。  確定しえたなら それは ただの概念・観念・想像としての――あるいは 偶像としての――神のことでしかありません。    ★ どうして昔の人が神様というものを考え出したのだろうか  ☆ ですから 昔の人たちは 《かみ》という言葉を――どの民族にあってもその言語として――持ち得ましたが それは たとえば自然への畏れとしていだいた心のナゾが先にあって これに名前をつけただけなのかも知れません。  ただし いま現代人が 神と言っているのは――近代人が理性をことさらとうとび拝むようになってからというもの―― 観念としての神です。人間のあたまの中におさまったおもちゃとしての神です。  ちなみに この観念の神が死んだのだと どこやらのアンちゃんは言ったとか。  《非知》なる神が 死ぬとか生き返るとか そんな気遣いはあり得ません。  ★ 昔の人々は知ることのできない領域を指す言葉・概念として神というひとつの基準を立て  ☆ 《非知》は 《なぞ》ですが 知り得るかも知れないのです。だから 神はあまねく存在するとも言われるようになっています。ニュートリノのごとく やって来て 通り抜けて行っているのか何なのか。いろんなかたちで――初めの《非知》の想定のあとでは――自由に 神のことを 想像することは可能です。  だから 神の霊が アートマンが ブッダター(仏性)が ひとには自然本性としてやどるということも言われるようになりました。  ★ 実際に聖書にあるように神が人の前に現れたことがあったのかなかったのか、  ☆ 聖書は これも補助線ですよ。物語です。そういう仮りの言葉で説明したに過ぎません。また 神が見えたというのは その一人のひとの主観内面だけの話です。決して 外に出かけません。神は 外には出かけません。つまり 宗教は 出かけた結果です。人間が出かけるようにさせたのです。おもちゃとして作ったのです。  ★ 本当にイエスが一度死んで甦ったのかどうか、  ☆ 復活は 霊の話です。死んで棺桶に入れられ土の中に埋められたあとにも 生き返って来たという事例は かなりあるようですが 復活は この息を吹き返すこととは 問題が違います。  もともと《非知・非経験の場》として 神は 永遠です。それにちなんだ よみがえりです。  ★ 仏陀が生まれてすぐに立ちあがって言葉を発したのかどうか、私には知りようがありません。  ☆ これほど どうでもよい話はないとわたしは考えます。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリスト教の観点から言えば   実際に神がいて人々の前に現れて道を示した   → イエスが誕生し、一度死んで甦った    → 人々はその話を後世まで伝えている  という構図です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから これが 人間の想像の産物です。おもちゃの神です。心の外に出かけてしまった集団の心理としてだけの宗教です。オシエです。  せいぜいおのれの主観の内にしまっておいてくれと言うべきしろものです。  《キリスト教》という宗教・オシエが ダメです。ふざけんなと言ってやらねばならない・とんでもないマチガイであり これが 二千年もまだはびこっています。ローマ教会よ 自己解体せよと言っています。  哲学にできることは マチガイはマチガイであると その理由をつけて 明らかにして行くことだと考えます。  おつきあいをありがとうございます。  こと宗教にかんしては ただすべきマチガイが山ほどあるとお思いになるのではありませんか?    ちなみにこのような哲学内容を わたしは 聖書をとおしてキリスト・イエスを心に受け容れたところ――わが心なる非思考の庭――より得たものです。

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