• 締切済み

これは「哲学」ではなんと云われる主義になるのですか

「選民思想」と似てそうで似てない考えをもってるのですが、 これは「哲学」という学問のなかではなんと云われる主義(思想)になるのか知りたく 質問させていただきます よろしくお願い致します。 特徴は、 (1)周囲の人々(生命体)を「人間(=同種族)」とは見てない、見れてない。  ただし、見下しているわけではない。   (一般人、周囲からしてみれば) 物質としての”ヒト”はそこにいるが、 こちらからは そこに”ヒト”がいるとは思えない  (空気のような、無視するレベルの、言ってみれば「どうでもいい」、気にしないようなかんじ) 言い方はアレですが、こういう場面もあります。 ・そもそも知的レベルが低い→話が通じない→相手にする必要がない ・相手が言う前に、言いたいことがすべてわかってしまう→話を聞く時間が無駄→相手する意味がわからない ・ RPGでいえば、NPCや(常に同じ発言をする)街のキャラ、みたいな そういう目で、他人を見てます。 白人が黒人を奴隷扱いしていた時代に、 白人女性が「黒人の前でハダカになってもなんとも思わない」といわれたりしてますが、 まさにそういうかんじです。 「人間として見ていない」という具合に。 しかし、一見「見下してる」かんじなのかと思い、色々しらべてみたら 「選民思想」「エリート思想」なる単語にたどりついたのですが、 これらは、「他人と比較してる」という前提があります。 私の場合は「他人と比較」することはなく、それ以前に 「比較の対象となるような、同次元にはいない」と思っているので ここで質問することすらも、 「他の惑星の生命体は、どのように考えているのか」 といった感覚です。 別次元、 別惑星、にいるような 「相手とじぶんは まったく違う種族」という考えは ”哲学”という学問において、なんという言葉で表現されるのですか?  または、 今まで歴史上ではそういった体系化はまだなされていないのでしょうか ※自分と他人を比較するわけでも、見下すわけでもないので 「選民思想」ではないと思っての質問です よろしくお願いします。

みんなの回答

  • barutokai
  • ベストアンサー率35% (14/39)
回答No.12

申し訳ございません NO11の回答に誤った表現がありました。文章最初の方にあらゆることに興味関心を示す事ができるからなのじゃないか?と書きましたが失礼な言い方を誤ってしてしまい申し訳ございません。 私はよくいい間違いをしてしまうもので・・・・・・ あらゆることに興味関心をもたれる方だからなのではないか?と文を訂正します。

  • barutokai
  • ベストアンサー率35% (14/39)
回答No.11

No7です 私はよく心理学や哲学の本を読み今日も読んでいたのですがふと読んでる途中、「私にも質問者様の思ったような事を感じたときがある」とおもいました。 質問者様のいう他人が物質だと思うのはそれはあらゆることに興味関心を示す事ができるからなのじゃないか?と思いました。 宇宙には米粒よりもはるかに小さい球体がありそこにはごく小さいカビが生えている。みたいな名言があります。カビとは人間の事であり、米粒よりも小さい球とは地球です。 こういったセリフを聞いても普通の人は「確かに人間目線で見ないで冷静に考えたら確かに人間は限りなく小さい生き物だ。まぁ自分には関係ない」と思いこの言葉を忘れ去るでしょうが、何事にも関心を持つ事ができる人には今の名言などにも脳に焼き付くように記憶されてそれが後の自分の世界観に影響します。そのため質問者様は他人が物質のようにみえたりするのかもしれないです。 ここからは回答と関連しただけで論点から外れる内容になるので読んでもらってもどちらでも構いません。 人には知的好奇心が旺盛な人少ない人様々ですが、何故そのような違いがあるかというと私はこう考えています。 「死の恐怖や物事を失う事や人が死ぬ事を拒絶する度合いの違いから各人の知的好奇心の強さの違いも生まれる」 人はとても大切すぎるものが失われると心の傷として記憶されます。それが蓄積されると物を所有する事に恐怖心で消極的になる人もいます。私は幸せすぎたり凄い欲しいものが手に入ると恐怖心を感じます。 私が幼いころ家族団らんで幸せな誕生パーティを送っていた時、とても幸せでした。ですが突然恐怖に駆られました。 突然家族の誰かがが急に食べ物で喉をつまらせて悲しみの誕生パーティなるんじゃないか?とか嫌な妄想をしたりするのです。気持ちが悪くなるのです。 自分の産んだ赤ちゃんが可愛い寝顔で寝ているのを見てキスをして至福の時間を感じていた母親がいました。ですが突然赤ちゃんが血を吐いて救急車騒ぎになりもう自分の赤ちゃんとはこれが最後になるのではないか?とかいった妄想をされる母親もいます。恐らく幼いころ家族が死んだトラウマを直視できなかった方なのだと思います。 大切なものが失われたらどうしようという恐怖を感じる事からこういった妄想が繰り広げられるのです。人それぞれ差がとても激しいですが心の根底にはとても大切なものを所有する事を拒絶する弱さがあります。そして心の根底から欲しいものに素直になれず自分を押し殺すため幸せになりたいという欠乏感も同時に生まれます。 自分を幸せにしてくれるけど失う可能性もあるというものが世の中にたくさんありますが、でもなにかを学ぶ事で得る幸せには失うという恐怖がありません。さらに学ぶ事は容易に出来ます 人には弱さや欲求不満で生まれる欠乏感を穴埋めしてくれる事を好きになる性質があります。 学ぶ事は失う恐怖がない事のだと頭で理解しなくても瞬時に何かを学んだ時にこれは自分の性格にあうと思い学ぶ楽しさが脳にインプットされます。私にはこういった動作が幼いころにされました。そして今でも学ぶ事がとても幸せなのです。アドラー哲学とか私は好きです。アドラー哲学もこれに近い考え方がされています。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.10

気になるので、書いておきます。 もしどうしてもでしたら、言ってください。 考えてみます。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.9

「次元が違う」は私もそう決め込むことあります。 もっというなら生得的な「人種が違う」 だからといって見下しているんじゃないんです。 私が生きていることはただの偶然で、 神のような絶対者によって生が保証されている訳もなくて、 知識として知れても人生の経験値にして味わう必要がなかったことを 別人は見事体現されておられる。尊敬します。 私はジャングルで暮らしたこともなく一等地の豪邸にも住んでないし、 アスリートも女優も船長も務まらなくて、経験値も知能も年ばっかり食ってて未熟ですが、 心が痛むことはなかった。義務感が伴わなかったから。 私に出来ることが出来れば、適材適所であれば十分なんだって。 賢者であればその辺を推し量ることも容易ではないですか? 散々苦労しておいて一向に日の目を見ない鈍臭い人の方が遥かに多いことも。 人種の分類は簡単です。2種類の人間が居るだけ。 生得的なものだけに本能的な良し悪しの趣味判断が違うのです。 両者間での話しが平行線で一向にかみ合わないのはそのせいで そこに更なる洗脳が「慢心慣性の法則」によって強めていく、これは全人類に共通。 私はお年よりと話すのが不得手。 誰にでも共有しうる毒にも薬にもならない話しだけで 活発な意見が交わされてるかのように盛り上がってるの。 こちらがもっと聞き上手であったら人生の先輩の年季の入った賢さに感謝するはずだけど。 自分の殻を敗れない至らなさ、忍耐力のなさをひしひし感じる。 けど義務でする必要は感じませんから好奇心からも良心からの葛藤もおこりません。 疑問さえ浮かばないとすると「非哲学主義」だったりして!?

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.8

お礼、ありがとうございました。 私の回答が、少しでもあなたのお役に立てたらのなら良かったです(^ ^) ささやかながらプレゼントです。 http://www.ieji.org/archive/das-gestalt.html この方の訳が好きで、iPodに入れてます。 あなたほど感性が高いのであれば、文章だけでも その真意を、奥深く理解されることと思います。 縁がありましたら、何処かでお逢いしましょう(^ ^)

  • barutokai
  • ベストアンサー率35% (14/39)
回答No.7

哲学ではなんという名称といわれるか分かりませんし的外れな回答になるかもしれませんが許してください。 質問者様のいうその思想は私は比較だけで生まれるとは私は思っていません。   健常に親に愛されて育った人には人と関わりたいという底なしの欲があり、喜びや新鮮な体験を人と共有する事で人を愛する気持ちが応じると思います。 だからこそ本当の思いやりと集団のに皆と対等な扱いをうけるべき存在である自分がいるという、集団の中に皆と同じ自分がいるという道徳的な世界観が応じると思います。 親から愛されず、人付き合いをしたいという欲が育たず、物欲ばっかりが育った人には他人をただの物質と考えたりする傾向があると思います。他人に嫌われたくないという気持ちが強すぎる事で自意識ばっかり芽生える人には人を好きになる事が難しくなってくると思います。

artemy2014
質問者

補足

私が、今後生きて行く上での”ヒント”をたくさんありがとうございます。 >親から愛されず、人付き合いをしたいという欲が育たず、 >物欲ばっかりが育った人には他人をただの物質と考えたりする傾向があると思います。 「これが いき過ぎると、逆の作用が働く」ということが 今わかりました。 私自身は ・親から愛され、 ・道徳的な世界観も持っており、 ・対等に「人付き合いをしたい」という欲がありました。 ただ、これらが ”とある範疇を超えてしまった”がために それが原因で 「ヒトを物質としてみるようになってしまった」 というのが 真実です。 本来、私はニンゲンが大好きでした。 しかし、 大好きであるがゆえに、 あまりにも「他人に期待しすぎて」しまい、 結果、今のような思考に至ってしまった・・・、。 そんなかんじです。 >的外れな回答になるかもしれませんが 私自身、様々な考えをぶつけ合うことで、 己も相手も、そして世界も含めて 「次なる一歩につながる」 と考えているだけに このように回答してくださったこと、感謝です barutokaiさん、ありがとうございます

回答No.6

 No.3ですが、長い補足説明をありがとうございます。  それでもよくわからないのは、他人の言葉に「なるほど」と思うことが一切ないとか、他者を生命体として感知しないということは、すごく他者の中で生きることは難しい気がします。集団関係での悩みとかはないのでしょうか?  共感性についてどう思うかもありますが、自分をしっかり保ちつつ、「孤高の生き方」を選んでいらっしゃるということでしょうか。実際にどのような生活を送っているかがよくわからないのであてずっぽうで回答してしまっていますが、「選民思想」ならず、「高等遊民」というフレーズもあります。

artemy2014
質問者

補足

>高等遊民 初めて聞きました 【高等遊民】意味 ・世俗的な労苦を嫌い、定職につかないで自由気ままに暮らしている人。明治末期から昭和初期の語。 ・明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。 ・高等遊民はなんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めていたりした。 ・ 50%くらい当てはまる気がします。 【当てはまるところ】 ・経済的不自由がない ・学問の延長として己の興味ある分野を追い求めるところ ・大学等の高等教育機関で教育を受け卒業 【当てはまらないところ】 ・定職に就かない、労働に従事しない →仕事はしております。ニートではありません。  (しかし、CAD設計、電気回路設計主任、品質管理責任者、アーティスト、ライター、デザイナー、塾講師、ピアニスト・・・と、一般よりも職種を頻繁に変えてる」という意味では”定職に就かない”になるのかもしれません) ・なんら生産的活動をしない →ダラダラと日々を過ごしてる感はまったくありません。  (ただ、「芸術分野」において作曲・編曲等はしてますが、「日本社会にとって」はしてないのかもしれません) 高等遊民、というキーワードをくださってありがとうございます。 この機会に、”明治末期から昭和初期”の日本文化について 大いに学んでみようと思います。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.5

病院に行けば、診断名を付けてはくれますが そこからご自分を推し量るのが、あなたに妥当とはあまり思えません。 理論に己を当てはめるのは、論理的で理解しやすいでしょうが 己の影を追うこととなり、自分自身を見出せる訳ではありません。 診断名や主義などは、共通認識の上での分かりやすくするための 枠組みであり、枠組みにとらわれる己は決して己自身ではないからです。 補足など含め私が読んだ感じとしては、自己認識を得たいのではないかと察します。 もしそうだとすれば、自己認識を高める方がいいのではないでしょうか。 その場合、自分の内面に意識を向けなければなりません。 自分を感じ、自分の思いや気持ちを汲み取っていく。 理論構築でご自身を固めておられますから 誰かのサポートがないと、通常の人が感じているであろう感覚は 見出せるものではないように思います。 自分のそれが何かを気にする人は多いですが たとえそれが何かを分かっても、自己矛盾や次の疑問は持ち上がります。 自分が何かを分かれば、「それが」は自然と分かるものであり 「それ」だけを追うなら理論的に考える人で有れば有るほど、矛盾と歪みは目を引くものとなります。 今、生きて行くのに困っておられる訳では無いかもしれません。 本当に知りたいと深く思わなければ、見つけること会いたがわずとなりましょう。 覚悟と決意、時間と労力を惜しまなければ、サポートさえ見つけられれば あなた人ほどであれば、可能では無いかと思います。 良き人生があらんことを願っています。

artemy2014
質問者

お礼

遠回しの表現は無しで、率直に言います 私はkanto-iさんにお会いしてみたい 思考を言葉として”正確に”具象化でき、 さらに、その思考に”至高”を感じてやみません。  思考に至高を・・・((( ーーーーーーーー 実は、ここに書いてくださった回答を見た瞬間、kanto-iさんという御人が気になって仕方が無く ほかの質問や回答されている文章をすべて読みました、。 その中でも、とある質問に対する答えにも感化されました 以下、コピペで申し訳有りませんが 別の質問での回答を ここに書きたく思います。 >誰しも、自分の問題は自分でしか解決できません。 >自分が選んだものに、それぞれがなって行くだけです。 >大切なのは、自分が「いいな」と気がついたら >自分がどう生きるかに反映させることですよね。 >気がついた人から、良くなることが出来ます。 >それを見て、また別の良くなる事をやって行くでしょう。 言葉の正確さや、自分なりの言葉の定義をきちんと持っているところ、 それでいて、相手に強要せず、「相手を導こうとする」念が とてつもなく伝わってきます。 余談してすみません。 ーーーーーーー 本題の、「ここでの質問に対するkanto-iさんがしてくれた回答」についてですが、 ここには書ききれないほどの想いが沸き上がってきました。 書ききれない、といいつつ 1つだけ書くとしたら 「私の考えを理解してくれる人が存在してほしい」という希望、 「私の考えは”してはならないものではない、安心して大丈夫”」という共感、 ・・・ 私自身は、 これらを満たす事によって「自分」という生命体を保ちたかった、 ということがわかったのです。 理解してくれる人、 共感してくれる人、  ・・・フツウに過ごしてたら 出逢うことすら難儀な貴重な御人です 私なんかのために、 レベルの高い考察力、そして思慮深く、 さらに魅力的な言葉の使い方と文章の締め方、 感謝です 感謝です・・・ 生きててよかった、

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.4

先ずは全面的に謝罪をいたします。 暴言を御許し下さい。 >もちろん自分自身も「1つの物体」と客観視してしまってます。 そして、それが”当然”と思ってきました。 しかし、実際はこのような考え方自体が理解され得ません。 周囲は「トップレベル層ばかりではない」からです。 話す相手が、年長者ばかりで育ったのも影響してますか? 小学生の頃から非常に悩んできました。 「哲学」「心理学」「社会認知心理学」などの枠に捕われなくともよいので、 何か研究分野やキーワードを頂けないでしょうか それとも 賢人の回答は ここでは得られそうにないのでしょうか。 文面を見て理解致しました。 私の先走りです。

artemy2014
質問者

補足

「自閉症スペクトラム」というキーワードをくださったことに感謝しております。 また、私のつたない質問に対して、真剣に向き合ってくださったことにも感謝です。 0fool0様、ありがとうございます。

回答No.3

 「哲学」というよりは「心理学」で、「離人感」「離人症」が近いと思います。  広辞苑で調べると、  「他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われる状態 人格感喪失 有情感喪失」  とあります。  他者がエイリアンに見える ということも含まれると思います。

artemy2014
質問者

補足

>離人症 キーワードを与えてくださりありがとうございます。 症状や原因などを調べてみると 当てはまるところが 少しある気がしました。 【解離症の実例~離人症~】 http://www2.wind.ne.jp/Akagi-kohgen-HP/dissociation_example.htm 【離人症障害の原因】 http://health.goo.ne.jp/medical/search/10450700.html などを読んでみました。 ただ、 「障害」「病気」とも思ってません。 なぜなら、 ・己の世界と 他人の世界はそもそも違う次元に存在する ・己の主張や悩みは、己によってしか理解、解決できない こう”割り切ってしまっている”からです。 そして、 ”割り切っている”状態が 「当然」とも思ってます。 他者の考えを理解するのはとても簡単ですが、 「己を 己自身で分析すること」、これが最も難しいと思ってます。  (思ってます、というよりも 思ってしまっているために 「第三者目線で自己分析」というクセが身に付いてしまったのだとも  自分自身を自己分析しております) 人間は、何らかのアドバイスをもらい「なるほど」という瞬間があるかと思います。 しかし、私には一切ありません。 「なるほど」 ではなく、 「そんなことは既にわかっている。その、さらに次のフェーズの話がしたい」 そう思ってしまうことが日常に多々あります。 >他者がエイリアンに見える ということも含まれると思います。 エイリアン、という感覚になることは、3年に1人くらいには出くわします。 しかし、 日常においてはエイリアンというよりも 「生命体として感知しない」という感覚のほうが強いです。 「自分のいる次元と  他人のいる次元がまったく違う」、 この感覚を 今回いただいた「離人症」以外で、 さらに何かしらのキーワードやヒントが頂けたら幸いです。 P.S. キーワードをくださってありがとうございます。

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    哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、 読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、 もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? 例え上手く付き合ったとしても一度読んだものは忘れることは出来ないわけで、 『影響されなかった』と言い切ることはできないですよね。 哲学の本などは特に価値観や思考に直接関係するようなものばかりで、 もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、 作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? もちろん、内容すべてに同調することは殆どないと思いますが、 その本の一部でも吸収してしまったら、もう読んだ人は"天然もの"じゃないですよね。 色々な本を読んで、自分が最も共感できる者を択一する…。 一見、オリジナリティ・個性をを保持したままのような感じがしますが、 実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在でしかないのではないでしょうか。 彼が後に本を出したとして、その内容はしょせん過去の本からの引用…。 何百年後に評価されるような事はあるのでしょうか? 古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、 森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 科学の分野で古い理論や最新の理論を読んだとしても、 それは過去、或いは直近での「事実」を読んだに過ぎず、 今や未来での「真実」を追求するのに何か役に立つことはあっても、 それ自体が「真実」に影響を与えることはないと思います。 (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) ところが哲学…思想や思考に関するものには「真実」がないですよね。 あるとしても個人のセンスに依存しているわけで…。 そうすると過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 科学が研究して真理を求めるように、人は経験し自らの思想思考を育む。 なのに本を読んで、こりゃあいいやって傾倒したら、 それは真実が変わってしまったかも知れないってことですよね。 20世紀には沢山いい哲学者がいたようですが、 21世紀にも、後世で「すごい人だね」と言われるような人は現れるでしょうか? 哲学-学者は哲学者になりうるのか…。 オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 どうお考えになりますか?

  • 目が合った時、にこりとするのはアングロサクソン系?

    東欧では、他人同士が和気あいあいと喋り合うなんてことが丸でなく、目が合ってもそ知らぬ顔をしています。ロンドンでは見知らぬ人と何かの拍子で目が合った時、 微笑が返って来たように覚えています。沖縄では米軍人(白人)と目が合うと必ず微笑が返って来た記憶があります。 ドイツ人やフランス人はどうですか? アメリカ本土には東欧からの移民も多いですが、東欧からの移民の子孫は、目が合った時にこっと笑いますか?他の民族や黒人はどうですか? 日本人も、他人には相当冷たさを発散している民族ですが、東欧人(ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ人)よりはマシな気がしますね。共同体が残ってる田舎ではなく、都会での話です。 学問の質問ではないのですが、一番、回答を多く得られそうなのでこのカテを選びました。よろしくお願いします。