旗本奴は悪者として描かれますが実際はどうだったか?

このQ&Aのポイント
  • 旗本奴は悪者として描かれるが、実際はどうだったのか?戦国乱世の気風を引きずって江戸前期に登場した彼らは、歌舞伎者、とも呼ばれ、その代表は水野重郎(十郎)左衛門や白柄組などの徒党の御家人だった。処刑や割腹の歴史もあるが、悪行だけでなく良い事もしていただろうか?
  • 旗本奴とは戦国乱世の気風を引きずって江戸前期に現れた彼らのことを指す。彼らは歌舞伎者とも呼ばれ、水野重郎(十郎)左衛門や白柄組などの徒党の御家人が代表的だった。処刑や割腹の歴史もあるが、悪行だけでなく良い事もしているのだろうか?
  • 旗本奴は戦国乱世の気風を受け継いだ存在であり、江戸前期に現れた。彼らは歌舞伎者とも呼ばれ、水野重郎(十郎)左衛門や白柄組などの徒党の御家人が代表的だった。彼らの歴史には処刑や割腹もあり、その悪行が本当だろうか?一方で、良い事もしていただろうか?
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旗本奴は悪者として描かれますが実際はどうだったか?

 戦国乱世の気風を引きずって江戸前期に登場した彼らは、 歌舞伎者、とも呼ばれ、その代表は、 水野重郎(十郎)左衛門や白柄組などの徒党の御家人らしいですが、 実際に処刑されたり割腹もしたので、乱暴狼藉も本当なのでしょうが、 【質問】:悪行だけで、良い事はしてないのでしょうか? 映画では悪者で、由井正雪と組んで悪巧みするのも御座いました。 これに対し、幡随院長兵衛などの町奴は良者に描かれますね。 http://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/d49b0bf3e8abb3f61a59f77b5d978035 この方のブログでは、戯作が書かれた明治期は反徳川の時代なので、同じく反幕府であっても御家人なら悪く描かれて、さもありなんと云う事でしょう。 暴れ者の過去の歴史を辿ると、 ◎平安末に荘園制に離反した士族である「悪党」や、悪党的性格が有ると言われる、芸能の民・遊行僧などの漂泊民。 ◎南北朝~室町の「バサラ」大名;佐々木道誉(足利尊氏の盟友)。これは猿楽師・連歌師や野伏を庇護してたと言われる。屋敷に花を立て大宴会を催したとも。 ◎そして江戸初期にかけての「歌舞伎=傾き者」、それが旗本奴や町奴に直結した。 この流れから言うと、奴も、能楽や闘茶・華道、歌舞伎などの日本の美意識・伝統文化を担う、中心的在り方とも取れるのですが、如何でしょう? ご意見も受け賜りたく存じますが、もし御存知でしたら資料や論考、新解釈の小説等も御紹介頂けますと有難いです。

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回答No.4

江戸時代、観劇は庶民の娯楽で、支配層である武士にとっては「悪所」でした。 西洋では芸事は貴族のパトロンの下に行われていたのとは好対照です。 さて、客層が庶民ならば、客に受ける演目を掛けるのは常道と言えます。 「極付幡随長兵衛」等は其の中で生まれたものです。 何も旗本が全員悪人で、侠客(ヤクザ)が善人等は議論を待つまでも無い話です。 ただ、市井をウロツイテいる旗本や御家人は無役ですから、台所は火の車以上のものがあり、中には武士階級の身分をカサにゆすりタカリをする者も当然いました。 何しろ腰に人切り包丁を手挟んでいます。 まずヤクザと全く変わりません。(むしろ悪い、幕府の裁定は武士寄りであるのは当たり前ですから) しかし経済を庶民に依存しているヤクザと、禄に依存している武士とでは庶民に対する態度も違いが出て当然です。 悪人どうこうと言うより、立場の差ではないでしょうかね。

marc2bolanti
質問者

お礼

 今晩は。御回答、感謝いたします。 成る程、立場の違いと台所事情ですね。  無役の旗本・御家人や浪人の食い詰め者なら、身分をカサにしての狼藉もほぼ許されたのでしょうね、合法と云わないまでも。 黙認でしょう。  敷衍しますとこれは、旗本奴等の無頼の徒だけでなく、 役付きの武家でも庶子は無論、嫡男でも武士は乱暴働けたという事だと思い当たりました。  何せ、水戸光圀は十代の頃、試し切りの為に辻斬りを犯してますね、江戸時代の何冊かの伝奇に出てるそうじゃないですか。 家臣の小姓を事情は兎も角、手打ちにもしている、。  あの後の名君と賞賛もされる藩主ですらそうなら、 巷に出没する刃物持った××、乱暴狼藉横行してたのでしょう。 仰るようにヤクザより始末悪いかも知れない。 一説によると江戸中期以降の無宿渡世人や侠客どうしの出入りでも、普通は止めを刺さない慣わしがあったそうです。  又、幕末ですが、次郎長は灌漑などの民生にも手を染めて、だから風評どおり庶民にも一定の人気があったのは確かなのでしょう。  比べて武士は・・という事ですね。 しかし、ならばこの、 旗本奴のみが悪し様に言われるのは、同じ武家でも負けた方だからとも言えそうです。 処刑場での振舞いだけは堂々としたもので、見るべきものは有ったと言われてますね。  まあ私が肩を持つのは、その風体に関してなのですが。 どうも有難う御座いました。

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noname#196757
noname#196757
回答No.5

こんにちはmarcさん。 お久しぶりですがお元気でしたか? 私は今日は病院で・・・定期健診のようなものです。 小生意気な若い医者に脅かされて・・・・ marcさんの補足があったことを知りませんでした。 運営から連絡もありませんし・・・ この2日ほどCiaopolpoさんとお話していて、 「鎌倉はやはりmarcさんでしょう・・・」 「ああ、そうだ!marcさんがいた!!」(笑) それで今補足文を拝見したのです。 Ciaopolpoさんが「亀の手」の写真と言っておられたが、 何処にそんな写真が? 大体が嘘を言ってもらっては困るのです! 若い人ならいざしらず信じたままあの世へ逝くかも知れません。 鎌倉、今回は「紫陽花」が楽しみです。 一応、6月の9日頃に千葉を出たいと思うのですがどうでしょう? 8日が日曜日ですしね、それほど人もいないでしょう・・・ この度は鎌倉から少し足を伸ばそうと考えております。 marcさんのお勧めのコースがありましたら教えてくださいな。 鎌倉山から瑞泉寺もねぇ・・・空気も薄いでしょうし。 あなた、経を唱えながら歩けばと言いますが、 私も「般若心経」は得意ですが、 お経を唱えながら倒れたら本当に洒落になりませんからね。 まだ時間もありますので、 暇なおりにでも・・・ ああそれと、もしCiaopolpoさん読むことがありましたら、 北鎌倉の駅の横の「光泉」なのですか?お稲荷さん・・・ 開店そうそうでしたかね? 何やら時間がかかるとか言われて・・・私、待つの嫌いなのです。 その為に時間つぶしに歩かされて・・・本当に往生しました。

marc2bolanti
質問者

お礼

 お早う御座います、nitens様。 当方も毎月病院通いです、命の別状御座いませんが薬が欠かせなくなっちまった、些かウンザリですね。   若輩のお医者は逆に脅さなければ成りませぬ(笑)。赤髯とか「生きる」とか無理やり見せて。 未だ教条・マニュアル頼みで人文的見識など無いでしょうからね。 心意気が如何に身体にも影響するか、など口から出任せでも導いて差し上げないと(笑)。  若造と言えば、侠客映画で昨日初めて、東映での人生劇場第一作目「飛車角」漸く観れました^^。 その宮川役の健さん、ひ若い!佐久間良子の演技もそう、沢島監督の演出のせいでしょうか。 健さんは錦さんの宮本武蔵での小次郎役もそうですがデヴュ間も無く未だ格が無い、まあ下手ですね^^。 東映社長も呆れたそうで、。  しかし鶴田さんとは違ったそのヤサグレ度に注目した、岡田茂と大川社長・マキノ監督は、時代を見る眼と勘が優れてたのでしょうね。あの大抜擢が無ければ映画史も変わったものとなってました。 映画は三角関係でメロドラマ寄りでしたが、移籍で復活の鶴田さんと、 円熟の、月形さんの吉良常は思いの外お優しくて新鮮でした。  「亀の手」の画像は、此処のNo3,さんへの御礼に添付しときました(^-^)/ これの良い処は海に入らなくとも獲れるとこ、干潮時に水面上に顔出してる岩の隙間にこびり付いてますから。おみ御付けで良い出汁が出て旨いです^^。  さて、紫陽花は明月院ですか?休日開けなら大丈夫だと思います。 梅雨から夏場、他は閑散としてますが、紫陽花寺だけは他よりは混雑気味かも、道が細いので。 週末、特に金曜は日帰りの修学生徒が多いので、そこさえ避ければ宜しかろうと思います。  北鎌倉のあの地は山向こうの鎌倉市街地よりも標高が高いですので、峠越えで鎌倉市街に入るには、上りより下りが長い。  幹線の鎌倉街道;巨福呂坂も北からだと自転車でも昇れますが鎌倉側からだと降りて手押しです。  従って、山に御上りでしたら北からだと楽ですよ!!市街地を取り囲むあの尾根は「鎌倉アルプス」などというイケ好カナイ名前が付いてる。 一方<鎌倉山>と呼ばれるほうは西鎌倉の丘陵地、東急などによって大正以降に開発された別荘地でしょうか。旧市街の住民が「あっちは鎌倉じゃあない。」と言い張りますね、どっちもどっち、気取るところは同じです(笑)。もっと古参の漁民や百姓家も御座いますから。  紫陽花寺から足伸ばし、建長寺も訪れられますなら、壮大なる伽藍の奥、突き進んでくと鎌倉アルプスまで直ぐ登れます、北側からなので。半僧坊~十王岩、と尾根伝いの天園ハイキングコース。 覚園寺に降りる分岐点の百八やぐら、其処まで15分位でしょうか。其処から瑞泉寺までよりは随分近いです。 この建長寺側の尾根は視界が随分開けてた印象。 まあこちらでも矢倉は百八あるらしいので宜しかろうと、。 瑞泉寺裏矢倉が良いのは、ひとえに西日が入るからです、そちらは櫻か紅葉の季節が良かろうとも思います。 其処から低い峠越えで、明王院や浄妙寺へ抜けるコースは既に紹介致しましたが、こちら東鎌倉;金沢街道沿いは足利所縁が多く、以前、南北朝時代に御興味との事でしたので。  ところで建長寺で愉快だったのは、若い修行僧が市内を読経しながら行脚するのですが、我が家の前で二人が大喧嘩始めて、修行も何もあったもんじゃない、あわや取っ組み合い始めるとこを、うちの母親が止めに入って、後で大笑いですが、それも最近はすっかり見掛なくなりましたね、、托鉢僧というのも、。 建長寺入口の一寸手前、道渡って右には亀ヶ谷の切通しで鎌倉西口方面へ。こちらは海への視界は無しです。でも朝比奈と並んで最も古えの、馬が通る道の趣き御座います。抜けた辺りが川端や小林が住んでた処でしたか、。 また、建長寺のほんの先、鉢の木Cafeを過ぐると峠の頂点、右には閻應寺、有名な閻魔様のお寺です。あとは下りで八幡宮は直ぐ其処です。  いずれにしても鎌倉には一度、外から峠越えで入るルートを堪能して頂きたく存じます、すると如何にこの地が天然の要塞かが判ります。海と陽光が眼に映れば、その先、補堕落浄土も連想されたのでしょうね。 峠越えは、時代劇;股旅者の血が騒いで私はひどく魅かれるのです、別世界への境界越えというのは、。  他にも金沢街道から逗子へ抜ける鎌倉一深い谷とか御座いますが、それらは又の機会に。

noname#202494
noname#202494
回答No.3

佐々木道誉の名が見えましたので、本のご紹介だけでも、と思い、回答致します。 山田風太郎の”婆沙羅”です。 http://www.amazon.co.jp/product-reviews/B00EDYNQKK/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1 こちら、太平記の面白いところをまとめて、登場人物が全部妖怪のように描かれていたほかは、何も覚えていないのが残念です。でも、山田風太郎さんらしく、読みやすかったのは覚えています。手元に本がないので、不思議なことに、佐々木道誉が、何かの小説で読んだ足利義満と重なってしまっています。世阿弥を可愛がるところを何かと混同してしまっているように思います。 ご質問の、町奴と旗本奴の対立ですが、歴史的には、”どっちもどっち”だったのではないでしょうか。。。客観的に見ると、一般市民にとっては、あまりお付き合いしたくない相手。。。だったように思えます。 河竹黙阿弥の他の作品。。。三人吉三、十六夜清心、切られお富、白波五人男、河内山、魚屋惣五郎。。。と並べてゆくと、小心な、運命に操られる悪党づれをうまく人情話にしておりますから、町奴・旗本奴共に、”悪党”と見ても良いかもしれません。長兵衛さんの肩を持つのは、”悪党にも一分の理”ではないかと、考えます。 ご存知のとおり、(新聞の三面記事のようなオペラと同じく、)歌舞伎も、当時の事件や社会背景を風刺したものもあり、お上のお咎めを受けないよう、吉良上野介を高師直などと呼んで、時代も鎌倉時代に直したり工夫したと聞いています。そんな伝統を受け継いだ、”幡随院長兵衛”の可能性もあるかしら、と思いました。 初上演が明治にはいってから。。。お江戸の地が、薩長のやからに征服されてから。。。となれば、お江戸の昔を懐かしんで、水野は薩長、長兵衛さんは東京の庶民、という、図も描けるかもしれません。 叔母の嫁ぎ先がお旗本の出で、石高は少ないのですが、やはり、とにかく格式が高いです。叔母の出は、(私の母方ですが、)地方の大名の分家のご家老だったのですが、格式ではかなうものではありません。まったく格下の扱いを受けて苦労していました。皇室に嫁いだ美智子様のようです。 そんな江戸っ子のプライドを考えると、将軍様のお膝もとの江戸人・都会人が、田舎ものに支配されていた時代ですので、薩長政府の専横は、格好の風刺の対象だったでしょう。 その当時の歌舞伎界を舞台にした推理小説で、北森鴻の”狂乱二十四孝”は、面白かったです。河竹新七当時の黙阿弥が謎解きに活躍します。

marc2bolanti
質問者

お礼

 今日は。 本日図書館に行って取り寄せ申請しました。 山田風太郎の”婆沙羅” はとても惹かれます。 少年の頃は私は伝奇物ばかり読んでましたが、風太郎物は未だ一冊しか、。買ったまままのも。 読む前に映画化されるのが多くてそっちを先に観てしまい、後でいいやとなってる、。  先日NHKアーカイヴで「・・風太郎の戦争日記」だかを観ましたが、あの方は兵隊の手記で読める物は全て目を通して、書庫に膨大なメモや資料が残ってた、。  何かお書きになるつもりだったのか? しかし戦争に関しての本は出版されなかった模様。  番組では生前の書斎で、三國連太郎氏が風太郎役で朗読されるのですが、その戦争感・戦後への述懐は、作家の中でも最も見識深いものと見えましたよ、そうは見えない作風ですけどねぇ。しかし結局書けなかったのは総括する力量に欠けてたとも言えます。  さてこの、幡随院モノ。河竹黙阿弥以前の、1820年代、 四世鶴屋南北の「浮世柄比翼稲妻」が最初で、そこから「鈴ヶ森」と「鞘当」の演目が派生して独立したそうですね。  その頃なら侠客と庶民は連帯感があったのでしょう。 江戸前期は皆さん仰るように、旗本も町奴も傍迷惑な厄介者なのかも知れない。しかしいつの時代もその無頼を真似たい庶民の庶子が居ますね、直侍や私のようなのが^^。  水野の祖父は福山藩主なので、長州と言えるでしょうから、 幕末から明治の庶民は、水野を敵役と欲したかも知れませんね、  それで黙阿弥は其処を強調したのか、。 しかし江戸でも幕府や武士の圧制に反感持つ者も居たでしょうから官軍を解放軍と捉えた輩も居たのかな、、我が家のような徳川家来は勿論、薩長憎しですが。 でも西郷さんは皆好きなんですよね。 山縣有朋とかの長州×は評判悪いです。  孫の十郎左衛門は本当は長州にはあまり関係無いのでしょうね。 些か気の毒な気もします。 子孫や末裔の方にお尋ねした方が良いのかも。 十郎とは別腹だそうですが俳優の、天知茂さんが御子孫だそうです。   考えたのですが、勝った者中心の歴史著述の傾向を割り引くと、 旗本奴というのは生まれた時代を間違えた不運な連中とも思います。  太平記の時代は裏切り横行が当たり前、仁義などは無い時代。 合従連衡も当然。戦国でもそうでしょう。水野みたいのも居たと思う。 理念で優れてた武将は、それ程多いとは思えません。 義経も戦では当時の常識破り反則紛い、頼朝は非情の手段を間違えて肝腎の当家の統治も終焉させてしまった、。  旗本奴は覇権争いに未だ郷愁持つ、時代錯誤アナクロの為せる業なのかも。  幡随院殺害は実際の事件と伝えられてますが、やはり贔屓目に描かれてるようです。 ご紹介の<河竹新七のミステリー謎解き、>も興をそそられます。 もの凄い読書量と記憶力で、しかも下層民への情も厚いとなれば、。  TV朝日が、歌麿が探偵する、水谷豊主演シリーズ放映してるけど、そんなのよりリアルな感じがします。  叔母様のお家、地方の家老出よりも、やはりお旗本の方が上ですか。 もしや華族階級に叙せられてらっしゃったのか、。旧華族は最近までも外務省に多かったようですが、己れを‘閣下’と呼ばせてふんぞり返る輩多くて皆辟易としてましたよ。 私の処は赤貧の武士階級で、却って良かったとしましょう^^。 どうも有難う御座いました。 では  追って:以前、Ciaopolpoさんには紹介致しました食材、 Nitensさんに、間違った名称記してしまいましたので訂正させて下さい。  「亀の爪」は正式には{亀の手}でした^^。 http://www.umai-mon.com/user/scripts/p_product.php?product_id=25242   採る者も少ないので、高価で取引されるらしい、此処はそれ程でもない模様。 私は相模湾からタダで貰ってます^^、今度売ろうかな、。

noname#196757
noname#196757
回答No.2

こんにちは。 この4~5日御無沙汰しておりましたが、 今度は歴史の質問をしておられた・・・ 最近は陽気も良く、浮浪児のようなことをしております。 今、NO1の方の回答とお礼を拝見させていただいて・・・ そう言えばこれをお話するのを忘れておりましたね。 御先祖が幕府御祐筆・・・ 小役人ではありませんよ、立派なものです。 さてその上で水野十郎左衛門ですが、直参旗本大身の家ですね。 >悪行だけで良いことはしていないのでしょうか? さあ・・・別に水野のことを深く掘り下げた史料もないようですし、 素行不良で評定にかけられ切腹した、 この事実からしか判断のしようがありません。 ただまあ人間ですから芥川の「蜘蛛の糸」のガンダタ?でしたか? あの悪人でも良いことはしますものね 私は水野のような人間が出た背景は幕府への不満と思います。 これは大久保彦左衛門の「三河物語」などを読むと頷けるのです・・・ 由比正雪等、浪人の不満とはまた別のものですが。 播隋院長兵衛が善玉? これもねぇ、講談や映画では男の中の男ですが、 私は似たりよったりのものではなかったろうかと(笑) ただ、彼をしてのあなたの言葉で言えば「傾き者」? これが後に「侠客」に形を変えるようですね・・・ 池波正太郎さんに「侠客」と言う一編があります。 水野と播隋院を描いて面白いのですが、ただまあ小説ですから、 それを頭に入れて読むぶんには面白い読み物でしょう。 長くなりましたので「傾き者」のことを少し・・・ 旗本奴、町奴が伝統文化の担い手?まさかに!!! 真の意味での「傾き者」は例えば幕末で言えば「平野國臣」、 私は彼のような人物が「傾き者」であろうかと思います。 それと史料ですが、山本博文さんと言う歴史学者がおられる。 彼も少し触れていたと思います。 どのタイトルかは忘れました・・・ この人の著書であなたにお薦めするのは「ある御留守居役の日記」 まことに面白い本です・・・暇でもありましたら。 さて、最後に先日のお礼文の中で・・・ 私が切子と「獺酒」で自慢?まさか・・・(笑) あなたとその話をしていたことが嬉しかっただけです。 来月にでも教えていただいたとうり歩きましょうかと今、考えております。 ただ、あまり遅くなりますと「梅雨」になりますしね・・・ 風情があっていいでしょうか?(笑)。

marc2bolanti
質問者

お礼

 今日は。 若葉に誘われあちこちと、お歩きのようです(笑)。 浮浪というと、「浮浪雲(ジョージ秋山」思い出し、 あの方は女物の着物を羽織って、浮かれ歩くのでした。表向きはそうでも一端、事有ると眼光鋭く立ち回り・・、。   旗本奴も無理にでも評価するならその女物の華美な着こなしでしょうか。 江戸は末期まで、貧乏な庶民の着物は男女あまり区別無く、同じ物を共有で着たりしたそうですね。 現代の着方は後期の改革;奢侈禁止令やらで強制され、その流れで明治以降でっち上げられたものです。 男物なんぞは皆{若旦那}の着こなしに為っちまった。あれは遺憾イカン! 角帯の結びも貝の口一辺等、元はイナセなものでしょうが全員それでは野暮の骨頂でしょう。  仰せの「平野國臣」は有職故実研究為さって、月代剃らずに伸ばして古い太刀差して笑われながら、犬追物復活目論み幽閉されたとか、。我が意を得たり!です。傾いてらあ!  倣って私も復古主義実践。 戦前の良い仕立ての着物がオークションで格安で手に入る。女物の襦袢なども素晴らしくモダンなデザイン辻が花から抽象まで。 それを寛文風の筒袖にミシンで細めて小袖のように羽織る。 小袖も浴衣も元は下着が表着にされたのですからそれで良い。 安土桃山の屏風絵や阿国の姿では、帯でなく紐ですね。 これが楽です!直ぐ着れる、脱がすのも簡単(笑)。 歌舞伎者で念頭に置いてるのはそんな姿。 型も大事だと思うのです、文化としては。 江戸初期までは女性も、夏は小袖を肩脱ぎで、腰巻にするのが正装でした。 http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0000475妙然尼像. 武家の奥方も、あぐらが正式だったそうですね。片身替り・段替りも当たり前。 ああ桃山は楽だったなあ、ダメでしょうか?男が派手なのは。  水野なども格好だけはそんな気風だったのだと思います。 映画では大久保彦左は彼らの後見人で描かれる事も結構ありますね。 確かに長兵衛のような在り方が後の「侠客」に直結してゆくのでしょうね。 武士が単なる暴れ者に落ち、代ってその魂はそっちに受け継がれたという、。今の人には東映任侠も時代劇ですものね。 「侠客」任侠といえば聞こえはまだ良いが、仁義無きヤクザ暴力団と成るにつれ忌み嫌われる。「奴ども」もそんな両面のある半端モンだったのかも知れません。 御紹介の本も読んで見ますがその前に、図書館で取り寄せて貰った、 ◎「誰も書かなかった清水次郎長」が到着したので先づそちらを。  尚、家の祖先は役付きでも、先祖書きには十二人扶持と記されてます、貧乏でしょう。特に幕末は、副業で根岸で寺子屋を開いて食い繋いでたようです。  追って:鎌倉は山に登られるのでしたら、覚園寺も瑞泉寺も山門脇辺り、参道を一寸逸れた処に細い入山道が。小さな標識は立ってます。地図で御確認を。昇りきれば後は平坦な尾根道。  滑らない靴と水分補給は必須です。あと杖も、これは山道に枯れ枝がいくらでも転がってるので丈夫そうなのを選べば代用可能。  梅雨場はどうでしょう、滑るので私も入った事ありません。  特に下りで、砂岩剥き出しの処、段を掘ってはありますが滑ります。やはり雨の日は避けた方が宜しいかと、。 朝比奈の切通しは抜けたあと駅まで遠く、今地図見たらバス停はあるようです。  山中も別れ道に標識ありますが、どっち向いてるんだか判らないようなのも、。東西南北は太陽の方向で判断はできますが。 矢倉で一番お薦めしたいのは、瑞泉寺奥=裏手の尾根のでしょうか、 何せ眼下は、夢想礎石の庭園ですから^^。 緑生い茂ると見えないですが、落葉の頃と春先夕暮れは、園のある西の方、陽光こぼれる浄土のよう、。 山桜の頃なら白き花弁はらはらと、確かに其処でなら逝っても良いかと思いまする(笑)。  木漏れ日一つ一つが何やら有難いお経のようでもあり、これからだと不如帰の鳴声も、、仏の化身かと。(夢想の庭の手入れは最近の僧侶・庭師の見識低く、わが家人の画家が怒ってます。比べればそれより山の上の矢倉の方が古色蒼然の趣きのようです、自然じねんが手入れしてますから(笑)。 どうぞ楽しき旅を!。

marc2bolanti
質問者

補足

今日は。nitens様、皆様、申し訳御座いません。 鎌倉の山の件で一寸訂正致します。現地を見たところ、 覚園寺の登山口は、山門脇ではなく、その手前250m、山に向かって右手側。 庚申塔とお地蔵様のある角でした。 天園ハイキングコースの大きな標識が御座います。 此処から尾根の分岐点までは直ぐですが、尾根伝いに、瑞泉寺までは小一時間みたほうが宜しいでしょう。 北条家などの矢倉があるようです。新田氏の鎌倉攻めを、法螺貝吹いて知らせたという貝吹き地蔵というのも、。 どうも済みません、間に合いましたでしょうか。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 詳しくご存じのようなので、指摘するのに勇気がいりますが、旗本・御家人階層の武士の内、無頼化して周囲の迷惑になった人間たちを、「奴」という、まあ、一種の蔑称をくっつけてさげすんだのです(いろんな事典類)から、旗本奴は、悪者です。  ※奴:本来は「家っ子」。・・・ 中略・・・ 古くは賤民。奴婢。  出身階層が良いだけで、いわゆる「半端物」ですので、悪く描かれて当然、ですね。  同じ旗本、御家人でも、まともな人たちは立派な生活をしていましたよ。そういう人は旗本奴の定義からはずれます。  夜遊びなんてできません。一々お伺いをたてて許可がでなければ(めったに出ない)、日帰り(夕暮れまでに帰宅)以上の旅行もできませんでした。  奥方やお嬢様に至ってはほとんど外出もできない状態。  どんな大商人でも、どんな経験豊富な老人でも、貧乏でボロを来た若者武士にでさえ、上席を与えてへりくだったのは、根本的には「武士が尊敬される存在」だったからです。  日本文化に大きな影響を与えた風変わりな人たちと違って旗本奴は、べつに他に誇れる信念・美意識などを持ってそれに従って行動したというのではなく、単なる気分屋の悪党。迷惑をかけ、ひんしゅくをかった相手も、権力者ではなくて弱い庶民。身分をかさにきた強姦犯や強盗犯です。  まったく、似て非なる物だと思います。  資料は、各種歴史事典、稲垣史生の歴史考証事典、江戸300年普通の武士はこう生きたほか。小説では、石川英輔の大江戸シリーズなど。  

marc2bolanti
質問者

お礼

御解答いただきまして感謝致します。 どうぞご忌憚ない処を御指摘下さい。当方はwikiの記述程度ですので。  畏れるとするならば、私先祖は深川木場の材木組頭、些か荒くれの気風の場所で御座いまして、その無頼の血でしょうか(笑)。 しかし父方は幕府勘定方の祐筆;まあ小役人で、仰るように真面目だけが取り得の家風。 この人達その子孫含めて実につまらない連中ですよ、何かあっても事なかれの官僚主義で。 そんなもんで一寸かぶき者に注目しました。  仰る処は凡そそうだと、私も思いますね。威張り散らした嫌な奴ら? 奴も元は「ぬ」でしょう。でもその後の語の変遷辿ると、 町奴は無論、冷奴、奴凧、芸者の奴・・と、悪い語感だけなら、そう名付けないはずです。逆に「奴刑」なる差別待遇も為政者側から科せられた。両面ご座いますね。  水野や大鳥居いつ兵衛(大鳥一兵衛、逸平)らも、目下の町人に対しての乱暴狼藉だけではなく、幕政に対しての反抗の面も在ったのでは? 捉えられても仲間の名は吐かなかったというし、末期の死に方は「歌舞いて=傾いて」もいたかと、。 武家の嗜みは教わってたろうし、それなりの美意識はあったと思います。 勿論大した理念があったわけでなく、私が評価するのはその華美な着こなしですね。彼らと違うやも知れませんが寛文小袖などは粋なもんです。  これも悪党的な伝統の二番三番煎じと言えなくも無い。風狂の伝統を型だけ真似た最後の悪足掻きかも知れない。 旗本奴ではないけれど、由比正雪なんかは真面目な理念で動いてましたよね、だから御家人くずれがあれだけ道場に集まった。 当時巷に浪人が溢れたのは幕府の失政だと言って、。  大転換期にはよくある事で、どんな為政者でも混乱を招くのは必至であって、それは大震災時の与党だけを非難しても事を見誤るのと同様でしょう。 幕府もそうせざるを得なかった。でも正雪の乱後、その意を汲んで改革もしましたね。  旗本奴も、その食い詰め者の浪人達の不満と考えれば少しは同情する処もあるかも知れません。  只ひとつ疑念が残るのは、町奴だけが良く描かれるのは一方的なのではないか?という事なんです。 同じ奴、悪さをしていないわけが無い。 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/07/post-d0dd.html  こんな御意見も御座います。 御紹介の書物ですが、私もSFは好んで読みましたが、彼らのノンフィクションの方は一寸疑い持って割り引いて捉えてます。しかし、 石川英輔氏のは、調べたら江戸学の田中優子さんとの対談が2冊もありますね、これは楽しみだ。私の着物の先生のようなものですから、。  ご紹介、ありがとう御座いました。

marc2bolanti
質問者

補足

皆様ありがとう御座いました。〆に致します。 御紹介の書物、石川英輔氏のは未だですが、婆娑羅と、誰も書かなかった次郎長は、興味深く読ませて頂きました。 婆娑羅ー侠客ー無頼、へと、、人を誘う魅力は御座いますね。 無礼講が許される、祭禮という催事、 関連でそれについての映画の質問、新たに立てましたので、お暇御座いましたら又どうぞ宜しくお願いします。

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    江戸時代の旗本・御家人で、林大学頭、囚獄・石出帯刀、駿州久能の榊原越中、関東郡代・伊奈氏や一部の代官(江川家)の他に、世襲制の役職の家々が他にありましたら教えて下さい。

  • 旗本

    一千石・三千石・五千石の旗本の場合、家臣の人数・構成、屋敷の数・坪数はそれぞれどの程度の陣容だったのでしょうか?

  • 旗本

    旗本・御家人に派閥の様なものはあったのでしょうか? 小普請組ごとに団結して何かするといった事はあったのでしょうか?

  • 旗本

    目付は布衣の役で旗本の監察を担当していたという事ですが、側衆や留守居・駿府城代・番頭など最高位の旗本でも目付に対しては慇懃に接したり、頭が上がらなかったりしたのでしょうか?

  • 旗本

    遠国奉行の中で、長崎奉行の他にうまみの大きい任地はどこだったのでしょうか? 逆に他の職からの左遷の地やあまり好まれなかった任地はあったのでしょうか?

  • 旗本

    旗本は何千石くらいから下屋敷を持ったのでしょうか?

  • 旗本

    江戸時代は老人を大切にしたので、80歳や90歳の老人でも役職に在任出来たという話を本で読みましたが、本当だったのでしょうか?